最澄

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最澄(さいちょう)は、平安時代の僧。日本天台宗の開祖である。近江国滋賀県)滋賀郡古市郷(現在の大津市)に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。生年に関しては天平神護2年(766年)説も存在する。

先祖は後漢孝献帝に連なる(真偽は不明)といわれる登萬貴王(とまきおう)なる人物で、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。

生涯

なお、年齢は神護景雲元年出生説に基づく。[1]

  • 778年宝亀9年)、12歳のとき近江国分寺に入り、出家して行表の弟子となる。
  • 780年、14歳のとき国分寺僧補欠として11月12日に得度し名を最澄と改めた。
  • 783年延暦2年)、17歳のとき1月20日に正式な僧侶の証明である度縁の交付を受ける。[2]
  • 785年、19歳のとき東大寺具足戒を受ける。同年7月、比叡山に登り山林修行に入り、大蔵経を読破。
  • 788年薬師如来を本尊とする草庵、一乗止観院を建立する。
  • 797年桓武天皇内供奉十禅師
  • 801年、比叡山一乗止観院にて法華十講奉修。南都六宗の高僧10名に講師を依頼する(請十大徳書)。
  • 802年、高雄山寺(神護寺)法華会(ほっけえ)講師。桓武天皇より入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に選ばれる。
  • 804年7月、通訳に門弟の義真を連れ、空海とおなじく九州を出発。9月明州に到着。天台山に登り、湛然の弟子の道邃行満(ぎょうまん)について天台教学を学ぶ。さらに道邃に大乗菩薩戒を受け、翛然(しゅくねん)から禅、順暁から密教を相承する。
  • 805年5月、帰路の途中和田岬神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である能福護国密寺を開創する。7月に上洛、滞在中に書写した経典類は230部460巻。帰国当時、桓武天皇は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒を祈る。
  • 805年9月、桓武天皇の要請で高雄山神護寺にて日本最初の公式な灌頂が最澄により行われる。
  • 806年大同元年)1月、最澄の上表により、天台業2人(止観業1人、遮那(しゃな)業1人)が年分度者となる。これは南都六宗に準じる。これが日本の天台宗の開宗である。
  • このころ、空海から、真言悉曇梵字)、華厳の典籍を借り、研究する。
  • 812年弘仁3年)の冬、弟子の泰範円澄光定らと高雄山寺におもむき、空海から灌頂を受ける。
  • 813年1月、泰範、円澄、光定を高雄山寺の空海のもとに派遣して、空海から密教を学ばせることを申し入れ、3月まで弟子たちは高雄山寺に留まった。しかし、このうち泰範は空海に師事したままで、最澄の再三再四にわたる帰山勧告にも応ぜず、ついに比叡山に帰ることはなかった[3]
  • 813年11月、最澄が「理趣釈経」の借用を申し出たが、空海は「文章修行ではなく実践修行によって得られる」との見解を示して拒絶、以後交流は相容れなかった。
  • 815年和気氏の要請で大安寺で講説、南都の学僧と論争。その後東国へ旅立つ。関東で鑑真ゆかりの上野の緑野(みとの)寺(現在の群馬県浄法寺に位置する)や下野の小野寺を拠点に伝道を展開する。
  • 法相宗の学僧会津徳一との間に、三一権実の論争。徳一が『仏性抄』(ぶっしょうしょう)を著して最澄を論難し、最澄は『照権実鏡』(しょうごんじっきょう)で反駁。論争は、比叡山へ帰った後も続き、『法華去惑』(こわく)『守護国界章』『決権実論』『法華秀句』などを著したが、決着が付く前に最澄も徳一も死んでしまったので、最澄の弟子たちが徳一の主張はことごとく論破したと宣言して論争を打ち切った。
  • 818年、みずから具足戒を破棄。『山家学生式』(さんげがくしょうしき)を定め、天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、12年間山中で修行することを義務づける。
  • 南都の僧綱から反駁にこたえて『顕戒論』を執筆。『内証仏法血脈譜』を書いて正統性を説く。
  • 822年6月26日弘仁13年6月4日)、比叡山の中道院で没、享年56(満54歳没)。没後7日目、大乗戒壇設立は、弟子・光定と、藤原冬嗣良岑安世の斡旋により勅許。
  • 866年貞観8年)、清和天皇より伝教大師(でんぎょうだいし)の諡号が贈られた。日本で初めての大師号である。以後「伝教大師最澄」と称される。

における師承は明らかでないが、延暦23年(804年)に入唐し、帰朝に当って王羲之十七帖王献之欧陽詢褚遂良などの筆跡や法帖類を持ち帰った。その書風は空海の変幻自在なるに比べて、清澄で品格が高い。真跡として現存するものには次のようなものがある。

