上祐史浩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox オウム真理教徒 上祐 史浩(じょうゆう ふみひろ、1962年昭和37年)12月17日 - )は、ひかりの輪代表。アーレフ(現Aleph・旧「オウム真理教」)元代表。

オウム真理教信者としての名前(ホーリーネーム)は、マイトレーヤだった。教団内では「外報部長」等の役職でスポークスマンの役割を果たす。当時、巧みに詭弁を弄することから「ああいえば、上祐」といわれた[1]。オウム真理教では、男性の中で佐伯一明(後の岡崎一明・宮前一明)に次いで二番目の成就者であった。オウム真理教時代に幹部の中で麻原彰晃NOといえるのは上祐だけといわれた。のちにロシア支部長に赴任するが、これはこのことが災いしての左遷といわれた。

現在mixi会員としても活動している。(詳細は後述)

概要

福岡県三潴郡城島町(現・久留米市)で銀行員の父と元教師の母の間に生まれる。その後、父親東京貿易会社に転職し、一家で上京するが、父親の女性問題によって母子家庭となる。早稲田大学高等学院早稲田大学理工学部を経て、1987年早稲田大学大学院理工学研究科修士課程を修了し、特殊法人宇宙開発事業団(現:独立行政法人宇宙航空研究開発機構)に入る。フジテレビアナウンサー軽部真一は高等学院・早大の同級生である。

1980年代

大学在学中、サークルでディベートの技術を学ぶ。ディベートサークルの活動を通じて、苫米地英人と面識があった[2]。大学時代より超常現象チベット仏教教団活動などに強い興味を持っていたが、オカルト雑誌『トワイライトゾーン』に掲載されていた麻原彰晃の空中浮揚写真記事をきっかけに、1986年に、同誌で紹介されていた麻原彰晃主催で後のオウム真理教となるオウム神仙の会に入会する。 大学院を出た後宇宙開発事業団就職するも1ヶ月で退職し、恋人の都沢和子と共に出家信者となった。出家番号は13。

1989年、上祐らを除いたオウム幹部6人による坂本堤弁護士一家殺害事件が起きる。上祐は事件前、麻原から(坂本氏の名前は出さずに)教団に批判的な存在をポア(殺害)することについて一度意見を求められた際に強く反対しており、同じく反対していた石井久子や上祐を除いて謀議していたものと見ている。暴力行為ではなく自らの広報活動によって批判による影響を和らげるべきだと考えていた上祐は、教団が起こした事件だと察した際には不満を感じ麻原に電話するも、逆に事件を正当化するよう説得された。

1990年代

衆議院選挙オウム出馬
早川紀代秀が推進した1990年第39回衆議院議員総選挙に、真理党として教団幹部の立候補にも最後まで猛反対していたと伝えられている。この選挙が惨敗に終わり、麻原が大勢の信者達を前に話した「国家権力によって票のすり替えが行われた」という陰謀論にもただ一人異議を唱え、「自分独自の電話調査では麻原彰晃に投票すると言った有権者は100名中誰もいなかった」と発言。一人で数分間に及ぶ反駁を続けた
ロシア支部へ
1992年よりロシア支部に派遣されている[3]。また1993年1月(亀戸異臭事件の前)に行われた以後のテロ活動に関する謀議では、参加はしていたものの肯定的でなかったことから麻原に注意を受けていたという。1994年以降は麻原に「日本にいると身に災いが及ぶ」と言われほとんどをロシア連邦で過ごしていたが、一時的に日本に戻った際に教団による薬物を使ったイニシエーションを受け、麻原への帰依を深めることとなった。
地下鉄サリン事件後
1995年地下鉄サリン事件が発生して間もなく、麻原から「広報活動をしてほしい」との電話が届き、日本へ帰国する。
サリン事件後、教団の広報責任者として青山吉伸村井秀夫らと共に、連日朝から晩までテレビのワイドショーニュース番組やラジオに出演し、オウムに批判的なあらゆる意見に対して徹底的に反論していた。また記者会見の場で、容疑が不明瞭ないわゆる別件逮捕が横行した際は、怒りをあらわにし、机に拳を叩きつけながら警察報道機関を批難した。逮捕容疑の一覧を記したフリップを公表すると「私はあまりごちゃごちゃ言いたくないんですよ!これ見たら分かるでしょ! 馬鹿らしいですよこんなの!」と言いながらフリップを投げた。後日、そこで、数々の疑惑事件は創価学会米軍自衛隊を初めとする国家権力の陰謀であり、サリン被害を受けているのはオウムだとの見解を示し続けた[4]
この時に見せたパフォーマンスから、「ああ言えばこう言う」を捩った「ああ言えば上祐」という流行語が生まれ、「上祐ギャル」と呼ばれる熱狂的な追っかけの女性ファンも登場するなど、一躍話題の人となった。都沢和子とともに早稲田大学英語部(ESA)で教育ディベートの経験者であったことがマスメディアに報じられ、ディベートが相手を言い負かす技術として注目を集めることとなった。
村井秀夫刺殺事件後
村井秀夫刺殺事件直後の会見で、記者が今度の事件で麻原彰晃代表が会見を開くのかと質問したところ、「麻原を殺す気ですか今度は? 麻原を殺す気ですか? 今度は!? 尊師を今度は殺すんですか!?」と答えた。更に海外メディアに対しても英語で反論した。
しかし後に「オウム真理教は事件に関わりがあると薄々気づきながら、当時はマスコミに無関係だとをつき続けていた。自分は嘘吐きだった」と告白した。また、サリン事件が教団が起こしたものだと麻原に伝えられたのは帰国して1ヶ月後(村井秀夫刺殺事件の後)で、一連の事件の全貌を知ったのもその頃だったと語っている。また当事件に関しては、後に『FRIDAY2010年12月3日号誌上の対談にて「覚醒剤取引などで関係の深かった暴力団による口封じ説、村井秀夫氏が生きていることで、第2・第3のサリン事件が起きる可能性があったために、当局が起こした謀略説などがあるが、予言を実現させるためにオウム真理教が行った自作自演の可能性があると感じている」と発言している[5]
懲役3年の実刑判決
麻原の側近と目される教団幹部であったが、一連のオウム真理教事件では1992年以降はロシア支部にいたこともあり、教団本部の共謀や実行の場にいなかったことや、炭疽菌テロを目論んだ亀戸異臭事件でオウムの手法では、危険な炭疽菌が生成されずに被害が出なかったため、不能犯とされたことなどで、重要犯罪事件で起訴はされなかった。熊本県波野村の土地取得をめぐって、国土利用計画法違反事件で1995年10月7日逮捕偽証有印私文書偽造・同行使の罪で10月28日に起訴される。裁判では懲役3年の実刑判決を受け、広島刑務所収監された。

