サボ島沖海戦

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | サボ島沖海戦
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 日米艦隊の航路
戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日:1942年10月11日
場所:ソロモン諸島、サボ島
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1889 テンプレート:USA1912
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 五藤存知少将 ノーマン・スコット少将
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 重巡洋艦3
駆逐艦2
重巡洋艦2
軽巡洋艦2
駆逐艦5
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 重巡洋艦1
駆逐艦1沈没
重巡洋艦1大破
重巡洋艦1小破
他に退却支援中に駆逐艦2沈没
駆逐艦1沈没
軽巡洋艦1大破
駆逐艦1大破
重巡洋艦1小破

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サボ島沖海戦(サボとうおきかいせん)とは、第二次世界大戦において1942年10月11日深夜~12日に日本軍アメリカ軍の間で行われた海戦である。連合軍側の呼称はBattle of Cape Esperance (エスペランス岬沖海戦)。レーダーが勝敗の行方を左右したといわれるが、実際には日本艦隊の油断と不手際によるところが大きい[1]

なおサボ島沖海戦の2ヶ月前に行われた別海戦で、日本軍側が第一次ソロモン海戦と呼称する海戦のことを連合軍側は「Battle of Savo Island」と呼んでいる。

経緯

日本軍はアメリカ軍との戦闘が続くガダルカナル島に対する重火器の輸送を企図し、その支援のため第六戦隊を基幹とする艦隊をガダルカナル島近海に送り込み、ヘンダーソン飛行場の砲撃を計画した。一方、アメリカ軍も航空偵察によって日本艦隊の出現を察知しており、艦隊をガダルカナル島近辺に進出させていたため、両艦隊の間に戦闘が発生した。第一次ソロモン海戦とは逆に、日本艦隊は油断し、米艦隊は警戒して戦闘準備を整えていた。

戦闘経過と結果

会敵

10月11日、重火器を搭載した水上機母艦日進」「千歳」・駆逐艦「秋月」「夏雲を中心とする輸送隊は、2110(日本時間、以下同)ガダルカナル島タサファロング泊地に到達、物資の揚陸を開始した。一方、外南洋部隊の命令により支援部隊の重巡洋艦「青葉」を旗艦とする第六戦隊(青葉と衣笠 (重巡洋艦)古鷹 (重巡洋艦))は飛行場砲撃の準備を整え、サボ島の沖合に進撃した。「青葉」は地上攻撃用の特殊砲弾を装填しており、今作戦そのものが米軍基地飛行場射撃の効果を確認する意味合いがあった[2]

道中、日本艦隊は大規模なスコールに遭遇し、之字(ジグザグ)運動を中止した。速力は30ノットのままだったため、艦隊は予定より2時間も早く作戦海面に到達した。この時まだ戦闘配置命令は出ておらず、以降の会敵後しばらくして「煙草盆引け」が出たにすぎなかった[3]

スコールが去った後の2143、青葉の見張員がガダルカナル島手前に「左十五度、艦影3、針路南西、距離100(1万m)」とアメリカ艦隊を発見した。

日本軍の誤認

ところが五藤少将はこれを味方輸送隊(日進、千歳、秋月、夏雲)と誤認するという致命的なミスを犯す。位置関係や時間帯からも、これが輸送隊である可能性は低かったが、発見した艦影の中に輸送隊の「日進」などに類似した艦影があったため味方である可能性を考慮した[4]。旗艦「青葉」の見張り員がさらに距離7000mで「前方の艦影は敵艦」と報告したものの、疑念を持った五藤少将は警戒のための之字運動も命じずに艦隊を直進させつつ、「左10度、味方識別10秒」を下令、敵味方確認の為に発光信号で確認を取らせた[5]。 すると、艦橋最右端の18センチ双眼鏡を覗いていた掌航海長が異変に気づき「これは敵です、敵です」と絶叫した。 すかさず「青葉」艦長・久宗米次郎大佐は総員配置命令をだし、艦内にラッパが鳴り響いた[3]

だが時すでに遅く、この直後、アメリカ軍は旗艦「青葉」に照明弾による先制攻撃を行い、「青葉」は集中砲火を浴びた。 陣形はアメリカ軍にとって理想的なT字隊形となっており、日本軍は完全に出鼻を挫かれた。 この時点になっても未だに五藤少将は同士討ちを信じて疑わず「ワレアオバ、ワレアオバ」と敵艦隊に発光信号を送り続けさせた。 そして初弾から「青葉」は艦橋に直撃弾(不発)を受ける。 艦橋正面から後方へ貫通した一弾がビリヤードの玉のように艦橋を跳ね回り、戦隊司令部は一瞬で壊滅、五藤少将も左足切断の瀕死の重傷を負い、主砲射撃方位盤及び通信装置は破損。艦橋へ上がるラッタルも吹き飛ばされ、そこにいた副長を含む乗組員は全員戦死した[3]。さらに第2砲塔も命中弾を受け使用不能となり、「青葉」は戦闘能力を喪失した。

