ペドロ3世 (アラゴン王)

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ペドロ3世アラゴン語Pero III ペーロ3世1239年 - 1285年11月2日)は、アラゴン王、バレンシア王、バルセロナ伯(在位:1276年 - 1285年)。カタルーニャ語名ではペーラ3世(Pere III, バルセロナ伯としては2世)。後にシチリア王も兼ねた(ピエトロ1世イタリア語:Pietro I)、在位:1282年 - 1285年)。大王(ア:lo Gran、カ:el Gran、伊:il Grande、西:el Grande)と呼ばれる。ハイメ1世(征服王)と2番目の王妃であるハンガリーアンドラーシュ2世の王女ヨラーンの息子。よく知られるペドロ3世(Pedro III)はカスティーリャ語名である。

生涯

1276年、父王の死去によりアラゴンの王位に即いた。1262年に結婚した王妃コンスタンサ・デ・シシリアはシチリア王マンフレーディ神聖ローマ皇帝兼シチリア王フリードリヒ2世の庶子)の王女であり、自身もプッリャ公ロベルト・イル・グイスカルドの娘マファルダの血を引く相続人であったため(バルセロナ家の先祖であるバルセロナ伯ラモン・ベレンゲー3世テンプレート:Enlinkの母がマファルダであった)、かねてからシチリア王位を狙う野望を持っていたらしい。

1282年シチリアの晩祷事件が起こると、東ローマ帝国の皇帝ミカエル8世パレオロゴスの後援を受けてこれに介入し、フランス王家の傍系であるアンジュー家のシチリア王カルロ1世(アンジュー伯シャルル1世)の軍を破ってシチリア王位に即位した。翌年にも侵攻してきたフランス軍を破っている。

しかしこのため、ローマ教皇マルティヌス4世やカルロ1世の甥のフランス王フィリップ3世を敵に回すこととなり、一時は劣勢に追い込まれた。しかしペドロ3世は優れた軍事能力をもって、1285年にもフランス軍を破っている。その後、フランスに通じて謀反を起こした弟のマヨルカジャウメ2世を討伐しようとしたが、その最中に病死した。同年、カルロ1世、フィリップ3世、マルティヌス4世も死去している。

ペドロ3世の死後、アラゴン王位は長男アルフォンソ3世が、シチリア王位は次男ハイメ(イタリア語名ジャコモ)が嗣いだ。また三男フェデリーコは後にシチリア摂政を経て、アラゴン王位についたハイメに代わってシチリア王となった。

ダンテの『神曲』には、ダンテが煉獄の門の外でペドロ3世とシャルル1世が声を揃えて歌っているところを見るシーンがある。

子供

王妃コンスタンサ・デ・シシリアとの間に4男2女が生まれた。

関連項目

先代:
ハイメ1世(征服王)
アラゴン王
バルセロナ伯
バレンシア王
1276年 - 1285年
次代:
アルフォンソ3世(自由王)
先代:
カルロ1世
シチリア王
1282年 - 1285年
次代:
ジャコモ1世(公正王)

テンプレート:アラゴン王