ヘリコバクター・ピロリ

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ヘリコバクター・ピロリ (Helicobacter pylori ヘリコバクテル・ピュロリ) とは、ヒトなどのに生息するらせん型の細菌である。単にピロリ菌(ピロリきん)と呼ばれることも多い。

概要

ヘリコバクター・ピロリは、1983年オーストラリアロビン・ウォレン (J. Robin Warren) とバリー・マーシャル (Barry J. Marshall) により発見された[1]

胃の内部は胃液に含まれる塩酸によって強酸性であるため、従来は細菌が生息できない環境だと考えられていた。しかし、ヘリコバクター・ピロリはウレアーゼと呼ばれる酵素を産生しており、この酵素で胃粘液中の尿素アンモニア二酸化炭素に分解し、生じたアンモニアで、局所的に胃酸を中和することによって胃へ定着(感染)している。この菌の発見により動物の胃に適応して生息する細菌が存在することが明らかにされた。

ヘリコバクター・ピロリの感染は、慢性胃炎胃潰瘍十二指腸潰瘍のみならず、胃癌MALTリンパ腫びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫などの発生に繋がることが報告されている他、特発性血小板減少性紫斑病、小児の鉄欠乏性貧血慢性蕁麻疹などの胃外性疾患の原因となることが明らかとなっている[2][3][4]。細菌の中でヒト悪性腫瘍の原因となり得ることが明らかになっている唯一の病原体である[5]

ちなみに、日本語の「ピロリ」という読み方はラテン語読み pylōrī /pylɔ́ːrɪː/(ピュローリー)から来ている。これは、「幽門」を意味する pylōrus /pylɔ́ːrus/(ピュロールス)の属格で、古典ギリシア語 πυλωρός /pylɔːrɔ́s/「門番」からの借用語である。英語読みの場合は「ピロリ」ではなく「ヘリカバクター・パイローライ」のように発音する。ラテン語読みの場合は「ヘリコバクテール・ピュローリー」に近い。

歴史

年表

「胃の中の細菌」を巡る論争

1875年、ドイツの研究者がヒトの胃に存在しているらせん状の細菌を発見し顕微鏡で観察したのがヘリコバクターの最初の報告であると言われているが、詳細な記録は残っていない[6]。残っている最初の正式な記録は、1892年に、イタリアの研究者ジュリオ・ビッツォゼーロ(Giulio Bizzozero)がイヌの胃内の酸性環境で生息する細菌について著したものである[7]。その後、1899年、ポーランドの研究者ヴァレリ・ヤヴォルスキ(Walery Jaworski)がヒトの胃からグラム陰性桿菌とともにらせん菌を見いだし、彼はこの菌を Vibrio rugula と名付け、胃疾患との関連について、ポーランド語で書かれた著書の中で提唱した[8]

その後20世紀に入って、1906年には Krienitz らが胃癌患者の胃粘膜にらせん菌がいること[9]を、1920年代には Luck らが胃粘膜に(ヘリコバクター・ピロリに由来する)ウレアーゼの酵素活性があること[10]を、1940年には、Freedberg と Barron が胃の切除標本の約3分の1にらせん菌が存在すること[11]を、相次いで報告し、「胃の中の細菌」の存在と胃疾患との関連に対する医学研究者らの関心が徐々に高まっていった。

しかし、この説に対して異を唱える研究者も多く存在した。19世紀当時、細菌学ロベルト・コッホらの活躍によって隆盛を極めていたが、当時行われていた培養法では、この「胃の中の細菌」を分離培養できず、生きた菌の存在を直接証明できなかったためである。また細菌学の黎明期にはコレラ菌チフス菌など、多くの消化管感染症の原因菌が研究されたが、胃は胃酸による殺菌作用によって、これらの細菌感染に対する防御機構としての役割を果たすと考えられており、このこともしばしば反対派の論拠として挙げられた。胃ですべての菌が死滅するわけではないものの、そこは生命にとって劣悪な環境であり、細菌は生息できないと考えられていたのである。

