バハードゥル・シャー1世

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バハードゥル・シャー1世ウルドゥー語:بہادر شاه اول, Bahadur Shah I, 1643年10月14日 - 1712年2月17日)は、北インドムガル帝国の第7代皇帝(在位:1707年 - 1712年)。第6代皇帝アウラングゼーブの次男で、シャー・アーラムあるいはシャー・アーラム1世としても知られる。

生涯

即位以前

1643年10月14日、バハードゥル・シャー1世ことムアッザムは、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブとその妃ナワーブ・バーイーとの間に生まれた[1][2][3]

彼の父アウラングゼーブは皇帝に即位すると、ムガル帝国の宗教観用政策を捨て、異教徒を弾圧するようになった。だが、ムアッザムはそれに反対するなど、父とは違う一面を持っていた。

1661年7月デカン総督のジャイ・シングアンベール王国の君主でもある)が死ぬと、ムアッザムはその後任としてデカンへ赴いた。

ムアッザムがデカンのアウランガーバードに着くと、当時アウラングゼーブと対立していたマラーターの指導者シヴァージーは、10月に息子サンバージーを使者として送った。同月にサンバージーがアウランガーバードに到着すると、ムアッザムはサンバージーを歓迎し、彼らはとても親しい関係となり、講和条約を締結することをなった。

だが、父帝アウラングゼーブは、ムアッザムがマラーターと親密になったことを嫌い、彼はアフガニスタンの総督として左遷された。

しかし、ムアッザムはアフガニスタンに派遣されたのち、父と対立していたパンジャーブシク教の教主(グル)ゴーヴィンド・シングとは講和にはいたらなかったものの、一定の友好関係にあった。

1681年9月以降、父帝アウラングゼーブはデカンに遠征し(デカン戦争)、デカン諸国を一連の戦闘で破り、サンバージーも1689年3月に殺され、その没年までに帝国の領土を最大にした[4]

即位と弟たちとの争い

1707年3月3日、アウラングゼーブがデカンで死ぬと、同月27日あるいは29日にムアッザムはカーブルにおいてアウラングゼーブの後継者として帝位を宣し、勇猛な王を意味する「バハードゥル・シャー(1世)」を号した[5]。ただし、帝位を宣したのは同年5月2日ペシャーワルだとする場合もある[6]

その後、ムアッザムはすぐさまアフガニスタンを離れ、アーグラに到着したのち、国庫を押さえた。[7]

しかし、その弟アーザムカーム・バフシュはこれに反対し、彼らもまた帝位を宣し、公然と各地で反抗し始めたため、バハードゥル・シャー1世はこれらを討伐することを決めた[8]

同年6月19日、バハードゥル・シャー1世はアーザムの軍を破り、彼とその息子ビダル・シャーを殺害した(別の息子ワッラー・ジャーも殺した)[9]。別の弟カーム・バフシュはデカンで抵抗していたが、1709年1月13日にハイダラーバードで彼を打ち破り、翌日にカーム・バフシュはこの戦で受けた傷がもとで死んだ[10]

こうして、バハードゥル・シャー1世は、弟二人と甥二人を殺害し、その王座を揺るぎないものにした[11]

統治

ファイル:Rupee coin of Shah Alam I, 1120 A.H., Shahjahanabad.jpg
バハードゥル・シャー1世のコイン

バハードゥル・シャー1世は統治をはじめると、アウラングゼーブの宗教不寛容政策を見直し、その在位期間に帝国領のヒンドゥー寺院が破壊されることはなかった。

とはいえ、ラージプートの諸国に対しては、父と対立していたマールワール王国のみならず、忠実だったアンベール王国へも支配を強めようとし、アンベール王ジャイ・シング2世を弟のヴィジャイ・シングに代えようとした[12]。また、両国の首都アンベールとジョードプルにそれぞれ軍勢を駐屯させ、帝国の権威に屈服させようとさえした[13]

しかし、この試みは結局のところ失敗し、バハードゥル・シャー1世は両国と和議を結んだ。とはいえ、両国の王が要求したより高位のマンサブ(位階)、マールワールグジャラート太守スーバダール)位は拒否した[14]

一方、パンジャーブのシク教教主ゴーヴィンド・シングとは、マンサブを与えることで講和し、面会もしている。ゴーヴィンド・シングはバハードゥル・シャー1世に忠実で、1708年にはデカンへのマラーターの討伐にも加わるほどだったが、シルヒンドの知事ワズィール・ハーンは皇帝との講和を疑っており、10月に彼を暗殺してしまった。