アメリカ軍の混乱

理想的隊形で先制奇襲に成功したアメリカ軍であったが、内情は日本軍同様に混乱していた。 ノーマン・スコット少将率いる巡洋艦部隊(旗艦・重巡サンフランシスコ)は、日本艦隊迎撃の任を受けてエスペランス岬沖を警戒していたが、サンフランシスコの水偵が日本軍輸送隊を発見し、スコット隊はサボ島西方に進出した。彼等は「巡洋艦2隻、駆逐艦6隻」という東京急行を迎撃するために駆逐艦3-巡洋艦4-駆逐艦3という布陣でサボ島近海を哨戒していたのだが、日本艦隊巡洋艦2隻の正体は水上機母艦「日進」「千代田」であった[6]

2125、軽巡「ヘレナ」のレーダーがいち早く日本艦隊を捉えた。 幸運なことに隊列は理想的なT字形で日本艦隊を迎え撃つ体勢にあった。 スコット少将はこの理想的なT字形を維持しようと、2132、一点回頭を命じた。 ところがこの時混乱が生じた。前衛の駆逐艦2隻(「ファーレンホルト」「ダンカン」)が落伍してしまったのである。以降、各艦のレーダーも日本艦隊を捉え出したが報告位置に差があり、スコット少将はこれを分離した前衛の駆逐艦かもしれないと思い、判断に苦しんだ。

刻々と時間が過ぎる中、軽巡「ヘレナ」は肉眼でも日本艦隊を確認し、同艦レーダー士官は「どうしようというんだ、横付けにでもするつもりか!」と叫んだ[7]。フーバー艦長は旗艦「サンフランシスコ」に射撃許可を求めた。 旗艦は、この通信に対して「受信した」という程の意味で「Roger(了解)」と返信した。 フーバー艦長はこれを射撃許可が下りたものと誤解して、2146ヘレナが射撃を開始したことにより米艦隊は一斉に砲門を開き、戦端が開かれたのである。 スコット少将はすぐに射撃中止を命じたが、興奮した部下たちを制止することは不可能だった。

混乱する戦局

直撃を食らった艦橋は阿鼻叫喚たる様で、パニックに陥っていた。すると先任参謀・貴嶋掬徳中佐が艦橋に上がりこみ、瀕死の五藤少将に歩み寄ると、「司令官、反転して再挙を図ります」と反転と艦長への指揮権委譲の許可を要請した[3]

貴嶋中佐のとっさの機転で指揮権を引き継いだ艦長・久宗大佐は、不利な態勢からの脱却を図る為、それまで取舵をとっていたところを逆に面舵をとって右反転、最大戦速での一時離脱を図った。 その直後に「射撃していた艦隊は敵艦隊」との見張員からの確認を受けたスコット少将は、砲撃再開を下令する。

日本艦隊もようやく反撃を始めるが、正確さを増す敵弾は「青葉」と「古鷹」に集中し、「青葉」は地上砲撃準備の整っていた後部第3主砲塔に直撃を浴び、装填中の零式弾及び装薬が誘爆して砲員を全滅させ、直下の弾薬庫に火災の炎が侵入しかける事態となった。砲弾が地上攻撃用信管であったことが災いした。 この際、掌砲長が火災をかいくぐって第3砲塔に辿りつき、間一髪のところで弾薬庫への緊急注水に成功。爆沈は免れたが、弾庫員は全員水死した。 2150、40発以上の命中弾を受けて上部構造物は滅茶苦茶にされながらも、喫水線下と機関は無事だった「青葉」は煙幕を展張して、全速で避退に移った。一番砲塔の砲側照準によって主砲7発を発射のみであった[8]

続く重巡洋艦「古鷹」はこの煙幕に上手く潜り込めなかった。 元々「古鷹」は敵の発砲に対し艦長荒木伝大佐が即応しており、取舵を取り一旦離脱を図ろうとしていた。 しかし旗艦「青葉」に敵弾が集中するのを見て、救援をするために面舵を取り直し即座に敵艦隊と「青葉」の間に「古鷹」を割り込ませたのである。 これが仇となり、「古鷹」は離脱を図る「青葉」の代わりに集中砲撃を浴びたのである。 「古鷹」は魚雷発射管に命中弾の破片を浴び、装填中の九三式酸素魚雷から酸素が漏れて火災となってしまい、格好の目標となってしまった。 しかし「古鷹」は果敢に応戦し、照射射撃をして位置を晒した軽巡「ボイシ」に砲弾4発を命中させた。 しかし被弾がひどく最終的に大小90発以上の敵弾を浴びて、2240終に航行不能となってしまう。 「古鷹」は主砲は30数発を発射したほか、高角砲で数斉射を行った。

殿艦だった「衣笠」は先制攻撃の被害を免れ、駆逐艦「初雪」と共に当初の予定通り取舵をとって左反転しつつ反撃に転じ、軽巡「ボイシ」と重巡「ソルトレイクシティー」と砲撃戦を行い、ボイシを大破し、ソルトレイクシティーを小破せしめた。 この間、駆逐艦「吹雪」は敵味方識別の為、距離1500まで接近したため重巡「サンフランシスコ」から照射を受け、米艦隊の集中砲火を浴びた。 「吹雪」は慌てて右反転、離脱を図るも敵弾からは逃れられず、2153弾薬庫爆発により轟沈した。 艦長以下乗組員220名が戦死、わずかに軽傷だった8名がガダルカナル島に漂着するという悲惨な最期であった。

