インターフルーク

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ファイル:Interflug Ilyushin Il-62 Bidini.jpg
インターフルークのIl-62M

インターフルーク(テンプレート:Lang-de,Gesellschaft für internationalen Flugverkehr m.b.H.[1])は、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)の国営航空会社1958年9月創立。当初はチャーター便専門の航空会社であったが、1963年に東ドイツのルフトハンザドイツ航空が解散したのに伴って国営航空会社に昇格した。1991年東西ドイツ統一に伴い営業を終了した。

概要

成り立ち

ファイル:Bundesarchiv DH 2 Bild-F-04180, Berlin-Schönefeld, Flughafenbau, Il14.jpg
シェーネフェルト空港のイリューシンIL-14(1961年)

当初、東ドイツは1955年に再建した国営航空部門をDeutsche Lufthansaドイチェ・ルフトハンザ)と名乗って[2]おり、西ドイツルフトハンザドイツ航空と同じのロゴマークを描いたIl-14を用いて国内線および東欧諸国への国際線を運行していた。しかし、同名の航空会社が既に存在していた西ドイツに反対された。これを受ける形で1963年に国営航空会社部門をインターフルークに移管し、東ドイツのルフトハンザ航空は解散し、インターフルークが東ドイツのフラッグ・キャリアとなった。

インターフルークは、当時、東ベルリンにあったシェーネフェルト空港を拠点に、イリューシンIl-62ツポレフTu-134といったソ連製の航空機を使って営業していた。

終焉

冷戦終結後の1989年にはエアバスA310型を3機導入したが、1990年ドイツ再統一後まもなくインターフルークはその存在意義を失い、1991年4月3日に営業を終了し解散した。インターフルークの就航路線や乗務員などは西ドイツ側のルフトハンザドイツ航空に引き継がれ、ソ連製の航空機はロシアアエロフロートに、エアバス機とTu-154の一部はドイツ空軍に譲渡された。

ドイツ統一後は、DHC-8などの小型機を用いたコミューター航空会社として、会社の延命をはかったが、解散を回避することは出来なかった。

事業内容

インターフルークは、以下の5つの部門[3]で民間航空事業を行っていた。中国民用航空局の様に、航空会社としての機能と航空行政としての機能を併せ持っていた。

  • コマーシャル・フライト部門(旅客サービス)
  • 農業フライト部門(農薬散布など)
  • 空港部門(空港の運営、グランドハンドリングなど)
  • ATC部門(航空管制
  • エアリアル・サーベイ部門(航空写真撮影など)

就航地

ファイル:Interflug foreign flight connections 1973.svg
1973年のインターフルーク国際線路線網

おもに東欧やソ連圏を就航したが、他にも、キューバ中華人民共和国アフリカ社会主義政権の国家にも就航していた。1980年代の終わりには東南アジアにも就航した。また、ライプツィヒエアフルトなどへの国内線があった。ほかにチャーター便として日本などにも飛来することがあった。

1987年版の時刻表には、ライプツィヒ見本市が開催される際には、フランクフルトミュンヘンシュトゥットガルトハンブルクデュッセルドルフなどの西ドイツ諸都市へのチャーター便が運行される旨の記述があった。また、コードシェアを行なっていたわけではないが、自社路線と併せて、アエロフロートの東ドイツ路線の時刻も掲載されていた。

運行した機体

保有する航空機のほぼ全てがソ連製だった。1960年代には自国でジェット旅客機・バーデ 152を製造して就航させようとしたが失敗に終わっている。1980年代末の東西ドイツ統一直前にA310、DHC−8といった西側の機材を受領し、短期間運行した。Tu-154は受領から解散までの期間が短かったため、ほとんど運行されることなく終わった。

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

テンプレート:Commons category

  • 直訳すると「国際航空輸送会社」
  • 月刊エアライン 2006年6月号 106~107ページ 『歴史を創ったエアライン』第6回より。
  • 同上。