アラン・ジョーンズ

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テンプレート:Infobox アラン・ジョーンズAlan Jones MBE, 1946年11月2日 - )はオーストラリア生まれのレーシングドライバー。1980年F1ワールドチャンピオンである。

プロフィール

父親のスタン・ジョーンズはレーサーとしてオーストラリア国内で活躍しており、その影響でレースを始める。1970年にイギリスに渡り、イギリスF3選手権では1973年にシリーズ3位を獲得。フォーミュラ・アトランティックF5000にも参戦した。

1975年のスペインGPヘスケスからF1デビューを果たす。その後ヒルに移籍し、ドイツGPで5位初入賞する。

ファイル:Alan J 4b.jpg
サーティース時代のジョーンズ(1976年)
ファイル:Jones at 1979 Dutch Grand Prix.jpg
ウィリアムズ・FW07を駆るジョーンズ(1979年オランダGP)

翌1976年はサーティースからほぼフル参戦し、数度の入賞を記録した。1977年には南アフリカGPで事故死したトム・プライスの後任としてシャドウから参戦すると、オーストリアGPで予選14位からの逆転で初優勝を果たした。

この活躍により、1978年にはウィリアムズで初めて開幕戦からのレギュラーシートを獲得。同年にはカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ (Can-AM) でシリーズチャンピオンを獲得した。

1979年は、ウィリアムズで4勝を記録し、シリーズランキング3位。それまで「弱小」チームとされていたウィリアムズが一気に開花するのと重なるように、ジョーンズも一躍タイトルコンテンダーに名を連ねることとなった。

1980年には5回の優勝を果たし、ブラバムネルソン・ピケとの一騎打ちを制して初のワールドチャンピオンを獲得した。テンプレート:F1テンプレート:F1テンプレート:F1にチャンピオンを獲得したジャック・ブラバムに続いて、オーストラリア人としては2人目のチャンピオンであった。

1981年もチャンピオン争いに加わったが、ブラジルGPチームオーダー破りを巡ってチームメイトのカルロス・ロイテマンとの関係が悪化。互いにポイントを奪い合うようになってしまい、結果ピケに僅差で敗れてしまった。ジョーンズはこの年限りでF1界から引退することを宣言し、最終戦ラスベガスGPを勝利すると故郷オーストラリアに戻った。

1982年はオーストラリア国内のGT選手権でチャンピオンを獲得。1983年にはアロウズより1戦のみF1に復帰。この年よりスポーツカー世界選手権ル・マン24時間レースにスポット参戦する。

ファイル:Alan Jones (racecar driver).jpg
アラン・ジョーンズ(2007年のA1グランプリにて)

1985年はCARTニューマン・ハース・レーシングよりスポット参戦し、最高3位を獲得。チームオーナーのカール・ハースが立ち上げたチーム・ハースに参画する形で、F1への本格復帰を果たした。しかし、この時のドライビングに往年の腕も体力もなく、結局目立った成績を残すまでには至らず、1986年をもってF1から引退することとなった。最後のF1レースとなったのは地元オーストラリアGPだった。

その後もオーストラリア国内のツーリングカー選手権を中心に長く現役活動を続ける。1987年には日本の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権 (JSPC) と全日本ツーリングカー選手権 (JTC) にスポット参戦し、JSPCではトヨタ・87Cの初優勝、JTCではトヨタ・スープラグループA)のデビューウィンを飾った。

2002年にV8スーパーカーにスポット参戦したのち現役を引退。2005年にはグランプリマスターズに出場予定だったが、首の痛みを理由に欠場した。その後はA1グランプリにてオーストラリアチームの監督を務めた。また、国際自動車連盟 (FIA) の要請でF1のレーススチュワード(審議委員)を何戦か務めている。

息子のクリスチャン・ジョーンズも、2004年にアジアF3チャンピオンを獲得し、2005-2006シーズンはA1GPオーストラリアチームに所属するなど、レーシングドライバーとして活躍している。 テンプレート:-

