テルアビブ空港乱射事件

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ファイル:Airport Tel Aviv Bengurion.jpg
現在の空港ターミナル

テルアビブ空港乱射事件(テルアビブくうこうらんしゃじけん)は、1972年5月30日イスラエルテルアビブ近郊都市ロッドに所在するロッド国際空港(現・ベン・グリオン国際空港)で発生した、後に「日本赤軍」を名乗る日本人極左過激派組織(以下、「日本赤軍」と表記)によるテロ事件。別名はロッド空港乱射事件。また、英語では「Lod Airport massacre(ロッド空港の虐殺)」と呼ばれる。日本赤軍側はリッダ闘争と呼ぶ。リッダ(Lydda)はロッドの非ヘブライ語での名称である。

事件の経緯

サベナ機ハイジャックの失敗

1972年5月8日に、パレスチナ過激派テロリスト4人が、ベルギーブリュッセル発テルアビブ行きのサベナ航空ボーイング707型機をハイジャックしてロッド国際空港に着陸させ、逮捕されている仲間317人の解放をイスラエル政府に要求した(サベナ航空572便ハイジャック事件)。

しかし、イスラエル政府はテロリストによる要求を拒否し、ハイジャックしているテロリストを制圧し、犯人の内2人は射殺され、残る2人も逮捕された。93人の人質の解放に成功したものの、乗客1人が銃撃戦で死亡した。

PFLPと日本赤軍の協力

そこで、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は「報復」としてイスラエルのロッド国際空港を襲撃することを計画した。だが、アラブ人ではロッド国際空港の厳重警戒を潜り抜けるのは困難と予想されたため、PFLPは日本赤軍の奥平に協力を依頼し、日本人によるロッド国際空港の襲撃が行われた。

なお事件発生時点では、まだ首謀者たちの組織名称は流動的であり「日本赤軍」とは名乗っていない(当該記事参照)ので、「日本赤軍の前史に属する事件」ともいえる。

襲撃

犯行を実行したのは、日本赤軍幹部の奥平剛士(当時27歳)と、京都大学の学生だった安田安之(当時25歳)、鹿児島大学の学生だった岡本公三(当時25歳)の3名である[1]

フランスパリローマ経由のエールフランス機でロッド国際空港に着いた3人は、スーツケースから取り出したチェコスロバキア製のVz 58自動小銃を旅客ターミナル内の乗降客や空港内の警備隊に向けて無差別乱射し[1]、さらに、ターミナル前に乗客を乗せて駐機していたエル・アル航空旅客機に向けて手榴弾を2発投げつけた。

この無差別乱射により、乗降客を中心に26人が殺害され[2]、73人が重軽傷を負った。死傷者の約8割が巡礼目的で訪れたプエルトリコ人であった[1]。死者のうち17人がプエルトリコ人(アメリカ国籍)、8人がイスラエル人、1人はカナダ人であった。死者にはイスラエルで著名な科学者だったアーロン・カツィールhe:אהרן קציר)も含まれている。

その後、岡本は警備隊に取り押さえられ、奥平と安田は死亡した。2人の死について、「奥平は警備隊の反撃で射殺。安田は手榴弾自爆した」として中東の過激派の間では伝説化されたが[3][4]、確実ではない[5][6]

なお、計画に携わっていたとされる檜森孝雄の手記によると「当初の計画では空港の管制塔を襲撃する予定だった」としているが、具体的な計画は不明である。[7]

事件後

赤軍への国際的非難と日本での影響

当時は、テロリストが無差別に一般市民を襲撃することは前代未聞であり、事件は衝撃的なニュースとして全世界に伝えられた。赤軍による民間人への無差別虐殺には国際的な非難が起こった。一方でイスラエルと敵対するパレスチナの一部の民衆の間で実行犯たちは英雄視され、PFLPは日本赤軍の重信房子幹部と共同声明を出し、事件発生の日を「『日本赤軍』結成の日」と位置づけるなど、これに対抗する態度を取り続けた。

また、アラブ-イスラエル間の抗争にも拘らず、実行犯が両陣営とは何の関係もない日本人であったことも、世界に衝撃を与えた。日本政府は、実行犯が自国民であったことを受けて、襲撃事件に関して謝罪の意をイスラエル政府に公的に表明するとともに、犠牲者に100万ドルの賠償金を支払った[8]

日本国内でも、その年の3月に発覚した連合赤軍による山岳ベース事件に続く極左団体の凶行として、日本国民に強く印象に残り、凶行を繰り広げる極左過激派と日本国民との隔絶がさらに広がる事件となった。また、この事件において、武器を手荷物で簡単に持ち込むことができたことから、この事件以降、搭乗時の手荷物検査が世界的に強化されたほか、空港ターミナル内における警備も世界各国で強化されることとなった。

犯人のその後

事件後唯一生存した岡本公三は現在、イスラエルと敵対する勢力の庇護を受けレバノン郊外のアパートに居住している。 テンプレート:Main

北朝鮮の関与

2009年にはイスラエルの人権団体「シュラト・ハディン」が、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が日本赤軍への支援を行ったとしてプエルトリコの連邦裁判所に対し、北朝鮮を相手取り遺族への総額3000万ドルの補償を要求する訴訟を起こした。同年12月に予備審理が行われたと報道されている[9]

脚注

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関連項目

  • 1.0 1.1 1.2 テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite book
  • 立花隆『イラク戦争・日本の運命・小泉の運命』講談社、2004
  • フランソワ=ベルナール・ユイグ『テロリズムの歴史』創元社、2013
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  • 『死へのイデオロギー』パトリシア・スタインホフ、岩波書店、2003年(平成15年)10月16日、p1-p52
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