ステラーカイギュウ

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ステラーカイギュウ(Hydrodamalis gigas)は、絶滅した海棲哺乳類の一種。しばしばステラー海牛とも表記される。ジュゴン目(海牛目)ジュゴン科に属する。かつて北太平洋ベーリング海に生息していた大型のカイギュウである。1768年かそれ以降に絶滅。

寒冷適応型のカイギュウ類

ステラーカイギュウは、寒冷適応型のカイギュウ類(ステラーカイギュウ亜科)の、最後の生き残りだった。このカイギュウ類の系統は、ジュゴンのような、暖かい海で主にアマモなどの海草を食べて暮らすカイギュウ類から派生したが、より寒冷な海に育つコンブなどの海藻類を食べ、体を大きくして大量の脂肪を蓄えることで、寒冷な気候に適応していた。ステラーカイギュウ以外のは、有史以前に絶滅している。

なお、海藻類は非常に歴史の古い植物群であるにもかかわらず、これを主な食物とする脊椎動物は、これらのカイギュウ類以外ほとんど知られていない。例外はウミイグアナ。なお、ウミイグアナはアオサ類石灰藻類を主に食べるが、上記の通り、ステラーカイギュウはコンブ類などの褐藻類を食べていたとされる。

寒冷適応型のカイギュウ類に1科を立て、ダイカイギュウ科とすることもあり、この場合、ステラーカイギュウはステラーダイカイギュウとされる。

絶滅の経緯

デンマーク出身の探検家ヴィトゥス・ベーリングが率いるロシア帝国の第2次カムチャツカ探検隊は、1741年11月のはじめに遭難した。アラスカ探検の帰途、カムチャツカ半島のペトロハバロフスク港を目指して、アリューシャン列島づたいに西行していた探検船セント・ピョートル号が、嵐に遭遇し、カムチャツカ半島の東の沖500キロメートルに位置する現コマンドル諸島無人島(現ベーリング島)で座礁した。

乗員たちの多くは壊血病にかかっており、飢えと寒さの中、半数以上が死亡した。指揮官のベーリング自身も12月に他界したが、残された人々は、座礁したセント・ピョートル号の船体から新しいボートを建造し、翌1742年8月に島を脱出した。その指揮に当たったのが、ドイツ人の医師で博物学者でもあったゲオルク・ヴィルヘルム・シュテラー(ステラー)である。10ヶ月に及ぶ航海の末にペトロパブロフスク港にたどり着いた彼らは、英雄として迎えられた。

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ステラーカイギュウの群れ。1902年の絵画

シュテラーは、探検中に見られたラッコオットセイなどの毛皮獣のほかに、メガネウという(この鳥も、発見されたことが影響して結果的に絶滅する)と、遭難先の無人島(ベーリング島)で発見された巨大なカイギュウについても報告した。そのカイギュウは、長さ7.5メートル、胴回りが6.2メートルもあり、島の周辺に2,000頭ほどが生息すると推定された。シュテラーの航海日誌(ジャーナル)には、次のように記されている。「その島の海岸全域、特に川が海に注ぎ、あらゆる種類の海草が繁茂している場所には、われわれロシア人が『モールスカヤ・カローヴァ』(テンプレート:Lang-ru; “海の牛”)と呼ぶカイギュウが、1年の各期を通じて、大挙して姿を現す」。

そのカイギュウ1頭から、3トンあまりの肉と脂肪を手に入れることができた。そしてその肉は、子牛に似た味と食感をもっていた。言うまでもなく、遭難中のシュテラーたちにとって、このカイギュウたちは有用な食料源となった。美味であるばかりではなく、比較的長い時間保存することができたため、その肉は彼らが島を脱出する際、たいへん助けとなった。ベルト、ボートを波から守るカバーに利用され、ミルクは直接飲まれたほか、バターにも加工された。脂肪は甘いアーモンド・オイルのような味がし、ランプの明かりにも使われた。彼らが生還できたのは、このカイギュウの生息域でそれを有用に利用できたからであった。

ステラーカイギュウと名づけられたこの海獣の話はすぐに広まり、その肉や脂肪、毛皮を求めて、カムチャツカの毛皮商人やハンターたちが、数多くコマンドル諸島へと向かい、乱獲が始まった。

約10年後の1751年になって、シュテラーはこの航海で得たラッコやアシカなどを含む数々の発見に関する観察記を発行している。アラスカでは見かけなかったこの動物についても、彼は体の特徴や生態などを詳しく記録している。

ハンターたちにとって好都合なことに、カイギュウたちは動作が鈍く、人間に対する警戒心ももち合わせていなかった。有効な防御の方法ももたず、ひたすら海底にうずくまるだけだった。このような動物をライフルで殺すことは容易だったが、何トンにもなる巨体を陸まで運ぶことは難しいため、ハンターたちはカイギュウをモリなどで傷つけておいて、海上に放置した。出血多量により死亡したカイギュウの死体が岸に打ち上げられるのを待ったのだが、波によって岸まで運ばれる死体はそれほど多くはなく、殺されたカイギュウたちのうち、5頭に4頭はそのまま海の藻屑となった。

ステラーカイギュウには、仲間が殺されると、それを助けようとするように集まってくる習性があった。特に、メスが傷つけられたり殺されたりすると、オスが何頭も寄ってきて取り囲み、突き刺さった銛やからみついたロープをはずそうとした。そのような習性も、ハンターたちに利用されることになった。

