三世一身法

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三世一身法(さんぜいっしんのほう)は、奈良時代前期の養老7年4月17日723年5月25日)に発布された律令の修正法令)であり、墾田の奨励のため開墾者から三世代(または本人一代)までの墾田私有を認めた法令である。当時は養老七年格とも呼ばれた。

法の主な内容

灌漑施設(溝や池)を新設して墾田を行った場合は、三世(本人・子・孫、又は子・孫・曾孫)までの所有を許し、既設の灌漑施設(古い溝や池を改修して使用可能にした場合)を利用して墾田を行った場合は、開墾者本人一世の所有を許す、というものである。

法施行の背景

三世一身法施行の前年の閏4月25日(旧暦)、太政官が奏上し裁可された政策の中に良田百万町歩開墾計画があった。これは、食糧増産を目的として新たに百万町歩の農地を開墾する、という余りにも壮大な計画だった(当時の農地全体でも百万町歩に達していなかった)。

このような計画が策定された理由については、人口増加に伴い食糧不足が生じた、辺境での国防費に係る財政需要が生じた(この説では計画の施行地域は陸奥などの辺境地域に限定する考えもある)、当時実権を握っていた長屋王(長屋親王)による権勢誇示的な計画だった、等が考えられているが、どれも決定的な説ではない。

いずれにせよ、この計画を遂行するため、三世一身法が施行されたと考えられている。

法施行の効果

三世一身法の施行により墾田の実施が増加したのはほぼ確実であろう。ただし、その効果は一時的にしか続かなかったようだ。三世一身法から20年後(743年)に施行された墾田永年私財法に「三世一身法があるが、期限が到来すれば収公してしまうので、農民は怠けて墾田を行わない」とあるので、三世一身法の効果は20年未満しか継続しなかったようである。

しかしながらわずか20年で三代が経過し、収公の期限が近づくとは考えられないため、これは大寺社や貴族豪族の利益誘導を目的とした法改正という説もある。ただ、既存の灌漑施設を用いた墾田は一代のみで収公されるため、そういった墾田では既に農民が怠ける事態が置きていた可能性もある。単なる意欲減退ではなく、意図的に荒らした後で再開墾すれば、再び所有権が得られるので、それを狙った可能性もある。

律令体制での位置づけ

一般に三世一身法は、後の墾田永年私財法と併せて、律令体制の根幹である公地公民制の崩壊の第一歩だ、と考えられている。

しかし、公地公民制が律令体制の根幹であるとは、律令のどこにも記載されていない。(昭和期のマルクス派歴史家が提唱しただけに過ぎない、という見方もできる)。

また班田収授法の実施が平安時代以降行えなくなった事実のほうこそ公地公民制の崩壊への影響はより大きく、あるいは最初から公地公民制は不徹底だったという説も存在する。

現存する養老律令の田令には、農地開墾に関する規定がない。全ての農地が「公地」とされた以上、新規開墾は国家が行わねばならず、それが不可能であるなら何らかの手段で民間に委ねる事は必須となる。そのため、民間での墾田を推奨するため、三世一身法を特別措置法的に定めたものと考えられる。この観点からであれば、三世一身法は律令の不備を補完する法令だったと言える。

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