古河電気工業サッカー部

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テンプレート:サッカークラブ 古河電気工業サッカー部(ふるかわでんきこうぎょうサッカーぶ)は、かつて存在した日本サッカークラブ。古河電気工業のサッカー部として1946年に創部し、1991年から1992年までは「東日本JR古河サッカークラブ」と呼称していた。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)加盟のジェフユナイテッド市原・千葉の前身となったクラブである。

概要

古河電気工業のサッカー部として1946年に創部。呼称は「古河」で東日本旅客鉄道(JR東日本)と共同運営になってからは「JR古河」になった[1]1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)に創設時から参加した8つのチーム(オリジナル8)のうちの一つである。1992年にJSLが閉幕されるまで27シーズン連続でJSL1部に在籍し、下部リーグへの降格経験の無い唯一のクラブであった。また、日本のクラブとしては初めてアジアの頂点に立ったクラブでもある。

歴史

古河電気工業は1920年に足尾銅山から産出されるを主に銅線として製品化することを目的として、横浜電線製造と古河鉱業(現:古河機械金属)の電線部門が合併して誕生した会社で、戦前は古河財閥の中心企業の一つであった。サッカー部は第二次世界大戦後の1946年に創設された。本社は東京都千代田区にあるが、サッカー部は横浜市西区にある横浜研究所に本拠地を置いた[2][3][4]

当時は大学サッカーの時代でもあり、当初は同好会レベルであったが1955年、「社員の志気を高めるために」と社長が号令をかけて、バレーボール部とサッカー部の『強化五か年計画』を打ち出し同年、長沼健が入団し、チーム強化を一任されると実力を伸ばすようになった[5][6]。58年から長沼はプレーイングマネージャーとなり、1960、1961年には天皇杯を連覇した。古河電工の天皇杯制覇は実業団チームとして初めてであり、この制覇は大会学生優位の時代[7]にあった日本サッカー界の流れに終止符を打ち、社会人の時代へ移行させる足掛かりともなった。

クラブは1950年代から1960年代に掛けて全日本実業団選手権全国都市対抗選手権を制するなど社会人サッカーをリードする存在であった。

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古河電気工業サッカー部がホームスタジアムの一つとして使用していた国立霞ヶ丘陸上競技場

1964年東京オリンピック終了後、長沼や西村章一は、日本サッカーの抜本的な強化策として恒常的な全国リーグの設置を主張した[8]。この主張が認められて日本サッカーリーグ(JSL)が設置される事になった。これを背景にして同じくJSLの創設に尽力した事から三菱重工(現在の浦和レッドダイヤモンズ)、日立製作所(現在の柏レイソル)と併せて丸の内御三家と呼ばれるようになり、JSLの意思決定や日本サッカー協会に対し強い影響力を保ち続けた。

1960年代中盤から1970年代初めの主力選手には長沼の他に川淵三郎平木隆三宮本征勝ら後に日本サッカー界の重鎮となる面々が在籍した。現在も多くのOBを日本サッカー協会内に送り込んでいる。しかし、リーグ戦においてこれらの選手達を擁し、常に上位を維持しながらもタイトルには縁が無かった。

そこで70年代に入って奥寺康彦永井良和ら高卒の有望選手を育てる事に方針を転換。これが実を結び1976年に念願のリーグ制覇と天皇杯の二冠を達成した。この優勝の立役者となった奥寺は翌年にヘネス・バイスバイラーに認められドイツ1.FCケルンへ移籍した。以後、奥寺は9年間に渡って世界最高峰のリーグと言われたブンデスリーガで活躍し「東洋のコンピューター」の異名を得た。

一方、クラブは奥寺を放出した事で一時期低迷したが、80年代に入ると再び盛り返し、1985年には 岡田武史宮内聡吉田弘らを擁し2度目のリーグ制覇を果たした。1986年にはドイツから帰国した奥寺を迎えアジアクラブ選手権1986-87に参加。12月にサウジアラビアリヤドで開催された決勝リーグにおいてアル・ヒラル(サウジアラビア)、アル・タラバ(イラク)、遼寧(中国)を下し、日本のクラブで初めてアジアの頂点に立った。

1980年代末から1990年代初めにかけてプロリーグ化が具体的に検討され始めると、古河は古河単独での参加ではなく東日本旅客鉄道(JR東日本)との共同出資で新会社を設立する方針を採り東日本JR古河サッカークラブと名称を変更した。これは古河電工がBtoBを商業取引の専門とする会社であり、こうした会社の体質からサッカー部がプロ化するにしても対一般消費者向けの広告宣伝費という名目で資金を拠出するのが難しかったためである(三菱重工が三菱自工へチームを移管させた理由に類似している)。このため、古河電工と取引関係にあったJR東日本(古河が国鉄・JRへ鉄道の架線を納入)と共同でクラブをプロ化するという方策が示された。この当時は日本国有鉄道がJRに分割民営化直後に相当し、JR東日本は新鋭企業として積極的な宣伝広告活動を実施していた。この点で古河とJR東日本の利害が一致した。1990年代初めには、Jリーグ開幕に合わせ仙台市に移転することも検討されたが、仙台市がスタジアム建設案に難色を示したため、実現には至らなかった(仙台スタジアムを参照)。

