ジュニーニョ・パウリスタ

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テンプレート:BLP unsourced テンプレート:大言壮語 テンプレート:百科事典的でない テンプレート:サッカー選手 ジュニーニョ・パウリスタ(Juninho Paulista)ことオズヴァルド・ジロウド・ジュニオール(Osvaldo Giroldo Junior, 1973年2月22日 - )は、ブラジルサンパウロ出身のサッカー選手である。名前からも分かるとおり生粋のパウリスタ

略歴

キャリアのスタート

貧しい階層出身の選手が多いブラジルサッカー界では珍しい中流階級の出身で、父親は公務員だった。少年時代はサッカースクールでフットサルをしており、世界一とも称された華麗な技術はそこで磨かれた。華麗なステップワークとスピードを生かしたドリブルとノールックからの鋭いスルーパスで、10代の頃からサンパウロ州では注目を集めていた。

ただ体格が余りにも小さく細かったためか、プロデビューは19歳と遅く、他のセレソン達の様にユース年代の代表には選ばれていない。しかし、イトゥアーノというサンパウロ州の中堅クラブでキャリアを始めた以降は、順調にステップアップしていく。

1993年には、名将テレ・サンタナ監督に才能を認められ、前年トヨタカップを制して世界最強クラブだったサンパウロFCに移籍。当初はレオナルドミューレルら前線の選手層が厚かったため控えとなることが多かったが、テレ・サンタナ監督の英才教育を受けて、スーパーサブ的な存在として活躍する。

同年のトヨタカップでは、ACミランと対戦。途中出場を果たし、弱冠20歳にしてクラブ世界一のピッチに立つ経験をした。この時は放映した日本テレビでも、テレ・サンタナ監督の秘蔵っ子である注目の存在として取り上げており、ジュニーニョがアップを始めると、わざわざアップするジュニーニョを映していた。

サンパウロFCの10番、そしてセレソンへ

1994年には、ほぼレギュラーに定着し主に背番号7。攻撃的MF又はFWとして活躍し、10番のレオナルドとサンパウロFCの攻撃を担った。そのレオナルドが鹿島アントラーズに移籍すると、以降はサンパウロFCのエース的存在になった。同年にはコパ・CONMEBOLにレコパ・スダメリカーナを制し、3個目の国際タイトルを獲得。一気にブラジル国内若手ナンバーワンの注目選手に躍り出た。1995年には背番号10を背負いサンパウロFCの象徴的存在となり、1995年ワールドユース得点王の9番カイオとのコンビで活躍。同年のブラジル国内最優秀選手を獲得している。尚、日本にも親善試合で来日し、ジュビロ磐田を相手に1-0、決勝点を挙げている。

同年2月22日の22歳の誕生日にスロバキア戦で代表デビュー。同年のコパ・アメリカでは10番を背負い、決勝でエンツォ・フランチェスコリ率いるウルグアイに破れ、惜しくも準優勝。しかし、個人タイトルとして同大会のMVPに選出された。イングランドで開催されたUMBROカップでも再び10番を背負い、驚異的なパフォーマンスを見せて優勝に貢献。一躍セレソンの新しい10番として国際的に認知されるに至った。ザガロ監督の下、4-3-1-2システムの中でポンタ・ジ・ランサ(槍の先)として攻撃の中心を担い、96年アトランタ五輪まで同ポジションの不動のレギュラーとして、文字通りセレソンのエースとなった。

1995年当時の日本のサッカー雑誌でも、ブラジル代表の新時代を担う10番として大きく取り上げられている。

新世代の10番の期待

1994 FIFAワールドカップ・アメリカ大会を24年ぶりに制したものの、攻撃的MFにまで守備重視を要求したカルロス・アルベルト・パレイラ監督の戦術は、ブラジル国民の批判を浴びた。その批判を受けてマリオ・ザガロ監督が選択した戦術が4-3-1-2システムであり、守備は固めつつも「1」のポジションにファンタスティックな「10番」を配するサッカーだった。

