ジョシュア・ノートン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アメリカ合衆国皇帝から転送)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 人物

ジョシュア・エイブラハム・ノートン(Joshua Abraham Norton、1819年? - 1880年1月8日)は19世紀アメリカに実在した王位僭称者

自身を皇帝ノートン1世(Emperor Norton I)と称し[1]、更には当時アメリカと敵対状態にあったメキシコ保護者として帝位請求を行った[2]

概要

イギリス生まれのイングランド人で、南アフリカで幼少期を過ごした資産家の子息であった。彼は1849年にサンフランシスコに邸宅を購入してアメリカに移り住み、父親から受け継いだ遺産4万ドルを運用して一財を作った。成功した実業家として裕福な生活を送っていたが、ペルー投機に失敗して破産した事を契機に正気を失ったとされている[3]

彼の行為は打算や野心ではなく、狂気に陥った事によるものだと考えられるが[4]、彼の皇帝として要求した内容は温和なものであり、実際に先進的で価値のある発想が多く含まれていた。特にサンフランシスコにかかる大橋とトンネルの建設というアイデアは後に実現されている(サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジトランスベイ・チューブ[5]

当時全くの無名で前歴も不明であった人物の大胆な帝位請求は真剣にこそ受け取られなかったが、次第にサンフランシスコの市民達の間で知られた存在となっていった。多くの人は君主制には賛同しなかったが「皇帝勅令」に親しみ、温和で平和的な人格から市民にとって愛すべき著名人として敬愛された。晩年には本当にノートンが王族の落胤や末裔なのではないかと考えるものも現れるほどで、市民による葬儀には3万名の群集が詰め掛けた[6]

青少年期

ノートンの出生地はイングランドであるという事以外、明確な証明を持たない。様々な論者がテルフォードなど彼の出身地と考えられる場所に言及しているが、資料によって異なる見解が示されている。同様に生年月日も明確な記録はなく、サンフランシスコの新聞『サンフランシスコ・クロニクル』に掲載された彼の追悼文では「彼の生年に関する最も頼りになる情報は、棺に付いていた銀のプレートにおよそ65歳没と刻まれていたことのみである」としている[7]。その場合、彼は1814年生まれという事になるが、1819年2月4日にロンドンで生まれたとする記録も残っている[8]

幼少期を南アフリカのイギリス植民地で過ごした事は先述したが、移住時の滞在許可証には1818年生まれと書かれている[9]。またこの登録によれば父はジョン・ノートン、母はサラ・ノートンと記録されている[10]。サラは裕福なユダヤ商人エイブラハム・ノーデンの娘であった[8]。1849年に父親から4万ドル相当の資産を受け継ぎ、アメリカ西海岸のサンフランシスコに移住して不動産への投資を始めた[6]。彼の事業は目覚しい成功を収め、1850年代前半には総資産は5倍以上の25万ドルにまで膨れ上がっていた[6][8]

1850年代中国が飢饉のための輸出を禁止した為にサンフランシスコの米価格は1キロ当たり9セントから79セントまで高騰した[6]。これを商機と見た彼はペルーから輸入途中にあった20万ポンドの米を1キロにつき12セントで全て買占め、値段を更に吊り上げて売りさばく準備を整えた[6]。これが成功していれば巨万の富が流れ込んでいた筈であったが、不幸にも商品を売り抜ける前に他の輸入米がサンフランシスコに輸出され、米の値段は3セントにまで暴落してしまった[6]。ノートンは諦めずに米商人に対して事前の予測に対する責任を求め、契約破棄を要求した[6]。1853年から1857年の4年間にわたって米商人への訴訟と裁判が行われ、カリフォルニア最高裁判所にまで持ち込まれた裁判はノートンの敗訴であった.[11]。負債と裁判費用で全資産を失い、不動産の殆ども競売に出されたノートンは1858年に破産宣告を出した[6]

この一件でノートンは邸宅を去って行方不明になり、次第に正気を失ったものと考えられている[5]