そして1954年、アメリカの病理学者で消化器病学の大家であった、エディ・パルマー (Eddy D Palmer) が、1000を超える胃の生検標本について検討した結果、らせん菌が発見できなかったと報告し、Freedberg らの報告は誤りであると主張した[12]。この報告によって、それまで報告されてきたらせん菌は、一種の雑菌混入(コンタミネーション)によるものだったのではないかという考えが主流になり、一部の医学研究者を除いて、「胃の中の細菌」に対する研究者の関心は薄れていった。

ヘリコバクター・ピロリの発見

1983年オーストラリアロビン・ウォレンバリー・マーシャルがヒトの胃から、らせん状の菌を培養することに成功した。この発見には、Skirrow らが1977年に確立したカンピロバクターの微好気培養技術[13]が基盤となっている。カンピロバクターは感染性の下痢の原因となるらせん菌であり、微好気性(低濃度の酸素と、二酸化炭素を必要とする)かつ栄養要求性の厳しい細菌の一種であるため、特殊な培地と培養法が必要である。マーシャルらはその培養法を応用して、慢性活動性胃炎の患者の胃内、幽門付近かららせん菌を分離することに成功した。

この成功の影には一つのセレンディピティがあったと伝えられている[14]。カンピロバクター培養法を導入したマーシャルらであったが、それでも目的の菌の培養には失敗が続いた。しかし1982年4月のイースターのとき、マーシャルの実験助手が休暇をとったため、マーシャルは通常は数日で終わらせる培養を、5日間そのまま放ったらかしで続けることにした。そして休暇が終わったとき、培地上に細菌のコロニーができていることに気づき、これが本菌の発見に繋がった。後に分かったことだが、ヘリコバクター・ピロリは増殖が遅く、培養には長時間を必要とする細菌であった。

光学顕微鏡で観察した形態の類似性と微好気性であることが共通していたため、この菌はカンピロバクターの一種と考えられ、Campylobacter pyloridis(campylo-; 湾曲した、カーブした、bacter; 細菌、pylorus; 幽門)と命名された。ただし、この名称はラテン語の文法上誤りであったため、1987年Campylobacter pylori に改名された。その後、電子顕微鏡下での微小構造の違いや遺伝子の類似性から、1989年にカンピロバクターとは別のグループとして、新たにヘリコバクター属が設けられ、Helicobacter pylori(helico-; らせん状の)に名称変更された[15]。また、同様の方法でヒト以外にもフェレットサルネコチーターなどの動物の胃からも同様の菌が分離されてヘリコバクター属に分類された。

病原性の証明

発見された当時、慢性胃炎や胃潰瘍はもっぱらストレスだけが原因であるという説が主流であったが、マーシャルらは本菌がこれらの疾患の病原体であるという仮説を提唱した。これらの疾患の慢性化と胃がんの発生が関連することが当時すでに知られていたため、この仮説は本菌ががんの発生に関与する可能性を示唆するものとしても注目されたが、当初は疑いの目を持って迎えられた。

そこでマーシャルは培養したヘリコバクター・ピロリを自ら飲むという、自飲実験を行った[16][17]。その結果、マーシャルは急性胃炎を発症し、コッホの原則の一つを満たすことが証明された。ただしマーシャルの胃炎はこの後、治療を行うことなく自然に治癒したため、急性胃炎以外の胃疾患との関連については証明されなかった。一方、彼とは別に、ニュージーランドの医学研究者、アーサー・モリスもまた同様の自飲実験を行った[18]。その結果、マーシャルと同様に急性胃炎を発症しただけでなく、モリスの場合は慢性胃炎への進行が認められた。これらの結果から、ヘリコバクター・ピロリが急性および慢性胃炎の原因になることが証明された。この後、疫学的な研究から、これらの疾患の慢性患者の多くから本菌が分離されることや、本菌の除菌治療が再発防止に有効であることも明らかになった。