久隔帖

『久隔帖』(きゅうかくじょう)は、弘仁4年(813年)11月25日付で書いた尺牘で、「久隔清音」の句で始まるのでこの名がある。宛名は「高雄範闍梨」とあり、これは高雄山寺に派遣した最澄の弟子の泰範であるが、実質は空海宛である[3]。心が筆端まで行き届き、墨気清澄・品格高邁で、さながら王羲之の『集字聖教序』を肉筆化したような響きを放つ[4]。大きさは、29.2cm×55.2cm。奈良国立博物館蔵。国宝[3]

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『久隔帖』(部分) 最澄筆
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浄土院、伝教大師の廟所、滋賀県大津市比叡山延暦寺

テンプレート:Quotation 文面は、「大阿闍梨(空海)の示された五八の詩(『中寿感興詩』)の序に、『一百二十礼仏』・『方円図』・『註義』という書名がある。その詩の韻に和して返礼の詩を作って差し上げたいが、私は『礼仏図』なるものをまだ知らない。どうかこの旨を阿闍梨(空海)に伝えられ、『方円図』・『註義』とその大意とをお知らせいただきたい。(以下省略)」という趣旨の内容である[3]

請来目録(越州録)

『請来目録(越州録)』(しょうらいもくろく(えっしゅうろく))は、在唐中、最澄が越州(浙江)で蒐集または抄写した経疏、天台関係の文書、法具などの目録で、延暦24年(805年)に書かれたものである。楷書であるが久隔帖と同じく王羲之風の流麗な筆致である。延暦寺蔵。国宝。

羯磨金剛目録

『羯磨金剛目録』(かつまこんごうもくろく)は、最澄が唐からの請来品を弘仁2年(811年)比叡山に奉納した目録の断片で、その初行の文字によってこの名がある。全紙に比叡山の印が捺されている。延暦寺蔵。国宝

傳敎大師童形像

傳敎大師童形像は、生源寺(滋賀県大津市)、延暦寺滋賀県大津市)、雙林寺京都府京都市)、三千院京都府京都市)、松尾寺大阪府和泉市)、能福寺兵庫県神戸市)、普光寺兵庫県加西市)、長法寺(岡山県津山市)、天王院(神奈川県横浜市)、立石寺山形県山形市)など天台宗の寺院に設置されている。

その髪型は代女子の垂練髻[5]を結い、装束はの宮中に仕える女子の漢服[6]を着ている。

補注

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伝記研究・小説

  • 塩入良道編 『最澄 日本名僧論集〈2〉』(吉川弘文館、1982年)
  • 平川彰 『最澄 天に応える 高僧伝〈3〉』(集英社、1985年)
  • 田村晃祐 『最澄 人物叢書』 (吉川弘文館、新装版1988年)
  • 佐伯有清 『伝教大師伝の研究』 (吉川弘文館〈日本史学研究叢書〉、1992年)
  • 佐伯有清 『最澄とその門流』 (吉川弘文館、1993年)
  • 佐伯有清 『若き日の最澄とその時代』(吉川弘文館、1994年)
  • 佐伯有清 『最澄と空海 交友の軌跡』(吉川弘文館、1998年)
  • 大久保良峻編 『山家の大師 最澄 日本の名僧〈3〉』(吉川弘文館 2004年)
  • 上山春平著作集第8巻 空海と最澄』(法蔵館、1995年)
  • 立川武蔵 『最澄と空海 日本仏教思想の誕生』(講談社選書メチエ、1998年)
  • 高木訷(シン)元編著 『空海と最澄の手紙』(法蔵館 1999年)
  • 永井路子 『雲と風と 伝教大師最澄の生涯』 (中公文庫、1990年)-小説
  • 栗田勇 『最澄』 (全3巻:新潮社、1998年)-小説

参考文献

  • 仁忠最澄の高弟)『叡山大師伝』
(伝教大師全集.第5巻所収、世界聖典刊行協会、復刻版1975年)

関連項目

比叡山 延暦寺

関連項目

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  1. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「syussei」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. 当時は道鏡時代の僧侶の政治介入に対する反省から、僧侶の人数を抑制するために度縁の交付の制限を行っていた。
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 宮坂宥勝「風信帖と久隔帖」(「空海の風信帖」『墨』P.16 - 20)
  4. 寺山旦中「弘法の展開と最も澄んだ書」(「空海の風信帖」『墨』P.54)
  5. 百度百科‐唐代髪型‐垂練髻 [1]
  6. 大紀元‐悠遊漢服之美‐5唐朝‐圖4兩鬢滿是金翠花鈿及插上金步搖的唐貴婦 [2]