アンドレ・ヴェイユ

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テンプレート:Infobox Scientist アンドレ・ヴェイユAndré Weil, 1906年5月6日 - 1998年8月6日)はフランス数学者である。20世紀を代表する数学者の一人。思想家のシモーヌ・ヴェイユは彼の妹。

略歴

パリに生まれ育ち、エコール・ノルマルを卒業[1]。1928年の学位論文では既にモーデル・ヴェイユの定理を含むものであった。インドの大学で教授となり、その際に、インド哲学を学んだ。フランスに戻り、ストラスブール大学の教授となった[1]。このときの同僚にアンリ・カルタンがおり[1]、これがきっかけで学生時代の友人たちとブルバキを結成する[1]。ブルバキとはヴェイユとカルタンの友人らによって結成された数学者集団であり、数学全体を再構成するべく数学原論という膨大な著作が刊行され、これは20世紀数学に強い影響を与えることとなる[1]。兵役拒否など戦争中の体験から無実の罪で処刑されそうになるが[2]、初代フィールズ賞受賞者であるアールフォルスに助けられ1941年にアメリカに亡命し[3]、最初は米軍の学校で教えていたが学生のレベルが低かったため[4]退職してブラジルへ再移住し[2]サンパウロ大学教授に就任[2]。以後、南米とブルバキを中心とするフランスの数学者はいくらかの関係を持つこととなる[2]。1944年にパリが開放されると、1945年6月20日に帰仏[5]し、1947年に再び渡米し、シカゴ大学(1947年-1958年)、プリンストン高等研究所(1958年-1976年)などで研究生活を送った。

年表

業績

数論代数幾何学に大きな業績を残した。ヴェイユ予想は数論と代数幾何学の深いつながりについて予想したもので、リーマン仮説の類似の一つであるが、その後のセールグロタンディークの活躍につながるものである。またヴェイユ予想の解決は20世紀の数学の大きな出来事でもあった。

彼はブルバキの中心的なメンバーであった。ヨーロッパの多くの言語に通じていて、サンスクリットバガヴァッド・ギーターは彼の愛読書だった。空集合の記号 Ø も彼の考え出したものだが、これはノルウェー語のアルファベットの一つである[6]。数学史に関する造詣も非常に深く[1]、その一端はブルバキの『数学史』からもうかがい知ることができる(ブルバキに数学史を載せることは彼の発案で始まった)[7]。またブルバキの数学史に関する記述は大半がヴェイユとデュドネによるものともいわれ、単著でも数学史に関する著作も多い[1]

主著は『代数幾何学の基礎』、『アーベル多様体と代数曲線』、『代数曲線とそれに関する多様体』。この他に、自伝や数学史の著作もある。

ヴェイユと日本人数学者

シカゴ大時代、ヴェイユは小平邦彦岩澤健吉らの訪問及び手紙のやり取りを通じて日本人数学者達と次第に親密な関係を結んでいった。その中の一人、中山正(元名古屋大教授)に対しては「中山は1951年に、私の命ではないが名誉を救ってくれた」と述べている。それは日本の数学者達の求めに応じて高木貞治記念号への寄稿予定であった類体論に関する証明に対してのことである。当時アーバナにいた中山はヴェイユの証明中に誤りを見出し、既に東京に送られていたヴェイユ原稿の刊行前での改正に大きく貢献した。それらもあり、ヴェイユは日本での数論のシンポジウムへの招待に対して「とりわけ嬉しく思った」としている。結果も、「見事で楽しくまた実り多い会議」と述べている。その中で、志村五郎谷山豊の虚数乗法理論のアーベル多様体への拡張へのアイデアがヴェイユと共通しており、かつ三者で補い合う関係にあった為に、自身の新しいものとばかり信じていたヴェイユを大いに驚かせている。

谷山豊によるヴェイユ評

谷山・志村の定理の発案者でもある日本の数学者、谷山豊はヴェイユを評して「歯に衣を着せない」、「その批判は辛辣である」、「温厚な大先生方には余り評判は宜しくない」とする一方で「それを一概に排斥しないだけの自由な空気がなかったならば、数学は窒息してしまったであろう」としている。そしてヴェイユの大胆な推測、ハッタリではないかと思われかねない発言に対し「凡眼を以って、天才の思想を云々するのは危険であろう」と記している。谷山はヴェイユの才能を第一はclassicな理論の中から本質を鋭く見抜き、何が、如何に抽象化され一般化されるべきかを問う能力、第二に、それを実行に移す際に山積する障害に対し、挫折したり迂回路を取ることなく、障害を一つ一つ強引に捩じ伏せる腕力と息の長さであると評し、「奇麗事が好きで腕力の弱い我が国の多くの数学者」に対する頂門の一針であるとした。

エピソード

同時代の数学者・数理物理学者ヘルマン・ワイル(Hermann Weyl)と名前が似ていることから、「後世の数学史家は、私と彼が同一人物なのかをめぐって激しい議論をすることになるだろう」と冗談を言っている。

ヴェイユは応用数学(同時代的には、数学と物理学の組み合わせは一種の花形であった)には興味が無いとしていた。しかし、人文科学者を含めて交友はあり、友人の人類学者であるレヴィ・ストロースからのオーストラリア北端のムルンギン族の婚姻制度の組合せ問題の解決依頼に対して協力している。ヴェイユはこの問題を、婚姻のかたちを二つの元が生成するアーベル群に抽象化して整理できると見抜き解決した。この件により「ムルンギン族に対しある種の愛情を感じるようになった」と後に認めている。

ヴェイユはブルバキの初期メンバーで有名だが、彼自身そのことを非常に誇らしく思っており、娘の名前もニコラ・ブルバキからとってNicoletteと名付けるほどであった[8]

数学は少数の天才によって進歩するのであって、2流以下の数学者たちは共鳴箱にすぎないとも言っている[9]

著作

単著

論文集

参考文献

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 日本数学会編、『岩波数学辞典 第4版』、岩波書店、2007年、項目「ヴェイユ」より。ISBN 978-4-00-080309-0 C3541
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 ヴェイユ(1994)ヴェイユ(2004a)ヴェイユ(2004b)ヴェイユ(2004c)ヴェイユ(2004e)
  3. 1941年3月3日にニューヨークに到着した。ヴェイユ(2004b)、135頁
  4. ヴェイユのような高名な数学者が教えるにはあまりレベルの高くない学校であり、解法中心の授業であったがつい高等数学の定理を教えてしまい、それは試験に出るのかと質問されたことがあると自伝にある。ヴェイユ(2004b)、141-142頁
  5. ヴェイユ(2004b)、155頁
  6. Earliest Uses of Symbols of Set Theory and Logic の2010-09-01版(2010-10-29閲覧)に、彼の自伝にそう記してある旨の記述が見える。ヴェイユ(2004b)、36頁によると以下の通りである。 テンプレート:Quotation
  7. 日本語訳はブルバキ(2006a)ブルバキ(2006b)などがある。
  8. J.ファング 『ブルバキの思想』 森毅監訳、河村勝久訳、東京図書、1975年。
  9. 倉田令二朗、『数学の天才と悪魔たち ノイマン・ゲーデル・ヴェイユ』、河合文化教育研究所、河合ブックレット9、1987年、52頁。ISBN 4-87999-908-3

関連項目

外部リンク

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