磁器

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ファイル:Verseuse phénix Musée Guimet 2418.jpg
青磁刻花蓮華文水注 耀州窯 中国北宋 10世紀

磁器(じき、Porcelain)とは、高温焼成されて吸水性がなく、叩いた時に金属音を発する陶磁器を一般に指す。しかし西洋などでは陶器と区別されないことが多く、両者の間には必ずしも厳密な境界が存在するわけではない。素地が白くて透光性があり、機械的強さが高いという特徴がある。また、焼成温度の高い硬質磁器と、比較的低温で焼成される軟質磁器に分けられる。

特徴

磁器は半透光性で、吸水性がない。また、陶磁器の中では最も硬く、軽く弾くと金属音がする。焼成温度や原料によって硬質磁器(hard porcelain SK13 - 16焼成)と軟質磁器(soft porcelain SK8 - 12焼成)に分けられる。日本の主な磁器として佐賀県有田などで焼かれる肥前磁器(伊万里焼)や九谷焼などがある。英語では、産地名をつけた場合は、陶磁器共通に“(産地名)+ware”と言うが、磁器自体を指す場合は、“porcelain”という。また単に“china”ということもある。

ガラスは磁器よりはるかに古くから知られており、単に磁質化(ガラス化)するのが磁器製作の目的ではない。

原料

焼結して多結晶となる粘土質物、除粘剤となり可塑性を向上させ、かつフラックス(融剤)として融点を下げる石英(SiO2)、ガラス相を形成し強度を向上させ、石英と同種の効果も示す長石の3種類が主原料である。粘土質物SiO2(45 - 70%)、Al2O3(10 - 38%)とFe2O3(1 - 25%)、長石は正長石(K2O・Al2O3・6SiO2)とソーダ長石(Na2O・Al2O3・6SiO2)から構成される。粘土質物にはカオリンが使用され、この他、軟質磁器には石灰ボーンチャイナには骨灰(リン酸カルシウム)が添加される。硬質磁器はカオリンが70%以上であり、軟質磁器は長石と石灰が約60%を占め、ボーンチャイナは骨灰が時に半分以上となるなど、磁器の種類によって組成は大きく異なる。

原料処理では、まず透水性向上のために長石・石英を細かく粉砕する。続いて不純物を水篩などで除去した後に原料を全て混合し、荒練りと菊練りと呼ばれる作業で練り上げる。これにより土中の水分を均一にして乾燥による歪みを防止するとともに、空気を抜くことで成形性を向上させる効果がある。練った土はしばらく放置し、水を細部まで浸透させると同時に、繁殖したバクテリアの排泄物により可塑性を向上させる。

作製方法

練られた土は、まずロクロやヘラで大まかな形が作られる。これを乾燥させて水分が10%程度になったら仕上げ加工を施す。複雑な形状の製品(人形など)は泥漿(でいしょう)鋳込法等により成形する。

続く焼成は、通常2 - 3段階に分けて行なわれる。最初に700℃前後での素焼きにより、水分を飛ばす。この時まず300℃付近で素地の水分が蒸発するが、十分に乾燥させていないと蒸気圧によって形状が崩壊する。さらに450 - 600℃でカオリンなどの結晶中の結晶水が放出されて大幅に素地が収縮する。素焼きを終えたこの段階で釉薬をかけ(施釉)、続いて1300℃程度で一次焼成を行なう。これによって釉薬はガラス化し、光沢や色が得られるとともに、ガラス層が粒界亀裂の進展を抑えるために強度が向上する。さらにこの後、絵付を施してから800℃前後の2次焼成を行なう場合もある。磁器は焼成中に高温で融解しつつ、ムライトと呼ばれる針状鉱物結晶を生成するため、成分の多くが融解しても形状を維持し続け、ガラス質の器質となる。

顔料によって磁器に模様を描く作業は絵付と呼ばれる。絵付には施釉前に行なう下絵付と施釉後に行なう上絵付がある。下絵付は2次焼成の必要がないため低コストだが、釉薬と反応しない安定な顔料しか使えない。このため金属塩化物硝酸化合物が主に使われ、緑、青、黄などを発色する。コバルトブルー染付は下絵付によって描かれる。これに対し、上絵付は二次焼成の手間がかかるものの、熱処理温度が低いため使用できる色が多く、特に赤色顔料や金彩を使用できるのが特徴となっている。