その候補となったのが、元ヴェルディ川崎グアラニアモローゾであり、ジュニーニョだった。得点力では遥かにアモローゾが優れていたが、中盤全体をカバーする運動量、スルーパス等のアシスト能力、中盤でのゲームメイクではジュニーニョが優った。

彼らに共通したのは、ブラジル伝統のテクニックとファンタジアを受け継ぐ「10番」でありつつも、運動量が少なく中盤の中央に「王様」として君臨する古典的な「10番」ではなく、スピードと前後左右の運動量があり、90年代以降顕著になったプレースペースの縮小に対応できる能力を持つ点であった。

彼らの後に続いたリバウドロナウジーニョは、FCバルセロナで主にトップ脇のセカンドFWとして輝いたように(※両者とも、クラブではトップの左で輝く一方で、スペースが制限される代表の2列目では十分に輝けなかった)、又その屈強なフィジカルをも武器としたように、ブラジル伝統の「10番」とはスタイルがやや異なり、その意味では、ジュニーニョはブラジル代表最後の「伝統的10番」であったと言えるかもしれない。

イングランド移籍、アトランタオリンピックの敗戦

順風満帆に見えたジュニーニョのキャリア。それに影が差し始めたのは、アトランタ・オリンピックに先立ってのプレミアリーグミドルズブラFCへの移籍からだった。

後年ジュニーニョ自身が語っているが、「僕が望んだというよりも、ミドルズブラが強く望んだ結果だ」というように、ミドルズブラ側が当時ブラジル国内市場最高の移籍金を提示し、エスタジオ・ド・モルンビーの改修費に悩むサンパウロFCがそれに乗る形で移籍が成立した。

当時プレミアリーグは80年代後半の低迷を脱し、イギリス国内の経済復興によって資金も潤沢であり、国外からデニス・ベルカンプエリック・カントナといったスター選手を集めており、かつての単調なロングボール・サッカーから変わりつつあったものの、それは一部のビッグクラブの話で、その年にプレミアリーグに昇格したばかりのミドルズブラFCには望むべくもなかった。

イタリア代表ファブリッツィオ・ラバネッリとのホットラインで善戦するものの、チーム力全体の低さは如何ともしがたく、結局ミドルズブラは96-97シーズンで最下位。1部リーグに降格してしまう。又この間にはアトランタ五輪日本に負け、また準決勝ではナイジェリアにも負けて結局銅メダル。続けての挫折を味わうことになってしまった。又、アトランタ五輪以降は、地理的な条件(当時、プレミアリーグなどはブラジル国内では眼中になかった)に加えて、クラブの低迷もあって、代表でのポジションを失うことになってしまった。

プレミアリーグ史上最も愛された外国人選手

一方で、96-97シーズン最終節でミドルズブラFCの降格が決定したピッチで号泣し、チームへの愛情と勝利への執着を露にし、又報われないながらも”ブラジル代表の10番”に相応しいファンタジアを見せ続け、その孤軍奮闘の痛々しさがイギリス中を感動させた。その号泣のシーンは、優勝したマンチェスター・ユナイテッドよりも大きく報道され、日本でもワールドサッカーダイジェストに記事が掲載されている。この号泣と孤軍奮闘によってジュニーニョは、ミドルズブラ・サポーターのみならず、イギリス国民全体から最も愛された外国人選手という地位を築くことになった。

その結果、他のチームや選手ではほとんどありえないケースや現象が、ジュニーニョの場合は発生した。

降格後にアトレティコ・マドリーへ移籍する際、ミドルズブラ・サポーターからは全くといっていいほど「裏切り者」という批判が起こらず、むしろ愛情と哀惜に満ちた送り出しになった。

その後、2回もミドルズブラに出戻り移籍し、その都度熱狂的に迎え入れられている。又、その後出て行く際にも、チームや監督が放出を批判されることはあっても、ジュニーニョ本人への批判はほとんど起こっていない。

