フリッツ・ワルサー

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フリッツ・ワルサーFritz Walther, 1892年11月4日 - 1966年12月18日)は、ドイツの銃技師。同じく銃技師であったカール・ワルサーの長男で、19世紀から20世紀を通してドイツ国内における自動式拳銃及び半自動小銃の開発を行なってきた。なお姓のWaltherは日本語ではヴァルター(あるいはワルター)と表記されることが多く、その方がドイツ語の発音にも近いが、銃に関する話題では「ワルサー」という表記が普及している。

生涯

フリッツ・ワルサーの登場

テューリンゲン州ズール市ツェラ・メーリスでカール・ワルサーの長男として生まれる。ワルサー家は代々銃器開発の家柄。父であるカール・ワルサーが26歳の時にカール・ワルサー社の名前で銃砲店を創業したとき、フリッツも父カールと共に仕事に就いた。創業当時は主にスポーツ射撃用ライフルを生産していたがその後、カール・ワルサーは自動式拳銃の開発に没頭するようになり、フリッツもそれに習い共に研究を進めて行った。1908年にフリッツはワルサー社としては最初の自動式拳銃であるワルサーモデル1(Kaliber 6,35 mm)を開発に成功する。この画期的な半自動式拳銃はその後話題を呼び、ワルサー社はドイツ国内で有名になった。しかしその後起こった第一次世界大戦で敗北したドイツはヴェルサイユ条約の下、厳しい軍備制限と賠償金に悩まされることとなった。兵器の生産に関しても拳銃など小火器に至るまで制限されることとなり、一時的にワルサー社は危機に立たされた。(口径9mm以上、銃身長100mm以上の拳銃の生産は禁じられた)そこでフリッツはこの条約に触れない自動式拳銃の開発に乗り出す。

カール・ワルサー社の飛躍とナチス・ドイツ

1929年にワルサーPP、1931年にはワルサーPPのショートバージョンであるワルサーPPKを設計、開発している。ダブルアクション・トリガーとセフティメカニズムを採用したこの画期的な銃をナチス党は党の標準ピストルとして立て続けに制式採用する。この事からワルサー社の業績は上がり、企業としてズールに工場を構えることとなった。1933年にアドルフ・ヒトラー率いるナチス党が政権を獲得、1936年にはドイツはヴェルサイユ条約を一方的に破棄し再軍備宣言を行なった。この事で世界が第二次世界大戦へと進む中、ワルサー社はナチス・ドイツから支持を受け従業員約500名の軍需企業として変貌していった。

その後フリッツは銃製品としてワルサーPPをベースに9mmパラベラム弾を使用出来るようにした拳銃の開発を進めた。しかし元来小型で銃身の短いワルサーPPでは9mmパラベラム弾を発射した場合、耐久力に問題があった。そこで1937年にワルサー社は新たにショート・リコイルメカニズムといった新機構を取り入れた大型半自動式拳銃であるワルサーHP(ヘーレス・ピストーレ)を開発に成功する。後にワルサーHPはドイツ軍に制式採用されワルサーP38と命名された後に制式採用された。

第二次世界大戦の終結と西ドイツへの逃亡

大企業と変貌したワルサー社は兵器の開発に拳銃だけではなく自動小銃などの開発も並行して行なっていた。のちに半自動小銃であるワルサーGew43半自動小銃Mkb42(W)を開発し、軍に供給している。しかし1945年にドイツが降伏し工場も連合国軍による空襲により壊滅してしまった。ワルサー社があったツェラ・メリス地方もアメリカ軍、フランス軍が占領し、ドイツ国内でのすべての兵器開発を禁じた。その後の占領政策により変わってこの地方を占領したソ連軍によりハーネル社のヒューゴ・シュマイザーやヨハネス・グロフスフ社のグルノー博士など多くの銃技師が赤軍により拘束され、その後のソ連での銃開発を強要される事となった。この事に早くから危機を感じていたフリッツ・ワルサーはそれまでに開発してきた銃設計図を鞄に詰め、一族と会社の側近を連れてこの地方からの脱出に成功する。そしてアメリカ軍の占領地区であったハイデンハイムに逃れた。(早期からの占領軍の監視の下、どうやって西ドイツへ脱出できたかはいまだに不明である)

カール・ワルサー社の再創業、その後

家族と共に西ドイツへ脱出した後、1953年にフリッツは残った財産を使って西ドイツのウルム市で新しい工場を建設しカール・ワルサー社の再創業に成功した。その後、狩猟と射撃スポーツ用の銃に限り生産が許され、ワルサー社は再び銃の生産ラインの復活することとなった。この時いたワルサー社の従業員は6名で武器の製造を開始しスポーツ用のエアピストルであるLG 51や1953年にはLP 53が製造されアームなど銃全体の評判は良く、後の販売を確実にしていった。そして狩猟用の小口径ライフル銃の生産を開始した後からフリッツ・ワルサーは体調を崩し、1966年12月18日にこの世を去った。