バルビーノ・ガルベス

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テンプレート:Mboxテンプレート:Infobox baseball player バルビーノ・ガルベス・ヘレスBalvino Galvez Jerez1964年3月31日 - )は、ドミニカ共和国出身の元プロ野球選手投手)。

来歴

ドジャース時代

テンプレート:Byにドラフト外でロサンゼルス・ドジャースと契約。テンプレート:Byにメジャーに昇格するがこの年以外はマイナー暮らしを続けていた。1994年に兄弟エレファンツへ入団(登録名は巴比諾)。1年目から16勝を挙げ、翌年も10勝で2年連続二桁勝利を記録する。

巨人時代

テンプレート:Byに巨人の春季キャンプへ参加を志願すると、テスト生として入団テストを受験し、合格・入団が決まった。過去の経緯から当初はそれほど注目されなかったが、この年は16勝を挙げ、斎藤雅樹と共に最多勝のタイトルを獲得する活躍[1]で「メークドラマ」に貢献した。同年5月1日の対中日ドラゴンズ戦(ナゴヤ球場)において、5回裏にガルベスの投球が山崎武司の頭付近を通過、これに山崎が激怒しマウンドへ詰め寄り、ガルベスのパンチに対してヘッドロックをかけて応戦、その後両軍総出の乱闘に発展した。この結果、両者共に退場処分を受けた。この乱闘劇は「ヘビー級」と評され[2]珍プレーなどで取り上げられるなど話題となった。これがきっかけとなり日本酪農乳業協会のCMに出演。「カルシウムブソク、シテイマセンカ?」という台詞で人気を博した。

テンプレート:Byは12勝12敗の成績で槙原寛己と並んでチーム最多の勝利数を記録。テンプレート:Byも7月終了時点でリーグトップとなる9勝を挙げる活躍を見せたが、乱闘事件(後述)を起こしてしまったことで出場停止処分を受け、後半戦を事実上棒に振る結果となった。この年限りでの退団が決定的とする報道もあったが、シーズン終了後に球団と再契約を結び残留が決定した。この再契約についてはセ・リーグの審判団が連盟に対して抗議文を送っている。

テンプレート:Byは開幕投手の有力候補であった桑田真澄の調整遅れもあり、オープン戦で好調だったガルベスに巨人史上初の「外国人開幕投手」の座を任せられた。ガルベスは期待に応え、9回1失点の好投で勝利投手となっている。この年から打線の援護に恵まれない試合が目立つようになり、防御率は3.66とリーグ7位の数字を残しながら9勝12敗と初めて負け越した。シーズン終盤には4連敗を記録している。走者を気にし過ぎるという弱点が一向に改善されないことから限界説も囁かれ始めた。

テンプレート:Byは阪神から移籍してきたダレル・メイや2人の韓国人投手(趙成珉鄭珉哲)で外国人投手2枠の座を争うことになったが、開幕ローテーションの座は確保する。しかし、前年以上に打線の援護の無さや守備のミスが目立ち、開幕から6試合先発して自責点は毎試合3点以下ながら全て敗戦投手、1999年終盤からの通算では10連敗となった。この6連敗を受けて5月に二軍に降格して調整を続けていたが、一軍に上がれない不満から代理人を通じて球団に自由契約を要求する騒動も起きた。結局ガルベスが要求を取り下げることで決着は付いたが、夏場に痛めた膝の治療のため帰国。9月に再来日し、日本シリーズを見据え調整していたが、シリーズ前の10月上旬に退団が決定して帰国した。

パイレーツ時代

テンプレート:Byピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約を結び、メジャー復帰を目指す。投手陣に故障者が続出していたこともあって、先発ローテーション入りの候補にもなっていたが、開幕を控えた3月下旬の練習中に突然行方不明となり(仲間とトラブルがあったとされるが、詳しい理由は不明)、復帰したが結局直後に退団となった。

三星時代

4月をメキシカンリーグでプレーし、5月に三星ライオンズと年俸20万ドルで契約し、のちに巨人へ入団する李承燁とチームメイトとなる。初登板で韓国球界初勝利を挙げたが、就労ビザではなく観光ビザで入国していたことが発覚して問題となる。対戦相手のハンファ・イーグルスから提訴寸前まで問題となったが、結局不問とされ、ガルベスも早急に就労ビザを取得した。

その後も胸元への速球を武器に前半戦だけで9勝をマーク、オールスターにも出場した。後半戦早々に10勝目を挙げてタイトル争いでも上位につけていたが、優勝が目前となった8月下旬に母親が病に倒れたため、その看病を理由に突然帰国した。球団は6度に渡って復帰要請するが、ガルベスは何かと理由をつけて延期し、レギュラーシーズン終了まで戻らなかった。チームはリーグ優勝し、ガルベスも韓国シリーズ出場のため10月上旬に復帰する。韓国シリーズ(対斗山ベアーズ戦)では2試合登板するが、タイロン・ウッズに2本塁打を喫するなど2試合で計10失点と打ち込まれ、シリーズ敗退の一因となった(なお、韓国プロ野球で公式戦優勝チームが韓国シリーズ優勝を逃したのは、2012年シーズン終了時でこのときの三星が最後である)。レギュラーシーズンでは10勝4敗、防御率2.47と好成績だったが、この年限りで退団した。