2回目の移籍の際には、イングランドへの移籍に必要な「A代表出場75%以上」という条件を満たさないにもかかわらず、当時のイギリス首相トニー・ブレアの特例措置によって入国と移籍が承認される事態になった。3回目の移籍の際も同様に条件を満たしていなかったが、今度は「ワールドカップ優勝メンバーだから」というよくわからない理由でやはり特例措置が取られて承認されている。日本人では、三都主宮本恒靖が、この規定に引っかかってプレミアリーグ移籍を拒まれており、一国の首相が動いたという特例措置の異常さと共に、イギリス国内のジュニーニョに対する思い入れの深さがわかる。

スペインでの活躍と負傷、挫折

97-98シーズンより、ジュニーニョは活躍の場をリーガ・エスパニョーラアトレティコ・マドリーに移した。開幕のレアル・マドリード戦でいきなりリーガ初ゴールを決め、一躍チームのエースとなった後、クリスティアン・ヴィエリキコらと強力攻撃陣を形成し、前半戦3位の原動力となった。そのプレーに対して、当時のユーゴスラビア人監督のラドミル・アンティッチは、「ジュニーニョがいれば、戦術などいらない」旨の発言をして絶賛している。

この間、ようやくブラジル代表にも復帰し、1997年のコンフェデレーションズカップ決勝では攻撃的MFのレギュラーに返り咲いて、優勝に貢献した。

このまま行けば、1998 FIFAワールドカップでの代表選出は確実であったが、その彼を悲劇が襲う。1998年年明けのリーグ戦で、ミチェル・サルガドの悪質なバックチャージを受けて、左足首靱帯断裂の重傷を負い、ワールドカップを棒に振ってしまう。この怪我以降も度々靱帯の負傷を繰り返したため、ジュニーニョの特徴だったスピードを生かした突破力は少しずつ衰えが見られるようになった。

半年のブランクを得て復帰するが、その後監督に就任したアリーゴ・サッキクラウディオ・ラニエリの、ファンタジスタを不要とする構想に合わず戦力外になってしまう。

その後、ミドルズブラFCに2回目の移籍を果たすものの、(ミドルズブラの戦術がロングポール主体に変わっていた不運もあって)全盛期のプレーは戻らず、再びブラジル代表からも遠ざかる日々が続いた。

ヴァスコ・ダ・ガマでの復活

2000-2001シーズン、ジュニーニョはブラジル国内に戻り、リオデジャネイロ州の名門CRヴァスコ・ダ・ガマに移籍する。ここには、当時ロマーリオエウレルジュニーニョ・ペルナンブカーノジョルジーニョらがいた。戦術や規則に縛られた欧州を脱出し、自由を回復したジュニーニョは、ここで10番を与えられ完全復活する。

圧巻は2000年コパ・メルコスール決勝。0-3の劣勢から、ジュニーニョとロマーリオのコンビが爆発して4-3と大逆転、優勝を飾った。ロマーリオはこの年の南米最優秀選手を獲得し、ジュニーニョ自身もベストイレブンに選ばれている。ブラジル代表にも再び復帰し、日韓ワールドカップ南米予選のベネズエラ戦では、ロマーリオをはじめヴァスコの前線4人衆が大活躍し、翌日に「ロマーリオサッカー教室」と報道された大勝を演出した。

この当時、ロマーリオはジュニーニョのアシストとゲームメイクを高く評価し、かつ感謝しており、ブラジル国内のインタビューでは記者達に向かって、「世界一のMFはジダンじゃない。ジュニーニョだ」と絶賛している。

ついでながら、ジュニーニョは、上流階級出で育ちの良いサンパウロFCのカイオはともかくとして、ファブリツィオ・ラバネッリクリスティアン・ヴィエリロマーリオといったアクの強いストライカーの全員とも良好な人間関係を築いており、特にクリスティアン・ヴィエリからは親友扱いされていた。又、これらストライカー達の全員に、得点王かそれに準ずる成績を残させている。

