クリスチャン・アルバース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年8月9日 (土) 15:27時点におけるNOBU (トーク)による版 (外部リンク)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox

クリスチャン・アルバースChristijan Albers, 1979年4月16日 - )はオランダアイントホーフェン出身のレーシングドライバー。2014年7月2日から、ケータハムF1チーム代表。

父親のアンドレ・アルバースはラリークロスレースで活躍した人物で、1979年のオランダ国際ラリークロス選手権(GT部門)においてチャンピオンとなっている。

経歴

初期の経歴

1997年にカートレーシングのオランダ国内選手権タイトルを獲得。同年にフォーミュラ・フォード(1800cc)においても、オランダ選手権、ベルギー選手権を同時に制覇したほか、ザントフォールトサーキットにおいてマールボロ・マスターズF3レースと併催されたルノー・メガーヌ・マールボロ・マスターズにも参加した。

1998年にはドイツF3選手権にステップアップし、初年度から2勝を含む表彰台5回を奪う活躍を見せ年間ランキング5位に着け、翌年は6勝、10ポールポジションを挙げてチャンピオンに輝いた。

2000年に国際F3000へと進み、当時ポール・ストッダートがオーナーを務めており、F1のアロウズチームのジュニアチームでもあったヨーロピアン・アロウズチームから参戦した。この年は得点することすら叶わず、これはチームメイトだったマーク・ウェバーが新人ながら一時的に選手権をリードし最終的に年間ランキング3位という結果を収めたのに対して大きく見劣りする形となった。しかしながら、この縁から翌年以降、ストッダートが買収したミナルディF1チームのテストドライバーとしてしばしばそのステアリングを握ることとなる。

DTM

2001年からはしばしフォーミュラレースを離れ、ドイツツーリングカー選手権(DTM)に参戦。プライベートチームからの参戦ながら初年度で予選3番手、決勝でも2位を記録するなどしばしば好走を見せ、AMGメルセデスワークスチームのドライバーであるウヴェ・アルツェンが去ったことを受けて、2003年からはその後任としてAMGワークスチームのドライバーとなった。

これを契機に一躍トップ争いに名を連ねるようになり、2003年にはチームメイトのベルント・シュナイダーとチャンピオン争いを展開し、最終戦までもつれた結果、ランキング2位に食い込んだ。チャンピオンこそ逃したものの、この年はDTM初優勝を遂げ、最終的にこのシーズンにおいて最多となる4勝を挙げた。2004年もしばしば選手権ランキングトップとなり、1勝を含め6度の表彰台を記録し、年間ランキングは3位に食い込む活躍を見せた。

F1

ミナルディ

フォーミュラカーから離れていた2001年以降も、DTMでの活躍の一方で、ジョーダンやミナルディで度々F1のテストドライブを経験し、2004年12月には、F3000時代のストッダードとの関係や、母国オランダのトラスト社等からの支援を受け、2005年のミナルディのレギュラーシートを獲得した。

最下位チームであることもあって見せ場には乏しかったが、ミシュランタイヤを装着する全チームが棄権したアメリカGPでは、この年ブリヂストンユーザーだったミナルディに在籍していた漁夫の利もあって5位に入賞し、F1における初ポイントを獲得した。テンプレート:-

MF1レーシング

2005年11月1日、レッドブル社によってミナルディが買収され、トロ・ロッソチームとなることが発表されたが、それに先立つ10月31日、アルバースはミッドランド社がジョーダンを買収して創設したMF1レーシングへ移籍し2006年シーズンに参戦することを発表した。

ジョーダン時代となる前年からチームに在籍し、デビュー年ながら高い完走率で注目されたティアゴ・モンテイロをシーズン序盤からリードし、以後は主にスーパーアグリ佐藤琢磨と激しく争うこととなる。

