中島公園

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テンプレート:公園 中島公園(なかじまこうえん)は、北海道札幌市中央区にある札幌市立の都市公園(総合公園)である。明治時代に、中島遊園地(なかじまゆうえんち)として設けられた。市の中心部から見て南にある公園内には、札幌コンサートホールKitara北海道立文学館札幌市天文台、重要文化財の豊平館八窓庵など様々な施設が立地する。

公園は、札幌市が設置し、指定管理者制度に基づき、公園緑化協会・中島公園コンソーシアム(公益財団法人札幌市公園緑化協会、丸三三浦商事株式会社の共同事業体)が指定管理者として管理・運営している。面積210,416m²。

歴史

中島の名は、後に鴨々川(創成川)にまとめられる二つの流れに挟まれた地であることに由来する。豊平川の対岸にある「中の島」も事情は同じだが、はさんだ川が異なるので別地名である。中島公園の辺りは、明治初めには市街の外にあり、明治末にも市街の縁辺部に位置した。中心市街の一部と見られるようになるのは、戦後になってからである。

1871年(明治4年)に鈴木元右衛門堀が完成し、貯木場と水門(現在の菖蒲池)が設けられた。その後1882年(明治15年)には公園にする旨の意見書が提出(提出者不明)され中島遊園地となった。初期の中島公園は、大部分が手入れのない林のまま、今日でいう自然公園に近かったが、しだいになどの施設が増加し密度を増した。1884年(明治17年)7月2日に公園予定地として認可が下りると、1886年(明治19年)12月15日に中島遊園地の164,618坪を札幌区へ編入し、中島遊園地造成工事に着手した[1]。翌年、第10回北海道物産共進会の会場となり、これ以後中島遊園地は1958年(昭和33年)まで様々な博覧会の会場になった。展示場として建てられた建物の一部は、閉会後も残されたが、今に伝わるものはない。

1907年(明治40年)に長岡安平(助手は田中真二郎)に公園設計を依頼、1909年(明治40年)に設計図が完成し、1910年(明治43年)に整備工事を実施し、「中島公園」と呼ばれるようになった[1][2]

1956年(昭和31年)に都市公園法が制定されると、中島公園は翌年3月23日に都市公園として告示された。

1990年から1992年には、さっぽろ雪まつりの第4会場となる。こうした経緯から2006年には前年度で終了した真駒内会場の代替地として雪まつりの開催が検討され、北海道新聞に決定記事が掲載されるまでに至ったものの、巨大で重量のある雪像が札幌市営地下鉄施設へ与える影響などの懸念が出され見送りになり、サッポロさとらんどが選ばれた。

公園の長い歴史の中で施設の入れ替わりも多く、2005年現在までに廃止あるいは移転となったのは、スケート場、野球場、体育センター、遊園地ラジオ局食堂などである。公園に移転してきた国の重要文化財に、豊平館八窓庵がある。現在は、札幌コンサートホールKitara人形劇場児童会館、文学館、天文台などがある。

毎年、8月の下旬開催となる北海道マラソンではゴール地点がこの中島公園となる。

施設等

ちびっこ広場

児童会館とこぐま座に面した広場である。遊具が置かれる。中に彫刻をほどこした円柱があり、「森の歌」という。年一回の「さっぽろっ子まつり」の会場である。 現在は地下鉄中島公園駅避難通路工事で、半分以上利用できない。完成予定は2009年3月。

中島児童会館

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中島児童会館(2004年11月)

アメリカ軍の野戦用兵舎の払い下げを受けて、日本初の公立児童会館(児童館)として、1949年(昭和24年)7月3日に開館した。当初のかまぽこ型兵舎4棟は、1958年(昭和33年)に木造モルタル2階建てに、1985年(昭和60年)に鉄筋2階建てに替わった。子供のための遊びと学習の催しを行っている。 2009年開館60周年を迎えた