ロマーリオは、フラメンゴ時代には、中流階級出身で優等生タイプのサヴィオをぶん殴っており、本来育ちの良いタイプとは合わないはずであるが、なぜかジュニーニョとはウマが合っていた。ジュニーニョ自身もロマーリオを素直に尊敬していたらしく、「ロマーリオはいつも遊んでいるように言われるけど、本当は最後まで居残り練習しているんだ」という旨の発言をしている。

ジュニーニョのプレースタイルは、ファンタジスタ系でありつつも、自身が動かずに周りを動かす「王様」タイプではなく、豊富な運動量で走り回ってストライカーの周囲をサポートし、FWが得点できるようお膳立てをするタイプで彼自身、「ラヴァネリやヴィエリ、ロマーリオ達に得点してもらうようアシストすることが、僕の喜びなんだ」と語っている。

日韓ワールドカップ優勝

2002 FIFAワールドカップ日韓大会に際して、悲願のブラジル代表に選出されたジュニーニョだったが、このときの不運は、ヴァスコ・ダ・ガマより移籍したフラメンゴで不調に陥っていたことだった。2001年当時のフラメンゴにはレオナルドと元ユーゴスラビア代表のデヤン・ペトコヴィッチがおり、ファンタジスタ同士の華麗な競演が期待されていたが機能せず、結果的には失敗の移籍となってしまった。その間台頭したロナウジーニョに攻撃的MFのポジションを奪われ、不慣れな下がり目のMFで出場することになった。

結果、グループステージでは先発したものの、決勝トーナメント以降は守備を重視したルイス・フェリペ・スコラーリ監督の戦術によって、クレベルソンにポジションを奪われ、ほとんど出番はなかった。それでも、決勝戦ドイツ戦の最後に出場を果たし、世界一の瞬間に立ち会うことが出来た。

これによって、トヨタカップ優勝とワールドカップ優勝という、クラブ、代表両方の世界一の瞬間にピッチに立った名誉を持つ数少ないプレイヤー達の仲間入りを果たした。

ワールドカップ優勝以降

ワールドカップ日韓大会以降、ジュニーニョは三度、ミドルズブラFCに移籍を果たす。かつてのカリスマ扱いではなく、必ずしも先発保証はなかったが、ここで彼はクラブに史上初めてのカップタイトルであるフットボールリーグカップをもたらし、クラブの伝説に名前を刻んだ。

2007年現在で、ミドルズブラFCにとってジュニーニョは既に過去の選手であるが、クラブのHPには、伝説のプレイヤーとして名前が刻まれている。

2004年以降は出場機会を求めてスコットランドセルティックに移籍するが、ここでもロングボール・サッカーに悩まされ、再び母国に帰り、サンパウロ州パルメイラスに移籍し、エジムンドと共にエース10番として活躍した。ブラジル代表には招集されなくなったものの、そのファンタジアは健在で、得点王ランキングやベストイレブン順位でも、上位につけていた。

2007年に、パルメイラスの経営陣を批判してチームにいられなくなり退団。再びフラメンゴに移籍してコパ・リベルタドーレスに挑むも、チームは1回戦で敗退。出場機会を模索して、今度はオーストラリアシドニーFCに移籍を果たした。イギリス連邦の一員であるオーストラリアでは、イングランド時代のジュニーニョの名声が生きており、ドワイト・ヨークの後継者として期待された。しかし、またしても怪我等に悩まされ、目立った活躍は出来ずに2008年3月に退団。以後、復帰も目指してパルメイラスの設備を借りて練習を重ねていた。2010年、初めてプロとして契約したクラブチームである古巣のイトゥアーノFCで再びプレーした。

所属クラブ

獲得タイトル

個人タイトル

作品

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