一方で米軍も本体と分離してしまった「ファレンホルト」と「ダンカン」の2隻の駆逐艦が丁度、日本艦隊と米艦隊の中間位置に突出した形となり、味方の誤射と日本軍の砲撃の両方を浴び、「ダンカン」は炎上して放棄され翌日沈没、「ファレンホルト」は大破した。 特に「ダンカン」は日本軍に浴びた弾よりも、味方から受けた命中弾の弾痕のほうが多かったといわれる。 「古鷹」の砲撃により大破した「ボイシ」は弾薬庫に被弾したものの、浸水が消火の役目を果たして沈没は免れた。 2227、米艦隊は戦場を離脱し、戦闘は終了した。

航行不能となった「古鷹」は敵艦隊の戦場離脱によりそれ以上の損害を出すことは免れたが、修理の見込みはなく総員退去命令が下され、翌12日零時半頃、転覆沈没した。 この海戦では両軍とも魚雷の命中はなかった。

重なる損害

一方輸送隊は0050、揚陸作業を完了し、護衛の駆逐艦から「白雲」「叢雲」を第六戦隊救援に向かわせたが、「叢雲」が生存者救出後避退中にガダルカナル島から発進した敵機20機の空襲を受け航行不能となり、さらにこの救援に向かった「夏雲」も敵機11機の空襲を受け至近弾数発を受け沈没、結局両艦の生存者を「初雪」が収容した後、「叢雲」は「初雪」の魚雷により処分され、駆逐艦2隻がさらに犠牲となってしまった。

海戦後

第六戦隊司令官五藤存知少将は翌早朝、退却途上の艦上にて出血多量により戦死したが、最後まで同士討ちを受けたと信じていたと言われている。第一次ソロモン海戦で苦杯を嘗めた米軍が夜戦を挑んでくるはずはないという油断と慢心、第一次ソロモン海戦で味方艦を敵と誤認しかけたことが五藤少将の判断を誤らせたと言われる。日本軍でもこの戦訓は認識しており、10月15日に連合艦隊参謀長宇垣纒少将は自身の日誌、「戦藻録」で第六戦隊司令部は警戒心が無さすぎ、この戦いは衣笠一隻で戦ったようなものだと、判断ミスを犯した第六戦隊司令部に対して手厳しい批判を書き記している。

テンプレート:Quotation戦藻録」の10月16日の日誌では、青葉や古鷹の艦長や参謀長から聞き取りを行い、いくつかの所見を書いており、そこでは夜戦失敗は事前の偵察不十分に在るとしている[9]

日本軍は手痛い敗北を喫し、飛行場砲撃という目的は達せられなかったが、輸送作戦そのものは成功したとも言える。日本軍は、「米重巡洋艦1、駆逐艦1撃沈、重巡洋艦1大破」という戦果を挙げたと誤認していた[10]。また、勝利した米艦隊も大小の損害を受けておりガダルカナル島海域から避退、戦力の空白地帯を作ってしまう。この間、第二次飛行場砲撃部隊/挺身艦隊(第3戦隊、司令官栗田健男少将/戦艦金剛榛名)がルンガ泊地に突入、ヘンダーソン基地に艦砲射撃を行った(ヘンダーソン基地艦砲射撃)。

アメリカ軍は日本軍巡洋艦4隻・駆逐艦4隻を撃沈したと報告した[11]。この戦いは日本軍が得意とした夜戦でアメリカ軍が勝利した初めての戦いであり、アメリカ軍は以後レーダーの利用について自信を持つことになる。しかし実際にはアメリカ軍の混乱も大きく、日本軍側に指揮官の不手際、命令伝達ミス、ガダルカナル島砲撃という目的に捉われて注意力が散漫になっていたこと等の不手際が重なり、さらに偶然にも絶妙のタイミングでの先制攻撃となったこと等が米側に僥倖となった[12]

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08030749500「昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(1)」
    • Ref.C08030045800「昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)」

関連項目

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  1. #図説太平洋海戦史第2巻205頁
  2. #図説太平洋海戦史第2巻202頁
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 神立(2004)、p.87
  4. 「昭和16年12月1日~昭和17年10月12日 第6戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)」第45画像
  5. #図説太平洋海戦史第2巻206頁
  6. #悲劇の海に眠る艦船115頁
  7. #悲劇の海に眠る艦船116頁
  8. #図説太平洋海戦史第2巻207頁
  9. 戦藻録 p.210
  10. 「昭和17年10月1日~昭和17年10月31日 軍艦筑摩戦時日誌(1)」第12画像
  11. #図説太平洋海戦史第2巻210頁
  12. #図説太平洋海戦史第2巻212頁