これにより、帝国とシク教徒の講和は決裂し、シク教徒はバンダ・バハードゥルに率いられて帝国に反乱を起こすこととなった。

後期ムガル帝国への道と死

ファイル:Emperor Bahadur Shah I.jpg
晩年のバハードゥル・シャー1世

しかし、バハードゥル・シャー1世がその治世間の戦闘で、戦功をたてたインド人を貴族に多数とりたてたことは、イラン系トルコ系モンゴル系の貴族を憤慨させ、ムガル宮廷の分裂を招いた[15]。そのうえ、バハードゥル・シャー1世がジャーギール(給与地)を与えすぎた結果、帝国の行政は悪化し、財政は急速に悪化していった[16]

さらに、アウラングゼーブの死後、ムガル帝国の領土では各地で反乱が頻発し、マラーターが勢いを取り戻してデカンや北インド方面の各地を略奪していた[17]

父の治世から反乱を起こしていたジャート族も、アーグラ付近のバーラトプルで反乱を継続し、ムガル帝国の根幹を脅かすようになった[18]

パンジャーブでも、ゴーヴィンド・シングが暗殺されたことで、シク教徒がバンダ・バハードゥルに率いられ反乱を起こしていた。

ラージプート諸王国は自分の領地の主権を取り戻して事実上帝国から独立し、ザミーンダールのなかでも大きなものは半独立化し、納税を拒否する者もあらわれた。

このような皇位継承戦争や反乱軍との戦いは、帝国に巨額の出費を強いることになった[19]。デカン戦争以来ずっと悪化していた財政をさらに圧迫し、1707年の段階で1億3000万ルピーあった帝国の国庫はその治世に底をついた[20]

バハードゥル・シャー1世の治世に関して、歴史家ハーフィー・ハーンはこう断言している[21]

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アウラングゼーブの死後、その悪政の結果として徐々に崩壊に向かっていった帝国は、バハードゥル・シャー1世ではどうすることもできず、彼の治世は後期ムガル帝国への始まりであった[22]

そうしたなか、1712年2月27日、バハードゥル・シャー1世はラホールで死亡した[23]。その4人の息子たちの間で帝位をめぐり次の皇位継承戦争が始まり、帝国はまたしても破滅への道を歩んでいった[24][25]

人物・評価

バハードゥル・シャー1世は学識のある有能な人物だったが、その治世は5年に満たずとあまりにも短く、49年と長く続いた父帝アウラングゼーブの治世と比べると対照的であった。

ハーフィー・ハーンは、バハードゥル・シャー1世の人物像をこう述べている[26]

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とはいえ、バハードゥル・シャー1世は父帝とは違い、帝国の宗教寛容政策を守ろうとした人物であり、彼はその短い治世の間、父の代からの問題を取り除こうとしたのもまた事実である[27]

もし、バハードゥル・シャー1世の治世がもう少し長く続けば、多少なりとも帝国の運命は好転したかもしれない、とビパン・チャンドラは語っている[28]

家族

后妃

ほか数名

息子

ほか数名

  • ミフルンニサー・ベーグム
  • アズィーズンニサー・ベーグム

ほか数名

脚注

  1. Delhi 7
  2. Delhi 9
  3. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p247
  4. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p242
  5. Delhi 9
  6. Delhi 9
  7. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p248
  8. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p248
  9. Delhi 8
  10. Delhi 7
  11. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p248
  12. チャンドラ『近代インドの歴史』、p3
  13. チャンドラ『近代インドの歴史』、p3
  14. チャンドラ『近代インドの歴史』、p3
  15. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p248
  16. チャンドラ『近代インドの歴史』、p4
  17. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p248
  18. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227
  19. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p227
  20. チャンドラ『近代インドの歴史』、p4
  21. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p248
  22. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p248
  23. Delhi 7
  24. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p248
  25. チャンドラ『近代インドの歴史』、p4
  26. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p247より引用
  27. チャンドラ『近代インドの歴史』、p4
  28. チャンドラ『近代インドの歴史』、p4

参考文献

  • フランシス・ロビンソン著、小名康之監修・月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌』 創元社、2009年
  • ビパン・チャンドラ著、栗原利江訳 『近代インドの歴史』 山川出版社、2001年

関連項目

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