胃癌との関連については、ヒト以外の動物を用いた数多くの実験にも関わらず証明ができないままであったが、疫学調査の結果から明らかになっていった。そして1994年には国際がん研究機関 (IARC) が発行している IARC発がん性リスク一覧に、グループ1(発がん性がある)の発がん物質として記載された[5]。その後、日本から有用な成果が相次いで報告された。1996年に平山らは、ヘリコバクター・ピロリがスナネズミの胃に感染し、ヒトと同様の慢性胃炎、消化性潰瘍を形成することを発見した[19]1998年には、渡辺らが長期間飼育したピロリ菌感染スナネズミに胃がんが発生したことを報告し、コッホの原則に基づく最初の証明とされた[20]。この年にはさらに立松らによって、発がん物質投与とピロリ菌感染を組み合わせた、より効率の高い動物胃癌モデルが確立されている[21]

一方、ヘリコバクター・ピロリの除菌が広く行われだした頃から、この治療を行った患者に食道炎や食道がんの発生が多いことが報告されており、本菌は胃に対して悪影響をおよぼす傍ら、食道に対してはむしろ疾患を防御している可能性が議論されている(後述)。

その後の展開

医学的な重要性から、ヘリコバクター・ピロリの研究は精力的に進められ、1997年にはゲノム解読が完了した[22]。この結果から、胃内定着の機構や発がんのメカニズムについての研究がさらに進められている。

2005年には、ヘリコバクター・ピロリの発見の功績によって、ロビン・ウォレンとバリー・マーシャルに対してノーベル生理学・医学賞が授与された[23]

細菌学的特徴

形態・培養

グラム陰性で、直径約0.5µm、長さ2.5-5µm。2-3回ねじれたらせん菌の形状を持ち、顕微鏡下ではS字状、あるいはカモメ状と呼ばれる曲がりくねった形態として観察される[24][25]。長軸の両端(極)に、それぞれ4-8本の鞭毛(極鞭毛とよばれる)を持ち、この鞭毛の回転運動によって、溶液内や粘液中を遊泳して移動することが可能である。微好気性で栄養要求性も厳しいため、分離や培養が難しい部類の細菌であり、酸素濃度5%、二酸化炭素濃度5-10%の条件で専用の培地を用いることで培養可能となる。

ヘリコバクター・ピロリは自然環境においては動物の胃内だけで増殖可能であり、それ以外の場所では、生きたらせん菌の形では長時間生残することはできない。しかし、患者の胃生検組織[26]あるいは便中から coccoid form と呼ばれる球菌様の形態に変化したものが分離されることがある。coccoid form は一種の VNC状態だと考えられており、この形態では増殖はできないものの、一部の coccoid form が再びヒトの体内に入って蘇生する可能性が示唆されているため、この性状も本菌の感染に関与しているのではないかという説も提唱されている。

胃内への定着

ヘリコバクター・ピロリはヒトおよびサル、ネコ、ブタ、イヌの胃内に感染することが明らかになっている[24]。また、さまざまな動物の胃にもそれぞれ、他のヘリコバクター属細菌が定着している。ヘリコバクター・ピロリは、中性と酸性領域の2つの至適pHを持つウレアーゼを産生し、この酵素が本菌の胃内への定着と病原性に大きく関与している(下記に詳述)。ヘリコバクター属は2007年の時点で30種[27]に分類されているが、ピロリに類似したウレアーゼを持つ H. mustelaeH. felis などは動物の胃内に定着可能であり、一方、ウレアーゼを持たないものや酸性条件下では働かないウレアーゼを産生するものは、胃内には定着せずに腸内に寄生している。

疫学

感染率

従前は世界中ほとんど全ての人が保菌していたが、先進工業国では衛生管理の徹底によって、この菌を持たない人が増えてきている[28]2005年現在、世界人口の40-50%程度がヘリコバクター・ピロリの保菌者だと考えられている。日本は1992年の時点で20歳代の感染率は25%程度と低率であるが、40歳以上では7割を超えており発展途上国並に高い[29]。日本のこの極端な二相性には、戦後急速に進んだ生活環境の改善が背景にあるものと考えられている。