札幌市こども人形劇場こぐま座

1976年(昭和51年)7月、日本ではプーク人形劇場に続く二番目、公立としては初めての人形劇場として開館した。毎週土日に定期的に人形劇公演が行われたことは全国的にも類がなく、人形劇の普及、アマチャア人形劇団の育成に大きな役割を果たす。北海道内外からの人形劇団招致の中心的役割を担い、以降全国的に建設される公立劇場の模範となる。建築家田上義也設計の特徴的は外観は一見に値する。 後に東区に立てられたやまびこ座とともに、年間を通じて子供向けの様々な人形劇を行なっている。

詳細は札幌市こども人形劇場こぐま座を参照

八窓庵

江戸時代初めの茶人大名、小堀政一近江国小室城に建てたと伝えられる茶室である。1919年(大正8年)に札幌市の北4条西12丁目に移され、さらに1971年(昭和46年)中島公園に移築された。国の重要文化財である。 積雪による倒壊のため、現在は復元工事中で、完了予定は2008年秋以降。

豊平館

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豊平館(2009年10月)

明治はじめに、来賓を迎える旅館として開拓使大通に面して作った西洋館である。1878年(明治11年)に計画され、1880年(明治13年)に完成した。設計は開拓使技師の安達喜幸による。安達は棟梁出身で、お雇い外国人のアメリカ人・ホイーラーの指導を受けて日米の建築技法を身に付けた技術者だった。また各室のシャンデリアを釣ってある天井のメダリオンは、入江長八の作といわれている。その後様々な用途に転用され、1958年(昭和33年)に中島公園に移築された。現存する最古のホテルとして、また明治天皇、大正天皇、昭和天皇の泊まられたホテルとしても有名である。国の重要文化財に指定され、市営結婚式場として利用されている。

菖蒲池

菖蒲が整備される以前には、鴨々川につながる貯木場として利用された池があった。中島遊園地になったときには、現在の池の中央は陸でつながり、北東と南西の二つの池に分かれていた。今では中に二つの島を持つ池である。ボート乗り場があり、しばしばボート池と呼ばれる

菖蒲池は1896年(明治29年)頃からスケートに利用されるようになった。1920年(大正9年)にはスケート場として整備され、翌年1月にその運営主体として札幌スケート協会が発足した[3]。池の東側をスケート場に整備し、使用料金はシーズンと当日のみで分けた。1925年(大正14年)から、滑り納めの2月11日、紀元節の日に氷上カーニバルを開催した。これは様々に仮装した市民がスケートを楽しむものである。中島公園は各種スケート競技会の開催場所となり、地上散水によるリンクが登場した1938年(昭和13年)頃までは北海道の中心競技場として機能した[4]

1954年(昭和27年)に中島球場にリンクが作られてから利用が少なくなり、現在では使われていない。

札幌市営地下鉄南北線の工事の際は、池の水を抜いた上で開削工法で設備が作られた。

札幌市天文台

岡田山という小さなの上に建つ小さな天文台である。口径20cmの屈折式望遠鏡を備える。年間60日、様々なテーマで天体観測の夜間公開を行なう。

札幌コンサートホール Kitara

北海道初の音楽専用ホールとして、1997年(平成9年)7月4日に開館した。2008席の大ホールと、453席の小ホールがある。現在の中島公園で最大の建築物である。周囲に威圧感を与えないことがこの建物の設計目標にあり、近くからは規模に見合った大きさを見せるが、高さを抑えてあるために他の場所に移ると丘と木の間に隠れて視界から消えるようになっている。

札幌市中島体育センター

北海道立中島体育センター本館として、1980年(昭和55年)に中島スポーツセンターの西隣に建てられた。スポーツ指導者の養成を目的に、各種設備を備えている。

丘の広場

芝生のある広場。

北海道立文学館

北海道立文学館は、北海道の文学を紹介するために、1995年(平成7年)に開館した。

多目的広場

自由広場ともいう。様々な野外の催しを行なうための空間である。春から秋はフリーマーケット、5月にはさっぽろ園芸市などが催される。

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冬の鴨々川。水遊び場の近く (2004年2月)

