ムガル帝国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 過去の国

ファイル:Mughal.png
ムガル帝国の版図の変遷

ムガル帝国(ムガルていこく、شاهان مغول英語:Mughal Empire)は、16世紀初頭から北インド17世紀末から18世紀初頭にはインド南端部を除くインド亜大陸を支配し、19世紀後半まで存続したトルコ系イスラーム王朝1526年 - 1858年)。首都はデリーアーグラなど。ムガル朝(Mughal dynasty)とも呼ばれる。

概要

チンギス・ハーン以来モンゴル人によってインダス川流域やカシミール地方から度々侵入を受けたが、インドの諸政権はムガル帝国の成立まで領土的な支配を許していなかった。

ムガル帝国の創始者バーブル中央アジア出身で、ティムール朝の王族テンプレート:仮リンクを父、チンギス・ハーンの次男チャガタイを祖とするモグーリスタン・ハン家ユーヌスの娘テンプレート:仮リンクを母とするテュルクモンゴル系の遊牧貴族で、彼が現在のアフガニスタンからインドに移って建国した。

ムガル帝国は最後の君主バハードゥル・シャー2世の治世まで一貫してティムールを始祖と仰いでおり、ティムールの称号「アミール・ティムール・グーラカーン」、すなわち「グーラカーン テンプレート:Lang-fa Gūrakān (チンギス・ハーン家より子女の降嫁を受けたその娘婿(グレゲン mon:Güregen 、キュレゲン trc:Küregen)であるアミール・ティムールの一門」という意味で、自らは テンプレート:Lang-fa Gūrakānī などと呼んでいた。

呼称

王朝名の「ムガル」とは、モンゴルを意味するペルシア語の「ムグール」(モゴール ; مغول Mughūl)の短縮した読みであるムグル(Mughul)が、ムガル(Mughal)に転訛したものである。すなわち、「ムガル帝国」とは「モンゴル人の帝国」という意味の国名になるが、これは飽くまでも他称である。

歴史

ファイル:Baburs Invasion 1526.gif
1526年のバーブルの侵攻ルート

創始

テンプレート:Main ティムールの5代後の直系子孫である創始者バーブル(在位1526 - 1530)は、中央アジアトランスオクシアナウズベクシャイバーン朝に追われ、南のカーブルを本拠地として雌伏していた。

だが、晩年に目標を中央アジア奪還からインドの奪取に切り替え、1526年4月21日第一次パーニーパットの戦いデリー・スルターン朝最後の王朝ローディー朝を破り、デリーアーグラを制圧し、インドにおけるティムール王朝として、ムガル朝を建国した。

帝国の再建

テンプレート:Main バーブルの死後、後を継いだフマーユーン(在位1530 - 1540、復位1555 - 1556)は、グジャラートに勢力を広げるが、ローディー朝と同じアフガン系のスール朝を開いたシェール・シャーによって1540年にデリーを追われ、やがてアフガニスタン方面にいた諸弟もフマーユーンに離反したため、ムガル朝は一時崩壊した。

フマーユーンはシンド地方を放浪した末にイランサファヴィー朝のもとに逃れ、その支援を受けて、1545年に弟たちの支配するカンダハール、カーブルを相次いで奪還した。その後、シェール・シャー死後内紛によって分裂したスール朝を討って、1555年デリーに返り咲き、ムガル帝国を再建した。

アクバルの治世

テンプレート:Main

ファイル:Akbar1.jpg
アクバル1世
ファイル:Mogulreich Akbar.png
アクバル時代のムガル帝国

ムガル朝を真に帝国と呼ぶにふさわしい国家に発展したのは、1556年に不慮の事故死を遂げたフマーユーンを継いだ、アクバル(在位1556 - 1605) の治世である。

治世の最初は、スール朝の武将テンプレート:仮リンクがデリーを占領したものの、第二次パーニーパットの戦いでこれを破った。

アクバルの統治方針は、多様な社会階層からの人材抜擢とその方針の徹底であった。そのため、アクバルの政府にはシーア派ペルシャ人アラブ人、現地ヒンドゥスターンで生まれ育ったムスリムラージプートバラモン層、あるいは、マラーター人までが参画していた。

また、ラージプートなどの在地勢力を自らの支配層に取り組むために、彼らが所有する領地からの収入を認めるとともに、ヒンドゥーであるラージプート出身の女性を妻とした[1]

また、アクバルはイスラーム以外の宗教に対しても寛容であったことが知られ、1564年にムスリム以外に課せられるジズヤの廃止も行った[1]