感染経路

本菌の感染経路は不明であるが、胃内に定着することから経口感染すると考えられており、口-口および糞-口感染が想定されている。保菌している親との小児期の濃密な接触(離乳食の口移しなど)、あるいは糞便に汚染された水・食品を介した感染経路が有力視されている[30]。飼いネコやハエによる媒介感染[31]、胃内視鏡検査を通じた医原性感染の可能性も考えられるが、どの程度強く関与しているかの統一見解は得られていない。

病原因子

ファイル:H pylori virulence factors ja.png
H. pyloriの病原因子群。
ファイル:Helicobacter Pylori Urease.png
ウレアーゼの立体構造模式図。

ヘリコバクター・ピロリには多くの病原因子が存在する[32]。特にウレアーゼは本菌の胃内定着に必須であるとともに、走化性や粘膜傷害にも大きく関与する。これ以外にも、本菌に特異的な外毒素(菌体外に分泌される毒素)である細胞空胞化毒素 (VacA; Vacuolating toxin A) や、ムチナーゼプロテアーゼなどの分泌酵素群が、粘膜および胃上皮細胞の傷害に直接関与すると考えられている。またグラム陰性菌の最外殻に存在するリポ多糖などによって起きる、好中球などの遊走によっても炎症が引き起こされる。また本菌は線毛に類似した IV型分泌装置と呼ばれる構造を有しており、これによって宿主細胞に直接注入されるエフェクター分子(CagAなど)は宿主細胞のIL-8産生を誘導して炎症反応を惹起する他、アクチン再構築や細胞増殖の亢進、アポトーシスの阻害など多様な反応を引き起こし、これが癌の発生に繋がるとも考えられている。この他、鞭毛は本菌が感染部位となる胃粘膜に遊泳して到達するために、また外膜タンパク質の一種は本菌が上皮細胞に接着するために必要であることが知られている。

これらの病原因子はすべて本菌による感染や胃粘膜傷害に関与するが、このうち本菌に特異的な VacA や CagA について研究が進んでいる。その結果、同じヘリコバクター・ピロリでも、VacA や CagA を持つ菌株と持たない菌株が存在することが明らかになった。これらを持つ菌株は毒性が強く、これらの強毒株こそが慢性胃炎や消化器潰瘍、胃がんの本当の病原体で、弱毒株の方はあまり害のない一種の常在菌なのでないか、という仮説も提唱されている。

ウレアーゼ

ヘリコバクター・ピロリの持つウレアーゼは細胞の表層部に局在しており、中性および酸性領域の2種類の至適pH を持つため、胃内部の酸性条件下でも尿素からのアンモニア産生が可能である。ウレアーゼによって作られたアンモニアは局所的に胃液を中和するため、その部分にヘリコバクター・ピロリが定着可能となって感染が成立する。アンモニアはまた、ヘリコバクター・ピロリに対して走化性因子としても作用し、胃内にいる他のヘリコバクター・ピロリが鞭毛により遊泳して感染部位に集合しやすくなる。さらに細菌感染に対して動員された白血球が産生する過酸化水素と、その過酸化水素からさらに生成する活性酸素や次亜塩素酸がアンモニアと反応すると、モノクロラミンなどの組織障害性が強いフリーラジカルが生成されて、胃粘膜傷害がさらに進行する[33][34]

CagA

ヘリコバクター・ピロリのゲノム中には、「cag pathogenicity island (cag PAI)」と呼ばれる領域があり、IV型分泌装置関連遺伝子など30種余りの遺伝子がこの領域に含まれている。CagA はこの領域に含まれる遺伝子の1つ、cagA遺伝子 (cytotoxin-associated gene A) から産生される蛋白である。cagA遺伝子を持つピロリ菌株に感染した場合、持たない菌株の感染よりも消化性潰瘍や胃癌になるリスクが高い[35]。東アジア型の菌株の大半が cagA遺伝子を持つ一方で、西洋型菌の CagA保有率は50%程度であり、胃癌発生率の地域差と相関している。