1768年、シュテラーの昔の仲間であったイワン・ポポフという者(マーチンの説もあり)が島へ渡り、「まだダイカイギュウが2、3頭残っていたので、殺した」と報告しているが、これがステラーカイギュウの最後の記録となった。ステラーカイギュウは、発見後わずか27年で姿を消したことになる。 その後もステラーカイギュウではないかと思われる海獣の捕獲や目撃が何度か報告されている。最も新しい報告例では、1962年7月のベーリング海でソ連の科学者によって6頭の見慣れぬ巨大な海獣が観察されているが、それがステラーカイギュウなのか他の海獣類を見間違えたのかは不明。

形態・生態的特徴

ファイル:Rhytinae Stelleri dentes.jpg
ステラーカイギュウの「歯」

ステラーカイギュウは、体長は7メートルを超え、一説には最大8.5メートルに達し、体重は5-12トンあったと言われている。現生カイギュウ類としては最大だった。おそらくほとんど潜水できず、丸く隆起した背中の上部を、常に転覆したボートの船底のように水の外にのぞかせた状態で漂っていた。島の周辺の浅い海に、群れを作って暮らしていた。潮に乗って海岸の浅瀬に集まり、コンブなどの褐藻類を食べた。冬になって流氷が海岸を埋めつくすと、絶食状態になり、脂肪が失われてやせ細った。このときのステラーカイギュウは、皮膚の下のが透けて見えるほどだったという。

氷が流れ去るまで沖合いにいて、春になって氷がなくなると、再び海藻を食べ始るが、この春の初めに繁殖活動に入り、1年以上の妊娠期間を経て、1子を産んだと思われる。子どもたちは群れの中央で育てられ、つがいの絆はたいへん強かった、とシュテラーは記している。

ステラーカイギュウは、体が巨大なことのほかにも、暖海性のジュゴンマナティーとは異なった特徴をいくつかもつ。際立った特徴の1つとして、ステラーカイギュウの成獣は、が退化して、ほとんどなくなっていた。彼らは、上顎と下顎の先に、登山靴の裏側のように細かい溝のついた固い角質の、のような板をもち、よく動くとこの嘴を使って、岩に付いたコンブなどを噛みちぎって食べていた。

現存する暖海性のカイギュウ類と同様、ステラーカイギュウも、コンブを口の中で噛んだりすりつぶすことは、あまりしていなかったと思われる。実際、シュテラーによれば、体の中には非常に大きなが内蔵されていたという。あまり噛み砕かれていない食べ物を完全に消化するために、そのような腸が必要だったのだろう。

また、テンプレート:要検証範囲近縁種のジュゴンも、アザラシ類も、クジラでさえ、5列に並んだ指の骨をもっており、このことは、ステラーカイギュウが非常に高い水準で海中生活に適応していたことを示している。この前足は、体の中心に向かってかぎ型に曲がっており、骨格の構造から、彼らはこの前足を前後に動かして、岩に付いた藻をはぎ取ったり、水底を歩いたりしていたと考えられる。多くの個体の水に浸かった部分の皮膚には、数多くの小さな甲殻類が寄生しており、解剖した腸の中には線虫が寄生していたという。

ステラーカイギュウの頭部は体に比べて小さく、が短くて、胴体との境界はあまりはっきりしていなかった。は小さく、口の周りには太いが生えていた。外から見たは豆粒大の大きさしかなく、あまり目立たなかったが、内耳の構造は発達しており、音はよく聞こえていたと考えられる。首の構造は非常に柔軟で、あまり体を動かさなくても広い範囲の餌を食べることができたと考えられる。

は大きく平らで、先はクジラの尾のように二股に分かれていた。 その体を包む黒く丈夫な皮膚は、数多くのしわが刻まれ、厚さは2.5センチメートルもあり、木の皮のようだった。皮膚の下の脂肪層は、10-20センチ以上あった。これは寒さから身を守るとともに、氷や岩で体に擦り傷が付くのを防いでいたと思われる。

発見当時、ステラーカイギュウはすでに、コマンドル諸島などの限られた地域にしか生息していなかったが、10万年前の化石をみると、かつては日本沿岸からアメリカカリフォルニア州あたりまで分布していたことがわかる。その後アリューシャンの島々にしか棲まなくなったのは気候の変化のためだが、1万2,000-1万4,000年前ごろにこの地域に人間が定住するようになったことも、部分的に影響しているかもしれない。

標本

東海大学自然史博物館に、ステラーカイギュウの全身骨格標本が展示されている。これはロシアで捕獲されたものの複製である。

専門家によるステラーカイギュウの唯一の観察記録は、シュテラー自身によるものだが、鳥羽水族館では、これに基づいて、ステラーカイギュウの復元標本の作成が何度か試みられている。

化石

ファイル:Steller's sea cow skull.jpg
ステラーカイギュウの頭蓋骨の化石

日本でも、北海道東北地方から、寒冷適応型のカイギュウ類の化石が、のべ30体ほど発見されており、その中にはステラーカイギュウの祖先に当たると思われる同属のピリカカイギュウや、ステラーカイギュウそのものの化石であるキタヒロシマカイギュウ(ステラーカイギュウ北広島標本)が含まれている。

北海道北広島市で発見されたステラーカイギュウ北広島標本は、北広島市中央公民館・北海道開拓記念館に展示されている。この化石は、唯一のステラーカイギュウ化石と言われていたが、後に房総半島千葉県)でもステラーカイギュウの化石が発見されている。

また、2007年5月、東京都狛江市を流れる多摩川河床の約120万年前の地層から発見された大型カイギュウ類の全身骨格化石は、祖先種からステラーカイギュウに進化する途中の新種と見られている。この化石は、あごから尾まで全身の100個以上の骨がほぼそろっており、幼獣ながら全長5 - 6メートルと推定される。肋骨は左右に20個ずつあり、ステラーカイギュウより1個多く、その祖先種より1個少ないことから、進化の過程で肋骨を減らしつつあった中間種とみられる。

関連項目

外部リンク

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