厳島の戦い

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 厳島の戦い
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 厳島神社 大鳥居
戦争戦国時代 (日本)
年月日1555年10月16日天文24年10月1日
場所安芸国厳島
結果毛利家の勝利、陶家大内家の弱体化
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 毛利軍15px 陶軍15px
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 毛利元就15px
毛利隆元15px
吉川元春15px
小早川隆景15px
陶晴賢15px
弘中隆包
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 4,000 - 5,000 20,000 - 30,000
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | - 4,000(諸説有)

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厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は、天文24年10月1日1555年10月16日)に、安芸国厳島毛利元就陶晴賢との間で行なわれた合戦である。

背景

これより前の天文20年(1551年)、陶晴賢は大寧寺の変大内義隆を討ち大内氏の実権を握った。対して毛利元就は陶と対立する。

1554年、毛利元就は厳島を占領すると宮尾城を接収・補修し、襲来してきた陶軍を撃退する。

同年9月、宮川房長ら陶方の軍が安芸に侵入するも折敷畑の戦いで敗れていたが、当時晴賢は石見津和野城主・吉見正頼を降していたため戦闘が大規模化することはなかった。翌年の4月から6月にかけて両軍の間で小競り合いが発生したが、この時もやはり本格的な戦闘には発展していなかった。

合戦の経緯

宮尾城には陶方から毛利方に寝返った己斐直之坪井元政が約500人の兵力で守りについていた。陶晴賢はこれを攻めるために厳島に向けて出撃した。[1]

晴賢自身が厳島に上陸したのは9月21日10月6日)のことである。岩国付近を出発した時の船団の規模は500艘、兵の数は2万とも3万とも伝えられている。陶軍は厳島の大元浦に上陸し、厳島神社近くの塔の岡(現在の豊国神社付近)に本陣を置き宮尾城を包囲し攻撃を開始した。この時、晴賢は城を包囲したもののすぐには攻撃せず数日間を置いている。これは陰徳太平記によると、でいう悪日を避けたためとされているが、桂元澄が寝返るのを待っていたからだとも言われる。この攻撃の遅延が陶軍の敗因の一つという指摘もある。

一方の毛利軍も、主力が厳島の対岸に位置する草津城(現在の広島県広島市西区)に集結していたが、兵数は4千から5千程度であったとされている。この兵力差を埋めるために、元就は狭い厳島に実際に陶軍を誘い込み、身動きの取りにくい状況を作り出すことに成功したが、海上での戦いでより確実に勝利を収めるため、厳島により接近したうえで、晴賢が厳島から脱出するのを阻止するため伊予村上武吉村上通康伊予水軍にも援軍を求めた。この水軍はなかなか現れず元就も援軍を諦めたほどだったが、厳島に渡る直前になって約300艘が到着し毛利軍に加わった。

草津城から地御前に前進した毛利軍は9月30日10月15日)の夜半、荒天の中、二手に別れて密かに厳島へ向けて舟を漕ぎ出し、元就・隆元父子率いる主力部隊は島の裏側の包ヶ浦に上陸を果たした。この時、元就は上陸に使った舟を島に残さず全て対岸に戻させ、将兵に「後戻りはできない」という決死の覚悟をさせたと言われる。上陸後、闇の中で道に迷ってしまった毛利軍の前に牡鹿が現れ塔の岡へ導いたと陰徳太平記は伝えている。一方の小早川隆景率いる別働隊は、宮尾城を包囲していた陶軍の部隊に対し援軍であると偽って通過し有ノ浦に上陸、宮尾城の味方部隊との合流に成功した。