鴨々川遊び場

1975年(昭和50年)、子供が危険なく遊べる川を用意するために作られた。鴨々川の流れを分けて、底を浅くし、水遊びができるようにしてある。

テニスコート

公園内のテニスコートの初めは、1928年(昭和13年)8月7日に開かれた硬式庭球場である。現在位置には、1954年(昭和29年)に造られた。

大中食堂、売店Midori

冬季間は閉鎖される菖蒲池沿いの店舗。焼きそば等の軽食やビールが主なメニュー。

かつて存在した施設等

中島遊園地競馬場

市内の偕楽園にあった競馬場が移転する形で1887年(明治20年)に造られた。1907年(明治40年)に廃止された。テンプレート:See also

ライオン食堂

1918年(大正7年)に開道五十年記念北海道博覧会西洋館として建てられ、終了後洋風レストランになった。白い立派な建物だったという。ライオン食堂に行くためには、南東にかかる白く塗られた木橋で池を渡った。

中島球場

1918年(大正7年)の開道五十年記念北海道博覧会の跡地に作られた野球場である。設備としてはバックネットとベンチを設けただけだが、1935年(昭和9年)に札幌外苑球場(現在の札幌市円山球場)が開かれるまでは、札幌の中心的野球場だった。

1949年(昭和24年)に、札幌市は新しい野球場をほぼ同じ場所に建設した。両翼94メートル、中堅111メートルで、収容人数2万1千人。設備は充実したが、円山と比べるとなお手狭だったので、プロ野球の利用は稀で、社会人と学生に利用された。1954年(昭和27年)からは、冬季にスケート場として利用された。1980年(昭和55年)、麻生球場の開設に伴い閉鎖された。

中島プール

1923年(大正12年)、製氷用の池の一部を夏季にプールとして開放したのが始まりである。

1929年(昭和4年)に改造して、側面をコンクリート壁とし、全面をプールとして利用した。縦140メートル横23メートルで、当時日本一広かった。しかしその実態は川の水を引き入れた巨大な池で、時に水が濁ったり藻が発生した。

1969年(昭和44年)に、札幌テレビ放送(STV)の寄付により、50メートル×21メートルの新しいプールが建設された。後に他の市営プールの数が増え、民間のプールも作られるようになると利用者が減少した。

その後も施設老朽化や平岸市営プールの新設もあり、1996年(平成8年)シーズンを以って閉鎖された。

札幌短期大学

札幌学院大学の前身。1946年6月、旧農業館に札幌文科専門学院を開校した。農業館は、1918年(大正7年)の開道五十年記念北海道博覧会の展示場として建てられたもので、以後様々な催し物の会場に利用されていた。1950年(昭和25年)3月に札幌短期大学と改称し、1955年(昭和30年)に移転した。

子供の国

(現代的な意味での)遊園地である。子供の国の起源は、1926年(大正15年)の国産振興博覧会にあり、このとき第一会場になった中島公園の西隣、岡田花園の土地を借りて「子供の国」を作った。

1958年(昭和33年)の北海道大博覧会でも子供の国が作られ、博覧会終了後、札幌振興公社がその運営を引き継いだ。現在、札幌コンサートホール Kitaraがある場所である。営業は4月から11月までで、冬季は休業。移転までの36年間に約1200万人が利用した。1994年(平成6年)5月、札幌市円山動物園の中に移転するため終了した。円山での再開は翌年4月になされた。その後、2010年9月に遊具老朽化の為『円山子供の国キッドランド』も閉鎖となった。

NHK札幌放送局

1928年(昭和3年)に、公園の東部に日本放送協会(NHK)札幌支部の札幌放送局が設けられた。後に札幌中央放送局と改称した。放送局はさっぽろテレビ塔の建設とテレビ放送開始に伴い、テレビ塔の北に移転した。

北海道地下資源調査所

北海道立地質研究所の前身である。1950年(昭和25年)に設立された。1951年(昭和26年)8月からしばらくの間、旧拓殖館にあった。拓殖館は、1918年(大正7年)の開道五十年記念北海道博覧会の展示場として建てられたものである。

北海道簿記専修学校

札幌商工会議所付属専門学校の前身である。1955年(昭和30年)に開校し、1959年(昭和34年)10月に中島公園の旧NHKの建物に校舎を移した。1961年(昭和36年)9月に、公園内の旧拓殖館に移転した。学校は、1964年(昭和39年)10月に南4条西18丁目に移転した。その後校名を北海道簿記専門学校、札幌商工会議所付属専門学校と変えて現在は白石区にある。