歴史

磁器は中国では古くから製造され、後漢時代には本格的な青磁がつくられている[1]。磁器の産地としては景徳鎮が特に有名である。


日本

日本では、豊臣秀吉の朝鮮出兵文禄・慶長の役によって、朝鮮半島から連れて来られた陶工・李参平(金ヶ江三兵衛)が肥前有田で磁石(じせき、磁器の原料)を発見したことから製作が始まったと言われている。窯跡の発掘調査の結果からは、1610年代に有田西部の諸窯で磁器(初期伊万里)の製造が始まったというのが通説となっている。

もともと景徳鎮でも青磁を作っていたが、用いていた近傍の高嶺(カオリン)という山の白土は、超高温で焼かなければ固まらない難物だった。そこで出来た青白磁はすでに磁質(ガラス)化していたが、「影青(インチン)」といって青みが薄く、氷のような硬く冷たい色をしていた。の人々は、これは地の白土がガラスのように透き通るので純白にならないためだと考え、他の陶石を混ぜるなどして改良したらしい。こうしてできた白地が圧倒的に美しかったために、いつしか唯一無二の絵付けの生地として中国を席巻していった。西洋の磁器も、初めはこの景徳鎮や伊万里焼を粉砕・溶解するなど長年にわたる詳細な科学調査を繰り返してようやく確立された。

積み出し港の名から伊万里焼と呼ばれた肥前磁器は、江戸時代後期まで隆盛を極め、また中国風の赤絵などのデザインだけでなく、日本独自の酒井田柿右衛門による濁手、金襴手、錦染付などが生まれ、明末初の混乱で磁器生産が滞った中国に代わってヨーロッパにも輸出され、高い評価を得た。また鍋島藩では藩窯として生産を行ない、美しく緻密な作品が作られた。江戸時代後半には磁器焼成は九谷砥部など各地に広まり、明治頃には瀬戸で大量に生産されるようになり、庶民にも磁器は広まっていった。

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愛知万博瀬戸会場の巨大瀬戸焼天水皿

明治以降はゴットフリード・ワグネルなどからヨーロッパの科学技術を取り入れて、生産効率が飛躍的に向上した。具体的には、

  • 鉄道汽船など輸送手段の発展により原料となる陶土の選択肢が増加。
  • 機械化や泥漿鋳込法導入による成形の高速化。
  • 科学的な精製による顔料調合の効率化。
  • ガスや電気、石炭を燃料とし、より正確な焼成の温度管理が実現。

などの要因が挙げられる。そしてジャポニスム趣味の流行や国内の安価な労働力を背景として、職人を吸収した会社組織による洋食器の輸出が盛んに行なわれた。戦前は日本の主な輸出産業の一つであり、戦後も輸出は伸び続けた。アメリカ合衆国の陶器メーカーであるWeller社やMaccoy社などが、20世紀前半には繁盛したものの1940年代以降衰退、廃業したのも日本製陶磁器に圧されたのが原因の一つと言われている。しかしその後、円高などにより、1980年代以降は輸出が急減した。

近年では、原料にアルミナを配合して強度を増した強化磁器が小児向け食器として生産され、環境ホルモン物質の滲出が懸念されたプラスチック製食器に代わって学校給食で採用されている。

ヨーロッパ

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マイセン 19世紀 キャンドルライトと置時計

中国からヨーロッパに磁器の製法が伝わったのは、16世紀イタリアフィレンツェと言われ、中国の軟質磁器の複製品の試みがメディチ家のブランドとして成功を収めて広がったとされる。17世紀から18世紀にかけて中国の磁器は、交易品として大きな位置を占めていたと言われている。

白地に青の中国磁器を模倣する試みは、イタリアのマヨリカ焼きやオランダのデルフト焼きに見られたが、これらはあくまでも陶器であり、磁器の製造には至らなかった。現在もそれらは伝統の製法を守り、陶器としての製造を続けている。

18世紀の前半にドイツに伝わった磁器製造は、マイセンとして発展を遂げることになる。マイセンの技術は厳重に秘密裏とされたが、フランス王家による技師の招聘によってフランスにも伝わり、ポンパドゥール夫人の保護のもとパリからヴェルサイユ方面へ向かう近郊のセーヴルセーヴル焼として磁器製造が発展した。現在はセーヴル市としてパリ市に隣接し、国立陶芸美術館がある。その後フランス革命の時期を経てリモージュに磁器技術が伝わり、現在もフランスの陶磁産業を代表するリモージュ焼がある。リモージュにもアドリアン・デュブーシェ国立博物館という磁器がメインの博物館がある。

脚注

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関連項目

  • 出川哲郎「陶磁の歴史中国陶磁の視点」、大阪市立東洋陶磁美術館公式サイト(2011年12月29日確認)