帝都ファテープル・シークリーには、バラモンヨーガ行者ジャイナ教徒、イエズス会士(彼らはゴアに滞在していたポルトガル人である)、ゾロアスター教徒が集まり、議論をさせることを好んだ。

さらに、サンスクリットで著述されていたインドにおける二大叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』を翻訳させた。

アクバルは行政改革をも実施した。イスラーム王朝の性格が強いムガル帝国であるが、帝国初期の行政機構は、農業に基盤を置いていた近代のほかのアジアにおける諸帝国との共通点が多い。

一つが貴族制を導入したことである。貴族は「マンサブ」と呼ばれる位階が授与された。その位階は10の単位で表示され、貴族にはその数だけの騎兵を皇帝のために準備することが義務化された[2]

さらに、文官と武官の区別が明確化され、相互にチェックできる仕組みであり、彼らには一定の「ジャギール」と呼ばれる一定の土地の徴税権が割り当てられたが、定期的にジャギールは、別の地域が割り当てられるようにすることで、彼らが地方で拠点を確保して帝国に反抗することを阻止した[2]

アクバルは東はベンガル、南はデカン高原まで進出して北インドのほとんど全域を平定した。アクバルの他宗教への寛容性と完成された官僚制は息子、ジャハーンギールに引き継がれた。

最盛期

テンプレート:Main テンプレート:See also

ファイル:Aurangazeb.jpg
アウラングゼーブ
ファイル:Mughals.JPG
ムガル帝国の最大版図(1707年アウラングゼーブ死亡時)

ムガル帝国はアクバルの活躍した16世紀後半から、その子孫たちが統治する17世紀末にかけて最盛期を迎えた。だが、領土の拡大に関しては、各方面で一進一退を繰り返した。

ジャハーンギール(在位1605 - 1627)の時代は、ラージャスターン地方で抵抗していたテンプレート:仮リンクの征服に着手したが果たすことができず、その半独立的な地位を認めた。

また、カンダハールサファヴィー朝アッバース1世に奪取されると有効な対策を採ることができなかった。さらに、デカン高原方面の進出では、テンプレート:仮リンクの抵抗が続いた[3]

1628年、父ジャハーンギールの死亡により、シャー・ジャハーン(在位1628 - 1658)が皇帝として即位すると、1633年にアフマドナガル王国を滅ぼすことに成功した。1636年には、ビジャープル王国と講和を結び、その旧領を分割した[3]

だが、デカン高原での前進と比べて、アフガニスタン問題は大きな問題を抱えていた。カンダハールの再攻略に成功したものの、1649年、ムガル帝国による中央アジア遠征の間隙を縫って、サファヴィー朝が再度、カンダハールを攻略した。このことにより、カンダハールは、ムガル帝国領から離脱した[3]

シャー・ジャハーンの治世は、息子たちによる血生臭い王位継承戦争によって終わり、1658年に勝利した第6代皇帝アウラングゼーブ(在位1658 - 1707)によって、彼自身はアーグラ城のタージ・マハルの見える部屋に幽閉された。

アウラングゼーブは曾祖父アクバルから受け継がれてきた宗教融和を否定し、シャリーア(イスラーム法)による統治を行い、1679年にはジズヤを復活した。

デカン高原方面の領域拡大は、アウラングゼーブの時代に達成された。アウラングゼーブは、1681年からデカン高原方面への遠征(テンプレート:仮リンク1681年 - 1707年)に繰り出し、1686年にはビジャープル王国、1687年にはゴールコンダ王国を滅ぼし、 1707年3月3日に死ぬまでに南端部を除くインド亜大陸にまたがる、帝国の最大領土を実現した[3]

帝国の分裂

ファイル:Joppen1907India1795a.jpg
崩壊したムガル帝国(1795年

しかし、強勢を誇ったムガル帝国も18世紀初頭にアウラングゼーブが死ぬと、帝国の没落、繁栄を支えた政治、軍事的構造の崩壊が起こった。

帝国の崩壊の原因は、大きくまとめて3つに要約される[4]