中島体育センター別館 (中島スポーツセンター)

1954年(昭和29年)に、北海道で開催する国民体育大会の会場とするために、公園の東側に北海道立の中島スポーツセンターが造られた。スポーツ大会のほか、プロレス興行、歌手の公演、海外サーカス団の公演、各種展示会、展覧会など多目的に用いられた。中島体育センターの建設とともに、中島体育センター別館と改称した。1989年のはまなす国体ではボクシング競技の会場となった。豊平公園における北海道立総合体育センター「きたえーる」の開館に伴い2000年に閉鎖、撤去された。

中島スポーツセンターは1978年頃まで、海外アーティストの北海道でのコンサートの開催地の定番として、ピンク・フロイドなどの大物の公演も行われてきたが、1978年1月27日、イギリスのハードロック・バンド「レインボー」のコンサートにて、熱狂した観客がステージ前に押し寄せ、観客1名が圧死する事故が起こってしまい、大きな社会問題となった。この事件以降、海外アーティストの北海道での公演が激減することとなり、日本でのロック・コンサートの観覧マナーについても一石を投じるものとなった。

冬のスポーツ博物館

1980年(昭和55年)2月3日に旧NHK局舎に開館した。スキー、スケートなどのスポーツの博物館である。スポーツの歴史や内容のほか、札幌オリンピックを記念する展示があった。2000年(平成12年)に市内の大倉山ジャンプ競技場に、「札幌ウィンタースポーツミュージアム」と改称して移転した。

百花園

1959年(昭和34年)に、1200株の薔薇を植えて開設した。1995年(平成7年)からの再整備で廃され、広場に替わった。その後、広場の周りに再び薔薇が植えられている。

子供の国野外ステージ

かつて、屋外公演場として使用されていた。「子供の国」と同時に1994年(平成6年)5月廃止。

周辺

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札幌駅前通の南端に位置する北側入口(2004年11月)
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北側入口付近で催される歳の市(2006年12月)

南北に細長い公園の北の端がいわば正面入口で、地下鉄中島公園駅がある。入口から前に通じる駅前通は、すすきのの繁華街、大通を経て札幌駅に通じる。東は、豊平川と公園にはさまれた細長い地区で、料理店、ホテル、マッサージ・カイロプラクティック院、カフェ、業務用のビル、分譲マンションやデザイナーズマンションなどの高層住宅が立ち並ぶ。西は対照的に中・低層の住宅地である。南端に地下鉄幌平橋駅があり、豊平川の幌平橋のそばとなる。

  • 札幌護国神社
    • 公園の西南に接してある神社で、西南戦争で戦死した屯田兵を祀るため、屯田兵司令部内に作られた。1907年(明治40年)2月に中島公園内に移転した。当初の名は札幌忠魂社、1922年(大正11年)7月1日に札幌招魂社、1939年(昭和14年)4月1日に札幌護国神社と改称した。1933年(昭和8年)に公園内の現在位置に移転した。現在は政教分離の原則により公園と切り離されている。
  • 札幌水天宮
    • 公園の北西に隣接する。
  • 彌彦(伊夜日子)神社
    • 公園の東に、三面を公園に囲まれるように位置する。越後国一宮彌彦神社が本社であり、新潟県から移住してきた人々によって創建された。1911年(明治45年)1月1日建立。
  • 渡辺淳一文学館

参考文献

  • 久保信「札幌・スケートの歩み」、札幌市教育委員会編『冬のスポーツ』(さっぽろ文庫 16)、北海道新聞社、1981年。
  • 札幌市教育委員会編『中島公園』(さっぽろ文庫 84)、北海道新聞社、1998年、ISBN 4-89363-083-0。

脚注

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関連項目

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外部リンク

  • 1.0 1.1 『中島公園百年』(1988年、北海タイムス社、ISBN 978-4886540294)
  • 『中島公園設計図』(年不詳)
  • 久保信「札幌・スケートの歩み」84-85頁。
  • 久保信「札幌・スケートの歩み」87-88頁。