上野原町

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テンプレート:Infobox 上野原町(うえのはらまち)は、山梨県北都留郡にあった。隣接する南都留郡秋山村と合併、上野原市となり消滅した。平成の大合併以前の山梨県における町の中で白根町、[[櫛形町|テンプレート:JIS2004フォント形町]]、甲西町敷島町中道町白州町河口湖町とともに数少なく「まち」と読む自治体であった(この7町も合併で消滅したが、河口湖町だけは富士河口湖町となり現在も県内で唯一「まち」を名乗っている)。

地理

歴史

郡内地方には縄文時代の遺跡が数多く分布するが、町域でも桂川や鶴川沿いを中心に数多くの遺跡があり、近年の開発により新たな発見が相次いでいる。縄文時代は中期をピークに早期からの遺跡が発掘されているが後晩期には減少し、弥生時代以降の遺跡はわずか。

古代の律令制下では都留郡に属し、町域は南西部が都留郷に、東部は古郡郷に属していたと考えられている。上野原を中心とする古郡は武蔵七党横山氏から分出した古郡氏の支配が及び、鎌倉時代の建暦3年(1213年)には和田合戦で古郡氏が滅亡すると加藤氏が支配し、両氏が支配拠点とした居館と伝わる内城館跡がある。

甲斐国武蔵国相模国の国境であるため交流が行われる一方で係争も起こり、室町時代の応永33年(1426年)には鎌倉公方足利持氏による武田信長追討の侵攻を受けており、文明10年(1478年)には加藤氏が長尾景春の乱に荷担したため太田道灌の侵攻を受けた。戦国時代には相模国の後北条氏との関係が強まり、外交関係の変化に伴いさまざまな出来事が起こっている。享禄3年(1530年)に八坪坂において後北条氏と郡内地方を領する小山田氏との合戦が起こっており、天文23年(1554年)には武田晴信(信玄)の娘が後北条氏に嫁ぐ際に上野原において引き渡されている。加藤氏は国中地方を領する守護武田氏に属して国境の防備にあたり、戦国時代の永禄12年(1569年)には)武田晴信(信玄)による相模侵攻にも加わっている。

近世には16か村(浅野氏時代)か21か村(谷村藩時代)が存在し、全村が都留郡に属する。江戸時代には桂川沿いに甲州街道が通過し、上野原、鶴川、野田尻、犬目の4宿が設置され、上野原宿では市が開かれた。このため、生業はわずかな農業と林業などの山稼ぎのほか、街道での駄賃稼ぎや織物生産を中心とする郡内地方特有のもので、織物不況に際した郡内騒動でも参加者が出ている。

近代には中央線の開通や道路整備により街道の地位が低下し、近年は首都圏に組み込まれベッドタウン化が進んだ。

沿革

行政

  • 町長:奈良明彦

経済

産業

  • 主な産業
    • 農林業
    • 商工業

特産品

  • 酒まんじゅう

地域

教育

交通

鉄道

駅:上野原駅 - 四方津駅

道路

高速道路
市町村内にあるインターチェンジ:中央自動車道上野原IC談合坂SA
一般国道
市町村内を走る一般国道:国道20号甲州街道
都道府県道
市町村内を走る県道:山梨県道30号大月上野原線山梨県道33号上野原五日市線山梨県道35号四日市場上野原線

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

祭事

スポット

  • 平野田休養村

その他

関連項目

外部リンク