  1. 地方長官の帝国からの離反
    地方長官はもともと、帝国から行政官に任命された者だが、帝国の衰退により面従腹背の姿勢を見せる、ナワーブ(太守)と呼ばれるようになった地方長官が出始めた。彼らは徐々に、ムガル帝国に納税をしなくなり、徴収した税金は私用するようになった。
    その典型例は、1724年に宰相ミール・カマルッディーン・ハーンが職を辞し、デカンのハイダラーバードに下野し、帝国から独立した例である。これにより、ハイダラーバードを中心にニザーム王国が形成された。
    同様のことは、1720年代アワドベンガルなど肥沃な地方でもおき、そしてそのまま、地方王朝が建国されていった[4]
  2. 帝国内の小王国の君主たちの離反
    帝国内の小王国とは、ムガル帝国に貢納はしていたが臣下とはならなかったラージプートなど王国群のことである。その領土は地理的に険阻あって、多くの君主が難攻不落の要塞を建設していた[4]
    ラージプートではないが、南インドマイソール王国もこのひとつで、次第に独立していった。
  3. 新興のザミーンダールの台頭
    ザミーンダールとは、地方を拠点とする豪族・部族の長であり、耕作農民を支配していた、ムガル帝国の徴税請負人である。17世紀のインドは、経済的には繁栄の時代であり、この時代において、ザミーンダールは富の蓄積を行っていた[4]
    18世紀になると、大ザミーンダールは帝国に納税を拒否するようになった。

シク教徒とムガル帝国

テンプレート:Main

アウラングゼーブの後を継いだのが、バハードゥル・シャー1世(在位1707 - 1712)で、即位したときには既に64歳と老齢であり、彼に対して、シク教徒のリーダーであったテンプレート:仮リンクが挑戦した。

シク教徒は、数世紀にわたり、イスラーム政権と影響しあいながら形成された勢力であった。

アクバルの時代に、シク教団はアクバルの保護を獲得し、アムリットサルを拠点に事実上の自治国を建設した。その後、シク教団は世俗的権力の獲得に乗り出す。

しかし、アウラングゼーブの時代の指導者であるゴービンド・シングは、ムガル帝国を利用し、さらには、その支配に抵抗を試みた。だが、アウラングゼーブの治世の末期に、ムガル帝国軍と戦い、敗北してしまう[5]

バンダ・バハードゥルは、パンジャーブ地方のザミンダールと豪族を味方に、ムガル帝国と戦闘状態に入る。シク教徒の反乱自体は、1715年バハードゥルの処刑によって終了した。

この後、シク教徒が治めていた地域は、小規模の国家群に分裂してしまい、19世紀シク王国を形成した[5]

マラーター同盟の隆盛

テンプレート:Main

ファイル:India1760 1905.jpg
マラータ同盟の最大領域(1760年)

シヴァージーを中心にデカン高原でも自立の動きが強まった。シヴァージーは、マラーター族を率い、アウラングゼーブに対してゲリラ戦を展開し、アウラングゼーブを苦しめた[6]1674年、シヴァージーはマラーター王国を創始して、1680年に死ぬまで王座にあった。

のち、1681年以降、アウラングゼーブによってデカン遠征が行われて、1689年息子テンプレート:仮リンクが殺されるなど、その息子と孫の治世には苦難が続いた。

だが、アウラングゼーブの死後、1708年にマラーター王国を中心にマラーター同盟が結成され、バージー・ラーオ1世の治世に勢力を拡大し、1737年には帝国の首都デリーを攻撃した(デリーの戦い

当時のマラーター同盟を支えていたのは、地方の末端まで行政と軍が分離解消していたこと、単一の徴税請負制度が確立していたことが挙げられる。また、常備軍を整備し、ヨーロッパ出身の軍事教官を雇用していたこともその背景としてあった[6]

しかし、1761年第三次パーニーパットの戦いでアフガン勢力のドゥッラーニー朝に敗北して、同盟は崩壊してしまう。

イランとアフガニスタンの侵略

ファイル:Nader Shah Afshar.jpg
ナーディル・シャー

こうしたインド内だけの問題ではなく、イラン方面からも強敵が迫ってきた。

18世紀になるとサファヴィー朝は完全に衰退して、混乱に乗じて軍人出身のナーディル・シャー1736年アフシャール朝を創始し、サファヴィー朝のアッバース3世は廃位された。

1739年、ナーディル・シャーによってデリーを占領され、虐殺や略奪などといった蹂躙を受けて、甚大な打撃を蒙った。このとき、多くの財宝とともに、かの有名なシャー・ジャハーンの「孔雀の玉座」も奪われた。これにより、ムガル帝国の権威は地に落ち、以降帝国はさまざまな勢力の脅威にさらされることとなった。

また、その死後、アフガニスタンに成立したドゥッラーニー朝も帝国の領土に何度も侵攻し、これを撃退するためにはアワド太守の助力を借りなければならなかった。

このように、帝国はインド内部だけでなく、インド外部からの圧力にもさらされていた。

東インド会社とムガル帝国

テンプレート:Main テンプレート:Main

ファイル:Fort St. George, Chennai.jpg
チェンナイのセント・ジョージ要塞

1600年イギリスは東インド会社を設立し、インド亜大陸に最初に商船団を派遣したのは、1608年のことで、西北インドの港スーラトに派遣したこの時、ジャハーンギールから有利な条件で貿易を行う許可を獲得した[7]

