オトラル

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オトラル (Otrar) は、中央アジアの歴史的都市遺跡。スィル川中流の右岸、支流アリス川との合流点近く(現カザフスタン領南部)に位置する。

13世紀モンゴル帝国により攻略され、徹底的な破壊を受けた。その後復興して数百年にわたって栄えたが、のちに衰亡し、現在は内城の廃墟が残るのみである。

歴史

オトラルは、1世紀から2世紀頃に集落が形成され始め、城壁に囲まれた広大な市域と、郊外の灌漑農地からなる典型的な中央アジアのオアシス都市であった。

12世紀にカラキタイ(西遼)の支配下に組み入れられた。ホラズム・シャー朝アラーウッディーン・ムハンマドがカラキタイを破りスィル川方面まで勢力を拡大すると、1210年にホラズム・シャー朝によって征服され、母の一族であるテンプレート:仮リンク出身のイナルチュクを総督とした。同じ頃、モンゴル帝国のチンギス・ハーンがカラキタイの旧領を併合し、オトラルはモンゴルとホラズム・シャー朝の国境の最前線となる。

モンゴル帝国とホラズム・シャー朝ははじめ誼を通じたが、1218年、モンゴル帝国が派遣した通商使節団がオトラルに至ったとき、オトラルの総督イナルチュクはこれを中央アジアの情勢偵察を目的とする密偵と断定し、アラーウッディーンの許可のもとに通商団のムスリム(イスラム教徒)商人450人を殺害して商品を略奪する事件が起こった (オトラル事件) 。この報を受けたチンギス・ハーンは報復を目的として1219年にホラズム・シャー朝への侵攻を開始し、緒戦においてオトラルはチンギスの次男チャガタイが率いるモンゴル軍の包囲を受けた。

モンゴル軍のほかの部隊はオトラルを包囲したままスィル川を越えてトゥーラーン(現在のウズベキスタンなど)に入りサマルカンドなどの諸都市を攻撃したためオトラルは前線で孤立し、半年近くに渡った包囲の末に食料の不足から戦意を喪失し、モンゴル軍に降伏した。住民は捕虜として城外に引き出され、堀と城壁が破壊されて、市内には火が放たれた。遠征のきっかけをつくった総督イナルチュクはチンギス・ハーンの面前に引き出され、目に溶かした銀を流し込まれて殺された。

その後、都市はモンゴル帝国のもとである程度復興し、14世紀のジョチ・ウルスチャガタイ・ハン国の間での争奪を経てティムール朝の支配下に入った。1405年、キタイの国(中国)に遠征するために大軍を率いてサマルカンドを発ったティムールが、オトラルを通過しているときに病死している。

その後、オアシスの水源が枯渇して放棄され、廃墟となった。mzn:فاراب (کوثر)