胃の粘膜に取り付いたヘリコバクター・ピロリは、IV型分泌装置を通して CagA蛋白を細胞内に注入する[36]。注入された CagA は宿主細胞内でリン酸化を受け、これまでに少なくとも細胞分裂細胞接着に影響を及ぼすことが分かっている[37]

病原性

ヘリコバクター・ピロリは、ヒトの萎縮性胃炎胃潰瘍十二指腸潰瘍などの炎症性の疾患[9][38]胃癌[39]MALTリンパ腫(粘膜関連リンパ組織に生じるBリンパ腫。MALT:Mucosa-Associated-Lymphoid-Tissue)、びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫などのがんの発症と密接に関連した病原細菌である[2]国際がん研究機関が発表している IARC発がん性リスク一覧では、グループI(発がん性がある)に分類されている。ただし疾患が現れるのは、保菌者の約3割程度であり、残りの7割の人は持続感染しながらも症状が現れない健康保菌者(無症候キャリア)だと言われている。

また反対に、人体におけるヘリコバクター・ピロリの存在メリットについての研究もなされており、小児ぜんそく、アレルギー性鼻炎、皮膚アレルギーなどの疾患リスクがヘリコバクター・ピロリの感染者の方が低いと言う報告もある[40]

胃、十二指腸

ファイル:Pylorigastritis.jpg
ヘリコバクター・ピロリが感染した胃粘膜上皮の組織像(Warthin-Starry染色)。

ヘリコバクター・ピロリが、宿主であるヒトの胃に感染した場合、それが初感染のときには急性の胃炎や下痢を起こす。ほとんどの場合はそのまま菌が排除されることなく胃内に定着し、宿主の終生にわたって持続感染を起こす。持続感染したヒトでは萎縮性胃炎胃潰瘍十二指腸潰瘍のリスクが上がる。

胃の表面では粘膜上皮細胞を 1mm程度の厚さで粘液層が覆っており、これが胃液に含まれる胃酸や、ペプシンなどのタンパク質分解酵素から上皮細胞を守る役割を担っている。胃内に侵入したヘリコバクター・ピロリは、鞭毛を使ってこの粘液層内部に泳いで移動し、菌体の表層にあるリポ多糖や外膜タンパク質などの分子の働きによって上皮細胞の表面に付着する。この粘液層の内部もまた酸性度の高い環境であるため、通常の細菌はそこに定着することはできないが、ヘリコバクター・ピロリの持つウレアーゼは粘液中の尿素二酸化炭素アンモニアに分解し、生じたアンモニアが粘液中の胃酸を中和することで酸による殺菌を免れる。殺菌を逃れた菌は粘液層で増殖する。また尿素から生じたアンモニアなどは尿素やヘミンなどの生体分子とともに、走化性因子として周囲の菌を呼び寄せ、粘液下層にヘリコバクター・ピロリの感染巣が形成される。この感染巣の部分で、ヘリコバクター・ピロリが作るさまざまな分解酵素の働きによって粘液層が破壊され、粘膜による保護を失った上皮細胞が傷害されて炎症が起きる。また菌が分泌する VacA などの毒素や IV型分泌装置で上皮細胞に注入する CagA などのエフェクター分子による上皮細胞の直接的な傷害や、細菌の感染に対して動員された好中球などの白血球による組織傷害なども加わって、炎症を増悪させる。

またこれらの炎症性疾患が慢性化すると、胃癌や、MALTリンパ腫びまん性大細胞型B細胞性リンパ腫が発生するリスクも上昇する。炎症に続いて起こる組織修復が繰り返されることによって、細胞がん化のリスクが上昇することが、癌の発生原因の一つであると考えられている。また、ヘリコバクター・ピロリが産生する CagA などの病原因子が、宿主細胞増殖を促進したり、アポトーシスを抑制することで、宿主細胞のがん化に関与している可能性も指摘されている。