クラブがJR古河になってから、それまでの日本人選手のみの純血主義を転換し、チェコ出身のパベル・ジェハーク等を獲得。外国人選手の取り込みを図るようになった。古河が迎え入れる外国人は中東欧を中心としたヨーロッパの選手が多く、当時はマツダや三菱など他クラブでも同様に外国人はヨーロッパからという方針は幾つか見られた。古河はJリーグに移行してもこの方針を長い間維持し続け、この外国人の選択の傾向は古河-市原・千葉の「色」の一つになっている。

1970年代当時は上下白のユニフォームを使用したが、1980年代は青と水色のストライプのシャツに青のパンツの物を使用した[9]。胸の古河のロゴはアルファベットで「FURUKAWA」で、ジェフの胸スポンサーとして提示していた古河電工そのままのロゴとは違っていた。またJR古河となってからは「JR EAST FURUKAWA」に改めていた。

略歴

  • 1946年 創部
  • 1960年 実業団チームとして初めて天皇杯を制覇。日本サッカー界は名実ともに実業団中心へ。
  • 1965年 第1回日本サッカーリーグに参加
  • 1987年 アジアクラブ選手権を制覇し日本のチームとしては初めてのアジアタイトル獲得
  • 1991年 東日本JR古河サッカークラブに名称変更

主なタイトル

成績

年度 所属 順位 勝点 監督
1965 JSL 3位 20 10 0 4 32 20 平木隆三
1966 3位 20 9 2 3 30 17 内野正雄
1967 2位 20 8 4 2 39 22 八重樫茂生
1968 5位 17 7 3 4 24 17 桜井頼己
1969 4位 14 5 4 5 20 20
1970 5位 14 5 4 5 21 21
1971 5位 15 5 5 4 24 24 小川宏邦
1972 JSL1部 7位 8 3 2 9 17 41
1973 5位 21 9 3 6 31 27 川淵三郎
1974 4位 19 7 5 6 25 24
1975 6位 17 6 5 7 34 22
1976 優勝 26 11 4 3 37 15 鎌田光夫
1977 6位 36 8 2PK勝 0PK敗 8 33 31
1978 10位 15 3 1PK勝 1PK敗 13 9 30
1979 5位 40 7 5PK勝 2PK敗 4 28 22 内野正雄
1980 3位 22 9 4 5 26 21
1981 5位 21 7 7 4 28 23
1982 5位 19 8 3 7 23 18
1983 7位 15 6 3 9 13 15
1984 4位 21 8 5 5 28 20 清雲栄純
1985 優勝 35 15 5 2 40 15
1986-87 4位 26 10 6 6 26 17
1987-88 7位 21 6 9 7 17 16
1988-89 6位 29 8 5 9 21 19
1989-90 4位 38 10 8 4 25 16
1990-91 9位 25 5 10 7 22 24 川本治
1991-92 7位 27 8 3 11 30 38

歴代監督

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古河電気工業サッカー部に所属した主な選手

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テンプレート:Col-end 他にプレーヤーの経験は無いが、サッカー部の運営委員を務めた小倉純二がいる。

参考文献

  • 『古河電工サッカー部史』 (古河電工サッカー部史刊行委員会、2004年)
  • 『日本サッカーリーグ全史』 (日本サッカーリーグ、1993年)
  • 『サッカーの物語・一個のボールにも熱いドラマがある』(田中孝一、KKベストセラーズ、2001年)

注釈

  1. 三重県サッカーリーグ所属の三重事業所サッカー部は「古河電工」でチーム登録を行っている。他に千葉県市原市で活動するVONDS市原の前身が古河電気工業千葉事業所サッカー部である。
  2. 日光事業所のアイスホッケー部(現在のH.C. TOCHIGI 日光アイスバックス)も強豪として知られ、横浜研究所のサッカー部と共に日光事業所のアイスホッケー部も会社からの全面的な支援を受けた。アイスホッケーとサッカーは古河電工にとって社技として扱われた
  3. 古河電工の前身会社のひとつ横浜電線製造が横浜に事業所を置いていたため、古河電工もこれを引き続いて横浜に事業所の多くを置いた。このためサッカー部関連の施設は横浜に集中し、チームは古河電工グラウンドで練習し、三ツ沢公園球技場(現:ニッパツ三ツ沢球技場)で試合をする事が多かった。三ツ沢球技場のバックスタンド裏に古河電工の社宅があり、ここに住んでいた選手も多かったため三ツ沢は頻繁に用いられ、古河のプロ化に際してはホームスタジアムの候補にもなった。
  4. 古河系のタイヤメーカー・横浜ゴムも創業地が横浜市(現在の本社は東京都)にあったことに由来する
  5. 『古河電工サッカー部史』古河電工サッカー部史刊行委員会、2004年、p15-50
  6. 『サッカーの物語』田中孝一 kkベストセラーズ、2001年、p67-72
  7. 当時、「サッカー」といえば、旧制中学(現高校生)、関東や近畿の大学リーグが主要であり、競技としても発展途上であった。
  8. この主張は、東京オリンピックでサッカー日本代表を指導したデッドマール・クラマーも同様の意見を日本サッカー協会に伝えている。
  9. このユニフォームは「ゼブラブルー」「古河ゼブラ」と呼ばれて親しまれた。マスコットにもシマウマが採用されて古河は「ゼブラ軍団」と呼ばれた。ジェフユナイテッドに移行して以降は1992年のカップ戦のみで使用され、その後新たに制定したチームカラーの黄色・緑色ベースに変更したため、ユニフォームは使われなくなったが、古河電気工業千葉はこのユニフォームを踏襲している。

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