ホアキン・サンチェス

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テンプレート:サッカー選手 ホアキン・サンチェス・ロドリゲス(Joaquín Sánchez Rodríguez, 1981年7月21日 - )は、スペインアンダルシア州出身のサッカー選手セリエAACFフィオレンティーナ所属。ポジションはミッドフィールダー(右サイドハーフ)、フォワード(右ウイング、セカンドトップ)。

経歴

レアル・ベティス

カディス県エル・プエルト・デ・サンタ・マリア出身。レアル・ベティスの下部組織で5年間プレーし、1999-2000シーズンにはセグンダ・ディビシオン(2部)のレアル・ベティスBでレギュラーポジションを獲得した。ベティスBがセグンダ・ディビシオンB(3部)に降格したために、2000-01シーズンはトップチームに登録され、2000年8月26日にトップチームデビューした。2000-01シーズンはトップチームでの初年度ながら38試合に出場して3得点を挙げるインパクトを見せ、1シーズンでのプリメーラ・ディビシオン(1部)復帰に貢献した。

2001-02シーズンからの5シーズンで公式戦200試合以上に出場し、50以上のアシストを記録した。2004-05シーズンはすべてのリーグ戦に出場し、リーグ戦では5得点、コパ・デル・レイでは3得点した。2005年6月11日に行われたCAオサスナとのコパ・デル・レイ決勝の舞台は後にプレーすることになるエスタディオ・ビセンテ・カルデロンであり、2-1で勝利した。2005-06シーズンはUEFAチャンピオンズリーグに出場し、グループリーグ6試合すべてに出場したが、リヴァプールFCチェルシーFCのイングランド勢に次ぐグループ3位で敗退に終わり、UEFAカップに回ることになった。UEFAカップでは決勝トーナメント2回戦でステアウア・ブカレストに敗れ、ベスト16に終わった。

バレンシアCF

2006年8月初頭、バレンシアCFが移籍金1500万ユーロを支払ってマリオ・レゲイロを譲渡することで移籍が決定するかと思われたが[1]、レゲイロがバレンシアCF残留を希望したことに加えて金銭面で問題が発生したため[2]、バレンシアCFはレゲイロを譲渡せずにホアキンのために移籍金2500万ユーロ(約37億4000万円)を支払うことで決着した[3] [4]。この移籍金はバレンシアCF史上最高額であった。クラブとは5年契約を結び、1年間の延長オプションが付けられた。2006-07シーズンは35試合に出場し、5ゴールを決めた。

ロナルド・クーマン監督が指揮を執った2007-08シーズンにはフォワードとして起用されることもあったが、慣れないポジションで本来の力を発揮できず、クーマン監督に「30ユーロ(約4800円)分の価値しかない」と批判された[5]。2009-10シーズンはパブロ・エルナンデスが急速に台頭してきたため、リーグ戦ではレギュラーを外れる厳しいシーズンを強いられた。2010年夏、ダビド・ビジャFCバルセロナに移籍したことに伴って背番号7を譲り受けた[6]

マラガCF

2011年6月25日、大型補強を行っているマラガCFに移籍した[7]。移籍金は400万ユーロ[8]。 2012-13シーズンは主力が流出する中残留し、新たにセカンドトップの位置で活躍するなど、新境地を示した。

ACFフィオレンティーナ

2013年6月12日、ACFフィオレンティーナに移籍することが合意した[9]

スペイン代表

2002年2月13日にバルセロナで行われたポルトガルとの親善試合でスペイン代表デビューした。クラブでの華々しい活躍もあり、2002 FIFAワールドカップに出場するスペイン代表メンバーに選ばれた。グループリーグ1試合と準々決勝の韓国戦に出場したが、その韓国戦では2度の誤審に泣いた。延長戦でフェルナンド・モリエンテスに上げたクロスボールが決勝点をアシストしたかと思われたが、クロスを上げる前にゴールラインを割っていると判定され、審判に抗議したがノーゴールの判定は覆らなかった。決まっていればゴールデンゴールだったモリエンテスのゴールが認められなかったため、勝負はPK戦に持ち込まれ、ホアキンはスペインの4番目のキッカーとして登場したが、李雲在にセーブされて準決勝進出はならなかった。なお、のちにFIFAはホアキンのクロスへの判定が誤審であったことを認めている。

UEFA欧州選手権2004でも2試合に出場した。2006 FIFAワールドカップでは3試合に出場したが、レギュラーではなかった。FIFAワールドカップ後に「チームはルイス・アラゴネス監督の下で混乱している」と発言したためにしばらく代表を離れたが[10]、2007年6月に約1年ぶりに代表に復帰し[11]リヒテンシュタイン戦で初めてキャプテンマークを巻いた。

家族

8人兄弟姉妹の3番目の子どもとして生まれ、大家族で育った。兄のルーカス・サンチェスカディスCFなどでプレーするプロサッカー選手であり、リカルド・サンチェスはベティスの下部組織でプレーしたサッカー選手だった。2005年7月8日に挙式し、結婚式にはベティスのチームメイトが招待されたほか、勝ち取ったばかりのコパ・デル・レイのトロフィーも披露された。2006年9月22日に初娘が生まれた。

所属クラブ

代表歴

代表での得点

# 日時 場所 対戦相手 スコア 結果 大会
1. 2003年2月4日 テンプレート:Flagicon レオン テンプレート:ARMf 3–0 3–0 UEFA欧州選手権2004予選
2. 2003年9月6日 テンプレート:Flagicon ギマランイス テンプレート:PORf 0–2 0–3 親善試合
3. 2005年2月9日 テンプレート:Flagicon アルメリア テンプレート:SMRf 1–0 5–0 2006 FIFAワールドカップ欧州予選
4. 2005年3月26日 テンプレート:Flagicon サラマンカ テンプレート:CHNf 3–0 3–0 親善試合

獲得タイトル

クラブ

レアル・ベティス
バレンシアCF

個人

脚注

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外部リンク

テンプレート:フィオレンティーナのメンバー テンプレート:ドン・バロン・アワード

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  1. ベティス、ホアキンとオリベイラへの対応のため幹部会livedoorスポーツ、2006年8月18日
  2. ロペラ氏が1800万ユーロ+レゲイロでホアキンを放出かlivedoorスポーツ、2006年8月19日
  3. 神に感謝したい」ホアキンスポーツナビ、2006年8月29日
  4. ホアキン、バレンシアと契約完了livedoorスポーツ、2006年8月29日
  5. クーマン前監督、ホアキンを口撃「4800円分のパフォーマンスしか出していなかった」livedoorスポーツ、2008年5月21日
  6. バレンシアが背番号発表。ビジャの7番はホアキンに、シルバの21番はバネガにWOWOW、2010年8月17日
  7. ホアキン、バレンシアからマラガへUEFA.com、2011年6月25日
  8. マラガにまた大物 ホアキンが加入へGoal.com、2011年6月24日
  9. ホアキンの移籍がクラブ間合意Goal.com、2013年6月13日
  10. セルヒオ・ラモス「アラゴネス監督以上の人材はそういない」livedoorスポーツ、2006年10月10日
  11. 二度目のチャンスに意気込むホアキンUEFA.com、2007年5月30日