ヘリコバクター・ピロリ菌の陽性者では、陰性者と比較して胃癌の発生のリスクは5倍となる。さらに、胃の萎縮の程度が進むと胃癌のリスクも上がり、ヘリコバクター・ピロリ菌感染陽性でかつ、萎縮性胃炎ありのグループでは、陰性で萎縮なしのグループと比較して胃癌の発生リスクは10倍となっている[41]

ファイル:H pylori ulcer diagram ja.png
ヘリコバクター・ピロリによる胃粘膜傷害
(1) 胃内に侵入した菌は鞭毛を使って胃の粘液層内部を移動し、上皮細胞の表面に付着する。(2) ウレアーゼが粘液中の尿素からアンモニアを生じ、胃酸を中和する。(3) 殺菌を逃れたピロリ菌が粘液層で増殖。また走化性因子が周囲のピロリ菌を呼び寄せる。(4) ピロリ菌が作るさまざまな分解酵素は粘液層を破壊し粘膜による保護を失った上皮細胞が炎症を起こす(図中央)。また菌が分泌する VacA などの毒素(右)、IV型分泌装置で上皮細胞に注入するエフェクター分子(左)が上皮細胞を傷害して、炎症を増悪させる。

食道

胃炎治療のために除菌治療を行った人の一部で逆流性食道炎の発生や、それに伴う食道がんのリスクが増加する可能性が報告されている[42]。しかし、多施設二重盲検無作為コントロール試験による最近の調査ではリスク増加が否定されるなど[43]、この現象についてはまだ一致した見解が得られていない。

胃内にヘリコバクター・ピロリを持たない人や除菌治療を行った人では、胃酸の分泌が過剰となって胃内の酸性度が増し、逆流した胃液が食道組織を傷害して、一過性の逆流性食道炎やバレット食道を生じることがある。バレット食道は食道腺癌の前段階の病変として現れることも知られている。ただし、この逆流性食道炎は一過性のもので、生涯にわたって増悪するかどうかについては否定的な専門家が多い。また除菌時にみられるバレット食道の多くは病変が短いタイプのもの (SSBE; Short Segment Barrett Esophagus) であり、このタイプの発生と食道腺癌発生のリスクについても統一した見解は得られていない。

食道に対する知見から、ヘリコバクター・ピロリの持続感染は、胃がんとは逆に、食道がんのリスクを低下させているのではないかという考えも提唱された。本菌はもともと宿主と共生関係にある常在細菌の一種であり、胃酸分泌のコントロールによって食道の疾患予防に貢献していると考えている研究者も存在する[6]。人間の胃内のpH調整機構そのものが、本来常在細菌であったヘリコバクター・ピロリによる胃酸中和の存在を前提とした形で進化を遂げているのだと主張している。

検査

ヘリコバクター・ピロリ感染の有無の診断には下記の検査法のいずれかを用いる(複数であればさらに精度が高くなる)。他の一般的な細菌感染症の場合と同様な、(1) 病原体そのものの存在を検出する、(2) その病原体の感染によって患者の血液中に産生された抗体の量を測定する、という原理によるものの他に、本菌に独特な検査方法として、(3) 本菌が有するウレアーゼの酵素活性を測定するもの、も利用されている。日本ヘリコバクター学会のガイドラインでも、これらの診断法が採用されている。