プレースタイル

投球時

舌を出しながら投げるのが特徴で、球種は150km/h近い速球(ムービング・ファストボール)とチェンジアップの他に、力のあるシュート、スライダーを持っていた。制球力は高く、大柄な身体に似合わない丁寧な投球で打たせて取るのが持ち味で、どちらかというと速球派より技巧派に分類される投手である。特に右打者の内角攻めを得意としており、相手のバットが1試合中に3本折れることもあった。その一方で危険球で退場になったこともある。リーグ最多完投を2度記録するなどスタミナも抜群で、典型的な先発・完投型の投手だった。

自身は決め球はチェンジアップと自負していたが、このチェンジアップは諸刃の剣で三振を取れる一方痛打も多く、首脳陣からはスライダーとシュートで十分勝てると諭してもチェンジアップに対して固執していた。

かなりの神経質で、相手チームが機動力で揺さぶりをかけてくると、走者を気にしすぎるあまり制球を乱し、自滅するケースも見られた。審判の判定に対する不満を態度で表すことも珍しくなかった。

落ち着かないとマウンドを蹴ったり周りをうろつくことがあり、中継で「ガルベスがマウンドを蹴っています!」などと異変の前兆として実況された後は打たれて自滅することが多かった。

打撃

投手ながら打撃も良く、僅差の試合ではイニングの先頭打者の際にセーフティーバントを試みたり、当たり損ねの内野ゴロでも一塁まで全力疾走するなど、投手には珍しい打撃の真剣さが見られた。本塁打も通算で10本放っており、登板の少なかった2000年以外は毎年本塁打を打っていた。1999年には満塁本塁打を2本打っており、日本プロ野球で「1シーズンに満塁本塁打を2本打った投手」は現在に至るまでガルベスのみである[3]

評価

走者がいる場面での投球や素行面に欠点があったとはいえ、最多勝を記録するなど投手としての実力は高いものであり、「ガルベス事件」までの3年間で37勝25敗という成績は助っ人として十分に合格点だった。テスト生からの入団だったことや、巨人の歴代外国人投手中最多の通算46勝を挙げたということもあり、「巨人史上最高の外国人投手」との声も聞かれる。その後、巨人が「NPB他球団で実績をおさめた外国人」に獲得の重点を置く戦略に転換したこと、また北米方面での獲得戦略の失敗も相次いだため、巨人が自前で獲得した「来日1年目の外国人」が、当年に規定投球回数に達した例は、ガルベス以降現れていない。

台湾出身のガルベスの活躍は、日本の各球団が改めて台湾に目を向けるきっかけにもなった。ガルベスの紹介で巨人入りしたマリオ・ブリトーは1年で退団したものの19セーブを挙げ、またブライアン・ウォーレンカルロス・ミラバルなど、台湾球界を経て日本の球界に入団し、長く活躍した選手も多い。逆に、日本のプロ野球を戦力外になった選手が台湾で再起をかけることも、この頃からよく見られるようになった。

人物

グラウンド上では非常に気性が激しく、闘志をむき出しにする熱い男となっていた。上述の山崎以外では野村謙二郎とも死球をきっかけに両者が詰め寄り、あわや乱闘という事態になっている。当時のチームメイトは「普段の彼(ガルベス)は、非常に温厚な紳士」と口々に語っていた。99年から2年間共にプレーした上原浩治は後年自身の公式サイトの掲示板でガルベスについて「普段は良いやつだけど試合になると人が変わる」と語った事がある。

変化球を投げる際に舌を出す癖があった。この癖が他チームに察知されていることを報道関係者から教えられたが、ガルベスは「じゃあ、ずっとオレの舌を見ていればいいよ。それでちゃんとしたバッティングが出来るとは思わないけどね」と返答している。

巨人入団時に投手コーチを務めていた堀内恒夫は解説で、「ガルベスも年に何度かは、走者に揺さぶられようが審判の判定が辛かろうが冷静でいられる時がある。でもそういう時は大抵コンディションが悪くて打たれてしまう。少々カッカしてるぐらいのほうがむしろベストな状態ですよ」と評していた。

2000年、二軍降格中に入来祐作などの若手投手に対して、チェンジアップなど変化球の投げ方を懇切丁寧に指導する姿がよく見られた。

息子のブライアンも野球選手で、現在ドジャース傘下のマイナーチームでプレーしている[1]

