佐藤謙一郎

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テンプレート:政治家佐藤 謙一郎(さとう けんいちろう、1947年3月8日 - )は、日本政治家、元衆議院議員(当選5回)、元参議院議員(当選1回)。

来歴・人物

佐藤一郎・淳子夫妻の長男として、東京都自由が丘に生まれる。父・一郎は、大蔵事務次官を経て自由民主党から参議院議員、衆議院議員となり、佐藤栄作内閣で経済企画庁長官を務めた。母・淳子は立憲政友会所属の代議士で国務大臣厚生大臣等を歴任した金光庸夫の娘である。

1971年東京大学経済学部を卒業。東大在学中は、町村信孝らと大学改革実行委員会を組織していた。卒業後、NHKに入局し、記者として勤務する。1974年にNHKを退職し、フリーのジャーナリストを目指すが、次第に消費者運動から食品公害問題に軸足を移す。学生・市民活動の支援事業や学校幼稚園設立などをめざした。

父が総選挙で落選したため、1979年に父の秘書となり、1983年神奈川県議会議員選挙に横浜市戸塚区から立候補し、当選。2期目の途中、1987年11月の参議院補欠選挙に自民党公認(清和会)で立候補し当選、国政へと進む。1990年第39回衆議院議員総選挙には参議院議員を辞職し、引退した父の後継者として自民党公認で立候補し、当選(当選同期に岡田克也佐田玄一郎藤井裕久鈴木俊一亀井久興中谷元森英介福田康夫石原伸晃河村建夫小林興起塩谷立古屋圭司細田博之松岡利勝小坂憲次山本拓赤城徳彦簗瀬進山本有二など)。政治改革推進派の立場を取り、石破茂らと自民党内に「政治改革を実現する若手議員の会」を設立し、事務局長に就任する。派閥は安倍晋太郎三塚博派に属した。

1993年、政治改革をめぐって宮沢内閣不信任案が可決されると、三塚派の先輩武村正義らとともに自民党を離党し、新党さきがけに参加。さきがけでは、党総務局長、選挙対策委員長などを務める。しかし、新党さきがけが自民党・日本社会党両党と連立政権を結成するに及んで、さきがけが自民党の復権に荷担したとして、1995年に新党さきがけを離党し、無所属となる。

同年12月、市民との対話を求め、横浜市中区居酒屋洗心洞」を開店(2002年閉店)。1996年民主党結成に参加し、党環境部会長や「次の内閣」のNC環境大臣、NC国土交通大臣などを歴任。この間1999年には、かつて自民党代議士であったにもかかわらず衆院本会議の国旗国歌法案の採決で反対票投じた。2000年には、市民の学舎として「洗心洞大学」を開校する。2002年の横浜市長選挙では、中田宏陣営の選挙対策責任者を務めた。専門は環境政策である。公共事業のコントロール(抑制)に力を入れる。2003年には静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わっている[1]

2005年9月11日第44回衆議院議員総選挙で初の落選を喫した後、次期総選挙においても民主党の公認が内定していたが、2007年10月25日に「党勢が拡大している中、若い人に道を譲りたい」として公認内定を辞退し、政界からの引退を表明した。

現在は自然食宅配会社の配送員を務めている。きっかけは議員時代に訪れた村の農家と都会を自分の手で結びたいとの思いから。[2]

理想選挙

民主党結成後、佐藤はより市民との対話を求める活動を行う。上述の居酒屋「洗心洞」の開店等がそれだが、選挙においても理想主義を推進した。96年の選挙後、父から受け継いだ後援会を解散。さらに2003年の選挙からは恒例のたすき掛けや辻立ちや個別訪問をせず、立法活動や現地視察活動のみを行う、運営は全てボランティアで賄う等という「理想選挙」を展開した。

議員連盟

脚注

外部リンク

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