一般検査

尿素呼気テスト (urea breath test, UBT)
13C-尿素を含んだ検査薬を内服し、服用前後で呼気に含まれる 13C-二酸化炭素の量を比較する。本菌に感染していると、そのウレアーゼによって胃内で尿素がアンモニアと二酸化炭素に分解されて、呼気中の二酸化炭素における 13C の含有量が、非感染時より大きく増加するため、間接的な診断ができる。検査薬服用の20分後の 13C-二酸化炭素の上昇が2.4パーミル以上の場合に、本菌による感染があるものとするなどの基準値が設けられている。通常、除菌治療の効果判定の目的に施行されている場合が多い。
血中・尿中抗H. pylori IgG抗体検査
ヘリコバクター・ピロリが感染すると、本菌に対する抗体が患者の血液中に産生される。血液や尿を用いてこの抗体の量を測定し、ヘリコバクター・ピロリ抗体が高値であれば本菌に感染していることが認められ、ヘリコバクター・ピロリ感染の有無を検索するスクリーニング検査として現在最も一般的な方法。尿を検体とする場合は判定が迅速で20分程度で判定が可能である。しかし、除菌後の抗体価低下には時間が掛かるため除菌後すぐでは偽陽性が出やすい。
便中H. pylori抗原検査
診断や研究用途に作られたヘリコバクター・ピロリに対する抗体を用いた抗原抗体反応による検査。この抗体が、生きた菌だけでなく死菌なども抗原(H. pylori抗原)として認識し、特異的に反応することを利用し、糞便中H. pylori抗原の有無を判定する。非侵襲的に本菌の存在を判定できるという長所がある。

内視鏡生検検査

迅速ウレアーゼ試験 (rapid urease test, RUT)
尿素とpH指示薬が混入された検査試薬内に、胃生検組織を入れる。胃生検組織中にヘリコバクター・ピロリが存在する場合には、本菌が有するウレアーゼにより尿素が分解されてアンモニアが生じる。これに伴う検査薬の pH の上昇の有無を、pH指示薬の色調変化で確認する。この検査によって本菌の存在が間接的に診断できる。
組織鏡検法
組織切片を HE(ヘマトキシリン-エオジン)染色あるいはギムザ染色により染色し、顕微鏡で観察する。直接観察することによりヘリコバクター・ピロリの存在を診断できる。また、培養不能でウレアーゼ活性ももたない coccoid form(球状菌)の状態でも診断できるという長所がある。
培養法
胃生検切片からの菌の分離培養によって、ヘリコバクター・ピロリの存在を確認する。この検査法の長所は菌株を純培養し入手できる点であり、この菌株を薬剤感受性 (MIC) 測定や遺伝子診断など他の検査に利用することができる。欠点は、本菌は増殖速度が遅いために培養には3日から7日を要するため、この検査法をとると時間がかかる点である。

治療

除菌療法の変遷

ヘリコバクター・ピロリの除菌は、発見と同時に始まっており、分離培養に初めて成功したマーシャルは、ただちに除菌治療に有効な薬剤の検討を開始している[44]。初期にはビスマス製剤による除菌が試みられたが、単剤では効果が低かったため、アモキシシリンチニダゾールといった抗生物質を組み合わせた2剤併用[45][46]、さらにはメトロニダゾールを加えた抗生物質3剤による方法が開発された[47]。この方法は古典的3剤併用療法と呼ばれ、改良を加えながら高い除菌率を得ることに成功したが、一方で副作用の問題が残された。

初期のビスマス製剤を軸にした除菌療法は、抗生物質の種類を増やし、効果の上昇を狙ったものだった。抗生物質の活性は一般的に pH中性環境で最も高いため、プロトンポンプ阻害薬 (PPI) などの酸分泌抑制薬を併用し、胃内環境を中性に近づける試みが行われた[48]。この方法は一過性の胃酸過多による副作用を抑えられるという利点もあり、その後クラリスロマイシンの併用を加え、90%超という除菌率を達成した[49]。これが新3剤併用療法であり、1週間という短期間の服用で高い効果を得られることから、現在の除菌療法のスタンダードとなっている。