阪神・巨人戦での乱闘事件

テンプレート:By7月31日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)において乱闘事件が発生。ガルベスはその試合の退場と懲罰が下された。

この試合ではガルベスは大豊泰昭に2打席連続本塁打を喫するなど調子が悪く、苛立ちを見せていた。そして6回裏、先頭打者の坪井智哉の場面でカウント2-1からの内角への直球はボールと判定された。これに露骨に不服そうな態度をとったガルベスは、次の投球を坪井に本塁打にされたことで冷静さを失い、球審の橘高淳にクレームをつけた。

ここで巨人監督の長嶋茂雄が投手交代を告げ、ガルベスにベンチへ戻るよう指示したため退きかけるが、その途中で突然振り返り、橘高を目掛けてボールを投げ付けた[4]。ボールは大きく逸れたため橘高への直撃は免れたものの、激怒した橘高はガルベスのもとへ駆け寄り、ガルベスもベンチから出て乱闘騒ぎになる。この際、止めに入った吉原孝介はガルベスの肘が顔に当たり、口中を切って出血していた。ガルベスはその場で退場を宣告され、翌日にセントラル・リーグから「1998年シーズン残りの出場停止」という処分が発表されたほか、これとは別に巨人からも「無期限出場停止及び罰金4000万円」という処分が下された。

その後、同年8月2日の対阪神タイガース戦においても槙原寛己が絡む乱闘が相次いで警告試合が宣告されるに至り、7月31日のガルベス事件と今回の乱闘に遺憾の意をこめ、長嶋はカード終了の次の日に頭を丸めた。

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 LAD 10 0 0 0 0 0 1 0 0 .000 91 20.2 19 3 12 2 0 11 0 2 10 9 3.92 1.50
テンプレート:By2 兄弟 27 22 16 4 2 16 5 4 0 .762 822 201.1 186 9 38 1 6 132 10 0 71 57 2.55 1.11
テンプレート:By2 21 20 18 4 0 10 11 0 0 .476 693 168.2 161 11 33 1 9 71 4 0 53 47 2.51 1.15
テンプレート:By2 巨人 28 27 12 3 0 16 6 0 -- .727 838 203.2 186 18 59 2 9 112 5 0 74 69 3.05 1.20
テンプレート:By2 27 27 8 2 2 12 12 0 -- .500 771 192.2 165 16 48 2 5 118 3 0 77 71 3.32 1.11
テンプレート:By2 18 18 7 0 0 9 7 0 -- .563 588 137.1 136 10 39 2 9 85 1 1 57 49 3.21 1.27
テンプレート:By2 27 27 7 2 1 9 12 0 -- .429 776 187.0 174 19 51 4 6 106 1 1 85 76 3.66 1.20
テンプレート:By2 6 6 0 0 0 0 6 0 -- .000 133 30.1 34 3 6 1 2 22 1 0 19 11 3.26 1.32
テンプレート:By2 三星 15 15 5 2 -- 10 4 0 0 .714 477 116.2 100 7 34 0 8 85 0 0 42 32 2.47 1.15
MLB:1年 10 0 0 0 0 0 1 0 0 .000 91 20.2 19 3 12 2 0 11 0 2 10 9 3.92 1.50
CPBL:2年 48 42 34 8 2 26 16 4 0 .619 1515 370.0 347 20 71 2 15 203 14 0 124 104 2.53 1.13
NPB:5年 106 105 34 7 3 46 43 0 -- .517 3106 751.0 695 66 203 11 31 443 11 2 312 276 3.31 1.20
KBO:1年 15 15 5 2 -- 10 4 0 0 .714 477 116.2 100 7 34 0 8 85 0 0 42 32 2.47 1.15
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

背番号

  • 59 (1996年 - 2000年)
  • 41 (2001年)

その他

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. セ・リーグで外国人投手が最多勝利を記録したのは、1964年のジーン・バッキー阪神タイガース)以来史上2人目のことで、巨人の外国人投手としては初であった。
  2. ガルベスの体重が100kgあった事もあるが、山崎も角界に誘われたことから「ヘビー級」と表現されている。ボクシングのヘビー級(約90.7kg以上)はプロ野球選手では珍しくないため、プロレスのヘビー級(100kg以上)を指していると思われる。
  3. 日本プロ野球に在籍した外国人投手で満塁本塁打を打ったのもガルベスだけである。このうちの1本は横浜スタジアム川村丈夫から打った場外満塁本塁打で、ベンチでこの本塁打を見ていた松井秀喜は試合後、報道陣に「(ガルベスには)かなわないよ」と笑ってコメントしている。その松井が本塁打の数が伸びず、タイトル争いのライバル選手に追い上げられたり差を付けられた頃には、本塁打を打ったあと「俺が打った(本塁打の)分を松井にあげたいよ」と言っていたこともあった。
  4. この数年後、槙原が冗談半分に「日本に来て1番速い球を投げたのは、あの時だ」と語っている。