1639年には、チェンナイの領主からこの地を買収し、東インド会社は要塞の建設が認められると同時に、イギリス東インド会社のこの地においての貿易において、関税は免除されると同時に、他の会社が貿易行った場合には、イギリス東インド会社にその会社に課せられる関税の半分が支払われるという条件で、マドラスと改称してインド貿易の橋頭堡を築いた[7]

また、18世紀後半までにプラッシーの戦いカーナティック戦争で、イギリス勢力は南インドとベンガル地方に浸透していた。

だが、18世紀後半に即位した皇帝シャー・アーラム2世(在位1759 - 1806)はイギリスの支配に抵抗した唯一の君主であり、帝権の回復を狙い、アワド太守とベンガル太守と結んで、1764年にイギリスに戦いを挑んだが敗北した(テンプレート:仮リンク)。そのため、1765年テンプレート:仮リンクを締結。シャー・アーラム2世はイギリスに、ベンガルビハールオリッサ三州のディーワーニー(行政徴税権)を授けなければならず、これによりこの三州は事実上イギリスの領有するところになった。

シャー・アーラム2世はその後、1771年にマラーター同盟の諸侯テンプレート:仮リンクと結んで、1784年にはその当主テンプレート:仮リンクを摂政に任命して、イギリスに抵抗しようとした。

しかし、イギリスが1799年マイソール戦争でマイソール王国に勝利したのち、1803年テンプレート:仮リンクで首都デリーが占領されて、ムガル帝国はイギリスの保護下に入ってしまった。

このように、テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクの戦争で帝国分裂後の地方政権に勝利し、従順なものは保護国(藩王国)化するなど、イギリスはインドの植民地化を急速に進めていった。

滅亡

テンプレート:Main テンプレート:Main テンプレート:Main

ファイル:Bahadur Shah II.jpg
バハードゥル・シャー2世

19世紀アクバル2世(在位1806 - 1837)の治世に入ると、ムガル帝国はもはやすっかり崩壊し、デリーとその周辺を支配するのみの小勢力となっていた。

だが、1857年に大規模な反英闘争、いわゆるインド大反乱(シパーヒーの乱、第一次インド独立戦争とも)が起こると、82歳の老皇帝バハードゥル・シャー2世(在位1837 - 1858)が反乱軍の最高指導者として担ぎだされるほどの威光を保っていた。

しかし、バハードゥル・シャー2世はデリーが攻撃されると降伏してしまい、1858年、大反乱を鎮圧したイギリスは彼を裁判にかけて有罪とし、ビルマへと流刑に処して退位させた。

これによりティムール王朝から数えて約500年続いた王朝は完全に消滅し、ムガル帝国は332年にわたるインドにおける歴史を閉じた。

滅亡後

イギリスはムガル帝国を滅ぼしたのち、イギリス東インド会社を解散させ、1877年に帝国に変わる形として、イギリス領インド帝国を成立させ、イギリス国王インド皇帝に推戴した。

だが、インド帝国の支配は、インドの人々やガンディーなど知識人の強い抵抗をうけ、70年で崩壊した。

1947年8月15日、インドがイギリスの植民地支配から独立したとき、インド初代首相ジャワハルラール・ネルーが独立宣言の演説をしたのは、ムガル皇帝の居城だったデリー城だった。

そして、毎年8月15日のインド独立記念日には、この城で首相演説が行われている。

歴代君主

  1. バーブル(在位:1526年 - 1530年)
  2. フマーユーン(在位:1530年 - 1540年、復位:1555年 - 1556年)
  3. アクバル(在位:1556年 - 1605年)
  4. ジャハーンギール(在位:1605年 - 1627年)
  5. シャー・ジャハーン(在位:1628年 - 1658年)
  6. アウラングゼーブ(在位:1658年 - 1707年)
  7. バハードゥル・シャー1世(在位:1707年 - 1712年)
  8. ジャハーンダール・シャー(在位:1712年 - 1713年)
  9. ファッルフシヤル(在位:1713年 - 1719年)
  10. ラフィー・ウッダラジャート(在位:1719年)
  11. ラフィー・ウッダウラ(在位:1719年)
  12. ムハンマド・シャー(在位:1719年 - 1748年)
  13. アフマド・シャー(在位:1748年 - 1754年)
  14. アーラムギール2世(在位:1754年 - 1759年)
  15. シャー・アーラム2世(在位:1759年 - 1806年)
  16. アクバル2世(在位:1806年 - 1837年)
  17. バハードゥル・シャー2世(在位:1837年 - 1858年)