エピソード

  • ウィリアムズではチームオーナーのフランク・ウィリアムズ、チーフデザイナーのパトリック・ヘッドと信頼関係を築き、チームの躍進に大きく貢献した。「精神的にタフで、頑なに勝負にこだわる」というジョーンズの姿勢は、ウィリアムズチームにおけるドライバーの理想像となった。ジョーンズの後釜としてウィリアムズに加入し、1982年のチャンピオンとなったケケ・ロズベルグは「どうしてアランのようにできないのだ?」と文句ばかり言われたという[1]
  • 1977年オーストリアGPで初優勝した際には生きたブタが賞品として手渡された。朴訥な風貌でブタを抱く姿が似合っており、笑いを誘った。
  • F1引退の理由に思い切りビールが飲める生活をしたかったと答えている。
  • 以前オーストラリアグランプリが開催されていたアデレード市街地コースでは、バックストレート手前の区間が「ジョーンズ・ストレート」と呼ばれた。現在開催しているアルバート・パーク・サーキットには、1コーナー付近に「ジョーンズ・スタンド」という観客席がある。
  • 日本人F1ドライバーの小林可夢偉を高く評価している[2]

F1での年度別成績

所属チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1975年 ヘスケス 308B ARG
BRA
RSA
ESP
Ret
MON
Ret
BEL
Ret
SWE
11
17位 2
ヒル GH1 NED
13
FRA
16
GBR
10
GER
5
AUT
ITA
USA
1976年 サーティース TS19 BRA
RSA
USW
NC
ESP
9
BEL
5
MON
Ret
SWE
13
FRA
Ret
GBR
5
GER
10
AUT
Ret
NED
8
ITA
12
CAN
16
USA
8
JPN
4
15位 7
1977年 シャドウ DN8 ARG
BRA
RSA
USW
Ret
ESP
Ret
MON
6
BEL
5
SWE
17
FRA
Ret
GBR
7
GER
Ret
AUT
1
NED
Ret
ITA
3
USA
Ret
CAN
4
JPN
4
7位 22
1978年 ウィリアムズ FW06 ARG
Ret
BRA
11
RSA
4
USW
7
MON
Ret
BEL
10
ESP
8
SWE
Ret
FRA
5
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
13
USA
2
CAN
9
11位 11
1979年 ARG
9
BRA
Ret
RSA
Ret
USW
3
3位 40 (43)
FW07 ESP
Ret
BEL
Ret
MON
Ret
FRA
4
GBR
Ret
GER
1
AUT
1
NED
1
ITA
9
CAN
1
USE
Ret
1980年 FW07B ARG
1
BRA
3
RSA
Ret
USW
Ret
BEL
2
MON
Ret
FRA
1
GBR
1
GER
3
AUT
2
NED
11
ITA
2
CAN
1
USA
1
1位 67 (71)
1981年 FW07C USW
1
BRA
2
ARG
4
SMR
12
BEL
Ret
MON
2
ESP
7
FRA
17
GBR
Ret
GER
11
AUT
4
NED
3
ITA
2
CAN
Ret
CPL
1
3位 46
1983年 アロウズ A6 BRA
USW
Ret
FRA
SMR
MON
BEL
DET
CAN
GBR
GER
AUT
NED
ITA
EUR
RSA
33位
(NC)
0
1985年 ハース ローラ THL-1 BRA
POR
SMR
MON
CAN
DET
FRA
GBR
GER
AUT
NED
ITA
Ret
BEL
EUR
Ret
RSA
DNS
AUS
Ret
35位
(NC)
0
1986年 BRA
Ret
ESP
Ret
12位 4
ローラ THL-2 SMR
Ret
MON
Ret
BEL
11
CAN
10
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
9
HUN
Ret
AUT
4
ITA
6
POR
Ret
MEX
Ret
AUS
Ret

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

先代:
ジョディー・シェクター
F1ドライバーズチャンピオン
1980年
次代:
ネルソン・ピケ

テンプレート:F1ドライバーズチャンピオン テンプレート:Can-Am歴代チャンピオン テンプレート:サーティース テンプレート:シャドウ テンプレート:ウィリアムズ テンプレート:アロウズ

  1. 『F1レーシング日本版 2005年11月情報号』 イデア、2005年、p97。
  2. テンプレート:Citenews