翌10月1日(10月16日)早朝、毛利軍は陶軍の背後(紅葉谷側)と城内(要害山側)から一斉に奇襲を仕掛けた。前夜が暴風雨であったことから油断があり、狭い島内に大軍がひしめいていた(厳島神社周辺に集まっていた)ため進退できず、混乱に陥って戦況の変化に対応できずにいた晴賢の軍勢は総崩れとなった。陶軍は我先と島からの脱出の舟を奪い合い沈没したり溺死する者が続出した。晴賢も島外への脱出を図ったが、海上は伊予水軍に制圧されており既に脱出の為の舟も部下の将兵達によって使い切られて無くなっていた。脱出することは出来ずに浜沿いに沿って大元浦に敗走するも、そこにも脱出の舟は無く、舟を求めて大江浦(又は高安原)に逃亡したがそこにも舟は無かった。結局ここで諦め伊香賀隆正の介錯によって自刃して果てた。晴賢に最期まで付き添った伊香賀隆正、柿並隆正山崎隆方らは刺し違えて自刃した。晴賢に代わって本陣で戦った三浦房清は最期30名余りとなり奮戦の末に討ち取られた。弘中隆兼・隆助父子は大聖院を経て山側に後退し弥山沿いのを駆け登った後、隣の山の絵馬ヶ岳(現駒ケ林)へ逃げ登り、10月3日まで抗戦したものの討ち死にして部隊は全滅した。

10月5日10月20日)には毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城(現在の広島県廿日市市)に凱旋、この時晴賢の首実検も行なわれている。この首実検の際に元就は、主君を討った逆臣であるとして晴賢の首を鞭で3度叩いたという(万代記)。この戦いでの陶軍の死者は4,700人にのぼったともいわれる壮絶なもので、戦後元就は血で汚れた厳島神社社殿を洗い流して清めさせ、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせたという。なお厳島は島全体が厳島神社の神域であり、島民の女性は月経の際には島外に避難するほど、血の穢れの禁忌は厳しかった。

その後

この戦いの結果、大内氏は急速に弱体化し、代わって毛利氏がその旧領を併合(防長経略)していく。そして弘治3年(1557年)には晴賢によって擁立されていた大内義長大友宗麟の異母弟で義隆の甥、一時義隆の養子となっていた)が自害し、大名としての大内氏は滅亡に至った。その後、北九州での対毛利戦争を有利に運ぶことを目的とした、大友宗麟による大内輝弘擁立が数度画策(大内輝弘の乱)されたが、いずれも失敗に終った。

検証

上記の合戦の経緯はおおむね、江戸時代に書かれた軍記物語である『陰徳太平記』を元にしている。この書は『甲陽軍鑑』などと同様史料的価値は低く見られており、史実とは異なる部分が多々あるとされる。また、晴賢が戦いの前に妻にあてた遺言めいた手紙も見つかっており、伝えられているような優位な戦況であればそのようなことはありえないため、実際はもっと小規模で戦力は拮抗していたのではないかという意見も出ている。

後年の豊臣秀吉の時代に行なわれた太閤検地では、周防・長門・石見半国といった旧大内氏領国を併せた石高は60万石から70万石とされており、ここから導き出される動員可能兵力はおおよそ2万強になる。だが、当時の陶晴賢の足下は政情不安であり、領国警備に兵を割く必要もあった上に、晴賢の動員令に従わなかった家臣や国人衆もいた。このため晴賢が動員した兵力が2万以下だった可能性も十分にある。

また、この厳島の戦いに関して、毛利元就は家臣たちに対して感状を発行していないのか、今に至るも感状が見つかっていない。このことから、そもそも毛利元就がこの戦を主導していたのか疑問視し、この戦いは村上水軍陶氏の戦いであり、毛利元就は漁父の利を得たに過ぎないとする意見もある(桶狭間の戦いでの織田信長の勝利に松平元康が便乗して勢力拡大に成功した、というような歴史的類例がいくつもある)。

脚注

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  1. 後世の軍記物では、『元就は「今厳島を攻められれば困ると元就が言った」という嘘の情報を流させたり、元就の家臣桂元澄が陶晴賢に対して内応を約束するという偽の書状を出したりするなどの謀略を使って、陶軍を厳島におびき寄せた』『陶方の弘中隆兼は危険であるとして厳島攻撃に反対した』といった記述が見られるが、同時代史料による裏付けがなく、創作と見られている。

参考文献

  • 森本繁戦史ドキュメント 厳島の戦い』(学研M文庫、2001年) ISBN 4059010340
  • 小和田哲男『戦国合戦事典』(PHP文庫)
  • 小和田哲男『戦国10大合戦の謎』(PHP文庫)
  • 小和田哲男『戦国軍師の合戦術』(新潮文庫)

関連項目