日本における除菌療法の実態

現在、日本で認可されている保険診療の対象となっている除菌療法は、プロトンポンプ阻害薬 (PPI) と抗生物質2剤(アモキシシリン (AMPC) + クラリスロマイシン (CAM))を組み合わせた「PPI + AMPC + CAM」の3剤併用療法で、3剤を7日間服用する。当初はプロトンポンプ阻害薬としてランソプラゾールのみが指定されていたが、オメプラゾールラベプラゾールも順次保険診療の対象となった。この方法による除菌の成功率は80%程度とされてきたが、近年クラリスロマイシン耐性菌株が増え[50]、除菌率が70%程度まで低下してきているとの報告もある。クラリスロマイシン耐性菌株に対しては、ヨーグルトを併用し除菌の成功率が向上したとの報告がある[51]。クラリスロマイシンは呼吸器感染症の治療に用いられることから、小児の耐性菌保有も見られる[52]。 前述の一次除菌療法にて除菌が失敗した場合、メトロニダゾール (MNZ) に変えて「PPI + AMPC + MNZ」の3剤併用療法による二次除菌療法まで保険適応となっている。

また、二次除菌療法でも除菌が失敗した場合、三次除菌療法がいくつか提唱されており、「PPI + AMPC + MNZ」の倍量投与・倍期間投与等や、またシタフロキサシン (STFX)、レボフロキサシン (LVFX) 等を組み合わせた「PPI + AMPC + STFX」「PPI + AMPC + LVFX」の3剤併用療法等が行われたりするが、保険診療の適応にはならない。

除菌療法の副作用

除菌療法により生じる副作用(有害事象)は、下痢や軟便の報告が多い。報告数は少ないが、味覚障害や発疹もあるとされる。また、ペニシリン抗生物質に対する過敏症や薬物相互作用に留意する必要がある。クラリスロマイシンに対しては片頭痛薬のエルゴタミン含有製剤、痛風薬のコルヒチンなどは併用禁忌である[53]。二次除菌療法に用いるメトロニダゾールは、アルコールとの相互作用によって腹痛や嘔吐を起こす[53]

保険適応

本邦において、1995年に日本消化器病学会治験検討委員会より除菌ガイドラインが発表され、2000年に日本ヘリコバクター学会より「ヘリコバクター・ピロリ感染の診断と治療のガイドライン」が発表された[54]

本邦において、ヘリコバクター・ピロリの除菌療法の保険適用は、2000年11月に「胃潰瘍」と「十二指腸潰瘍」のみに適応となり、2010年6月に胃MALTリンパ腫、特発性血小板減少性紫斑病、早期胃癌ESD に適応後、2013年1月には厚生労働省の専門部会により、除菌により胃炎が改善するとの研究結果の確認がされ、翌月2013年2月に、胃潰瘍の前段階である慢性胃炎も追加適応となった[55][56][57]

食品による菌の抑制

近年、食品によるピロリ菌の抑制効果が確認されている。発芽3日目のブロッコリーの新芽(スプラウト)を2か月間継続して食べた感染者において、の中に住むピロリ菌が減少したとの報告がされている[58]。ブロッコリーの新芽に含まれるスルフォラファンが有効成分の1つと考えられている[59]。また、に含まれるシリンガレシノールというリグナンの一種もピロリ菌の増殖抑制や胃粘膜への感染防御に有効であることが発見された。

このほか、緑茶[60][61]、緑茶カテキン[62]ココアコーヒー[63]わさび[64]ショウガ[65]ニンニク[66][67]キムチ[68]ヨーグルト[69]乳酸菌のLG21[70]キャベツカリフラワーブロッコリー等のアブラナ科野菜に含まれるイソチオシアネート[71]などでも抑制が報告されている。さらに、ニュージーランド特産の蜂蜜であるマヌカハニーも、ピロリ菌駆除力を持つことが報告されている[72][73]

ただし、これら多くの食品による抑制効果は限られた調査対象や動物実験を基にしたものがほとんどである。また、特定の食品だけを過剰に摂取することは(たとえピロリ菌に対しては効果があったとしても)、全身の健康にとって良くないことは容易に想像できる。ヘリコバクター・ピロリ関連疾患の現実的かつ実践的な予防対策として、広範囲な疫学調査に基づき広く受け入れられているのは野菜果物の摂取、および減塩である[74][75]

関連項目

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出典・脚注

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外部リンク

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