文化

テンプレート:Main

ムガル帝国における文化で特筆すべき点は、建築絵画ペルシャ語の詩文である。

建築

建築分野はペルシャの影響を残しつつも、インド的な要素を取り入れていった。ムガル帝国は首都デリーアーグララホールと度々、移動したため、各地でイスラーム建築が建設され、インド亜大陸における建築様式に影響を与えた。

初代皇帝バーブルはアヨーディヤーバーブリー・マスジドを建設した。また、バーブルの庭園に対する嗜好は子供たちに受け継がれ、ムガル建築の特色となった。ムガル建築が、飛躍的な発展を遂げたのは、アクバルの時代である。フマーユーン廟の建設は北インドにおける中央集権国家が確立した証左であった。

さらに、新都ファテープル・シークリーの建築群は、インドを代表する赤い石を使用し、木造建築を模した石造建築というインドの伝統的な建築工法を導入した[8]

庭園建築は、ジャハーンギールも好んでおり、風光明媚であるカシミール地方に多くの庭園を建設した。その代表例がシュリーナガルのシャーリーマール庭園である[8]

シャー・ジャハーンの嗜好は白大理石であったといわれ、特にタージ・マハルが名高い。デリーの赤い城のように赤砂岩を用いた建築物も残しているが、皇帝の私的空間には白大理石を好んで使用した[8]

アウラングゼーブは、ラホールテンプレート:仮リンクを建設した。

絵画

フマーユーンスール朝との抗争で、サファヴィー朝タフマースプ1世の宮廷に身を寄せた時期があったが、その際に、フマーユーンはペルシャ細密画に触れる事となった。ムガル絵画は、フマーユーンがペルシャから2人の画家を連れて帰った事を出発点とする。ムガル帝国が成長するにつれ、ヒンドゥーの要素を取り入れながら、発展を遂げていった。肖像画動物植物風景、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』といった叙事詩を題材に採用した。

文学

『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』など古典がペルシア語に翻訳され、18世紀以降はヒンディー語やウルドゥー語の詩も次第に栄えた。ウルドゥー文学では、恋愛詩を書いたミール・タキー・ミールや、ペルシア語彙を用いた複雑な作風のテンプレート:仮リンクらが有名である。帝国末期にはデリーとラクナウを中心に詩が隆盛し、バハードゥル・シャー2世はウルドゥー詩を愛好し、自身がザファルと号する詩人でもあった。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

関連文献

  • 『ムガル帝国誌』テンプレート:仮リンク、倉田信子訳 岩波文庫全2巻、2001年
  • 『世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ』佐藤正哲,中里成章,水島司中央公論社 1998年、中公文庫、2009年
  • 小名康之『ムガル帝国時代のインド社会』<世界史リブレット> 山川出版社 2008年
  • アンドレ・クロー『ムガル帝国の興亡』岩永博監訳 <イスラーム文化叢書> 法政大学出版局 2001年
  • 荒松雄『多重都市デリー 民族、宗教と政治権力』中公新書 1993年
  • 神谷武夫著・写真 『インド建築案内』 TOTO出版 1996年
  • ムガル帝国 石田保昭 吉川弘文館, 1965.
  • アクバル大帝 ムガル帝国の建設者 石田保昭 清水書院 1972. センチュリーブックス. のち「ムガル帝国とアクバル大帝」清水新書
  • ムガル帝国誌 モンセラーテ 清水広一郎池上岑夫小谷汪之注 大航海時代叢書 岩波書店 1984.2
  • ムガル帝国誌 ベルニエ 関美奈子,倉田信子訳 17・18世紀大旅行記叢書 岩波書店, 1993.8. のち文庫 
  • インドのムガル帝国軍 1504-1761火器と戦象の王朝史 デヴィッド・ニコル 桂令夫訳. 新紀元社, 2001.6.

関連項目

テンプレート:インドの王朝

テンプレート:Link GA
  1. 1.0 1.1 テンプレート:Cite book
  2. 2.0 2.1 Barbara D. Metcakf, Thomas R. Metcalf、河野肇訳(2006)pp.36-37
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 テンプレート:Cite book
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 Barbara D. Metcakf, Thomas R. Metcalf、河野肇訳(2006)pp.49-52
  5. 5.0 5.1 Barbara D. Metcakf, Thomas R. Metcalf、河野肇訳(2006)pp.54-55
  6. 6.0 6.1 Barbara D. Metcakf, Thomas R. Metcalf、河野肇訳(2006)pp.56-68
  7. 7.0 7.1 テンプレート:Cite book
  8. 8.0 8.1 8.2 テンプレート:Cite book