2000年代

シガチョフ・チェイス
1999年の出所後も教団で有力者とみられていた。公安警察から当初は教団再活性化の危険性があるのではないかと危惧されていた。
しかし、2000年に現地で非合法化されたロシアのオウム信者が、日本でのテロによる麻原奪還・ロシア脱出を計画していることを知ると、その阻止に動いた。まず東京入国管理局に該当信者の入国を認めないよう要請するが、東京入管はこれを認めなかった。この為、上祐は公安警察と接触し、また自分に近しい信者をロシア信者の監視に派遣した(シガチョフ事件)。
軟禁された代表
2002年に、アーレフで代表となるも、「オウム真理教事件反省し、麻原彰晃の影響を排除する」という改革を打ち出したため主流派(麻原回帰派)の強い反発を受け、翌年にも事実上失脚。「修行」として自室に軟禁されるようになる。
上祐派として分裂
2006年4月30日TBSの「報道特集」が、新教団立ち上げ計画を明言していた事を報道。この時期、千葉県習志野市のマンションを「上祐派」の道場として使用しながら活動するも、管理者からは立ち退きを要求されていた。2006年9月、習志野市のマンションからは立ち退き完了し、東京都世田谷区南烏山マンションを拠点とした模様である。公式サイトも教団から分離して、「脱麻原」(後述)を旨とする新教団として活動している。
その後も内部分裂が進み、2007年3月8日に、アーレフを正式脱退。翌9日mixiのアカウントを取得したことを、公式ウェブサイトブログで公表した。上祐のマイミクシィ(申請含む)は、わずか2日で上限の1,000人に達した。5月7日に、麻原の教義を完全排除した、とする新団体「ひかりの輪」を設立して、代表の座についた。

2010年代

2010年12月3日号のFRIDAY誌上にて、麻原彰晃は能力と人格が不一致な人物と一蹴。麻原の根源は、逆恨みと被害妄想であり幼い頃からの逆恨みを社会に広げただけの人物と評した。また、オウム真理教がサリンを製造していた事実も承知していたが、当時批判できなかったのは、麻原彰晃にポアされるのを恐れたからだと述べた[5]

略歴

著書

  • 『覚醒新世紀』東山出版(2002年)ISBN 483440076X
  • 『上祐史浩が語る―苦悩からの解放』東山出版(2002年)ISBN 4834400727
  • 『上祐史浩が語る〈2〉心の解放と神秘の世界』東山出版(2003年)ISBN 4834400786
  • 『オウム事件 17年目の告白』扶桑社(2012年)ISBN 978-4594067496
  • 『終わらないオウム』鹿砦社、上祐史浩, 鈴木邦男,徐裕行の共同著者、田原総一朗監修(2013年)ISBN 978-4846309497

関連書籍・関連項目

脚注・出典

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

外部リンク

テンプレート:オウム真理教
  1. 一橋(2002)、p.47
  2. ミランカ『博士も知らないニッポンのウラ』、苫米地英人『洗脳原論』(春秋社、2000年)
  3. 一橋(2002)、p.81
  4. オウム真理教 上祐史浩 外国人記者会見6/8 日本外国特派員協会(日本外国特派員協会)
  5. 5.0 5.1 ひかりの輪広報部(2011年01月19日)