第4戦サンマリノGPではスタート直後にスーパーアグリの井出有治に追突され、自らのマシンは横転してクラッシュしリタイアとなった。この事故を引き金に井出はF1で走る水準に達していないとみなされ、ニキ・ラウダはじめベテランドライバーらから苦言を呈されたこともあって、後にスーパーライセンスを失ったが、当事者であるアルバースはFIAによるこの裁定について「新人ならば誰でも1度はミスをするものだ」と発言し井出を擁護した[1]テンプレート:-

スパイカーF1

MF1レーシングがオランダの自動車メーカーであるスパイカー・カーズ社に買収されスパイカーF1チームとなる中、アルバースは2007年シーズンに向けエースドライバーとして残留することに成功する。スパイカー社の大株主であるミッシェル・モルは元々Lost Boysなどの名義でアルバースを支援しており、チームとしてはアルバースのパーソナルスポンサーであるトラスト社の支援も見込め、加えて、オランダ国籍となることを大きなセールスポイントとするスパイカーとしてはオランダ人ドライバーの起用は望ましいことでもあることから、この人事は至極当然とみなされていた。

しかし、個人スポンサーによるチームへの支払い滞納、チームメイトであるエイドリアン・スーティルと比較しても結果が劣る状況が続く。そしてフランスGPで給油ホースを引きちぎってピットロードを激走するという一歩間違えば大惨事ともなる大失態を演じ、イギリスGP後の7月10日、チームは公式に「今後このチームでレースすることはない」と正式解雇を発表した。その後は再びDTMに参戦している。2009年からはル・マン24時間レースにも出場した(2010年まで)。

レース戦績

DTM

所属チーム 使用車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 順位 ポイント
2001 パーソン・モータースポーツ メルセデス・ベンツ CLK-DTM HOC
QR

13
HOC
CR

13
NÜR
QR

13
NÜR
CR

12
OSC
QR

11
OSC
CR

11
SAC
QR

16
SAC
CR

2
NOR
QR

13
NOR
CR

16
LAU
QR

12
LAU
CR

16
NÜR
QR

8
NÜR
CR

9
A1R
QR

11
A1R
CR

Ret
ZAN
QR

8
ZAN
CR

Ret
HOC
QR

14
HOC
CR

9
14位 24
2002 チーム・ロズベルグ メルセデス・ベンツ CLK-DTM HOC
QR

Ret
HOC
CR

Ret
ZOL
QR

13
ZOL
CR

6
DON
QR

11
DON
CR

4
SAC
QR

13
SAC
CR

8
NOR
QR

10
NOR
CR

6
LAU
QR

20
LAU
CR

14
NÜR
QR

18
NÜR
CR

17
A1R
QR

19
A1R
CR

13
ZAN
QR

Ret
ZAN
CR

12
HOC
QR

11
HOC
CR

9
12位 245
2003 HWAチーム メルセデス・ベンツ CLK-DTM HOC
5
ADR
1
NÜR
1
LAU
7
NOR
1
DON
5
NÜR
2
A1R
3
ZAN
1
HOC
12
2位 64
2004 HWAチーム メルセデス・ベンツ C-クラス 2004 HOC
2
EST
1
ADR
2
LAU
2
NOR
2
NÜR
16
OSC
12
ZAN
3
BRN
Ret
HOC
7
3位 50
2008 フューチャーコムTME アウディ・A4 DTM 2006 HOC
Ret
OSC
16
MUG
13
LAU
14
NOR
Ret
ZAN
Ret
NÜR
11
BRH
14
CAT
10
BUG
13
HOC
Ret
17位 0

F1

所属チーム # ランキング 獲得ポイント 決勝最高位・回数 表彰台回数 予選最高位・回数
2005年 ミナルディ 21 19位 4 5位・1回 0回 13位・1回
2006年 MF1レーシング 19 21位 0 10位・1回 0回 14位・1回
2007年 スパイカー 21 24位 0 14位・2回 0回 20位・2回

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:-

テンプレート:ミナルディ テンプレート:MF1レーシング テンプレート:スパイカーF1 テンプレート:ケータハムF1