合衆国皇帝

帝位請求の開始

ファイル:Norton-9.jpg
新聞に掲載された皇帝宣言についての記事。異様な人物による愉快犯として扱われている。

失踪してから一年後、後年の彼が述べるところの「自発的亡命」を終えてサンフランシスコに舞い戻ったノートンは唐突な行動を起こした。彼は合衆国の政治体制(共和制連邦主義)に著しい不備があると考え、それを絶対君主制の導入によって解決するという不可思議な信念に囚われていた。そして彼は自らがその旗印として帝位請求者にならんと決意したのである。

1859年9月17日、彼はサンフランシスコの新聞各社に手紙を送り、下記のように「合衆国皇帝」たることを宣言した。即位宣言は悪戯として正当な扱いを受けなかったが、声明を受け取った新聞社の一つであるサンフランシスコ・コール紙がジョークとして皇帝宣言を掲載した新聞を発行した[12]。かくして現在まで語り継がれる、21年間にわたる「帝都サンフランシスコ」を拠点にした合衆国皇帝ノートン1世の帝位請求が始められたのである。

テンプレート:Quotation

後にノートン1世は請求称号に「メキシコの保護者」を追加した。

皇帝勅令

ノートン1世は主にサンフランシスコの日刊紙上に数多くの国事に関する「勅令」を投書として送りつけ、これを帝位請求における主要な活動とした。

「絶対君主制に移行したアメリカ合衆国においては皇帝による親政が行われる必要があり、議会制度は廃止されるべきである」として、ノートン1世は1859年10月12日をもってアメリカ合衆国議会の解散を命令した。

テンプレート:Quotation

彼が特に強調したのは議会制への嫌悪感であり、「関心を持つ民衆は罪悪を克服するため、サンフランシスコのプラッツ音楽堂に1860年2月に集合すること」を求めている[13]

この勅令は「謀反を起こした」ワシントン政治家たちによって黙殺された。もっと厳しい措置が必要と考えたノートン1世は1860年1月、新たな皇帝勅令を発して帝国軍に反乱者を一掃するよう命じた。

テンプレート:Quotation

しかし帝国陸軍は皇帝勅令を拒否して従わず議会を支援し、実務は議会に委ねられ続けた。ノートン1世の治世は共和制と立憲君主制による議会統治の双方を否定し、彼ら帝国の不忠者達と対峙する事に費やされた。1860年には連邦制の廃止と結社の禁止を勅令により宣言した[13]。 議会主義者達との戦いは皇帝の支配期間を通じて止むことがなかった。皇帝は嫌々ながらではあるものの、次第に議会の活動継続を許すようになっていった。しかし不服従な議会の挑戦を受けていつもくすぶっているこの対立に対する皇帝ノートン1世の対抗手段は先鋭化していった。1869年8月4日ノートンは皇帝勅令によって無造作に民主共和両党を廃止した。

ノートン1世は南北戦争の時期、合衆国国民の間で起こった多くの醜い争いを解決することを希望して、1862年にはプロテスタントとカトリックの全教会に対し彼を皇帝に任命するよう命令した。また、皇帝の御座所であるサンフランシスコを「フリスコ」と略して呼ぶことは敬意の欠如を表しているとしてノートン1世は以下のような憂慮を示す勅書を発した。 テンプレート:Quotation

ノートンの精神状態

皇帝の勅令を調べることで、ノートンの精神状態を推測しようとするいくつかの試みがあったが、彼は統合失調症であったと考えられている。この精神状態にはしばしば誇大妄想が観察されるためである。また、ノートンは破産後、状態に陥り、架空の世界における生活を通じてそれを乗り越えたと考えることもできる。彼の行動は双極性障害の躁状態によく当てはまる。しかし、彼が医学的に完全に健康であったと考えることもまた不可能ではない。

彼の奇矯な振る舞いにも拘らず、また実際の精神状態とも無関係に、忘れてはならないのは皇帝ノートン1世が時として予見的発想を示しており皇帝勅令は少なからず彼の視野の広さを示しているということである。国際連盟の設立を命じたり宗教・宗派間の紛争を禁じたりする指示にそれが表れている。さらには、皇帝はしばしばオークランドとサンフランシスコを結ぶ懸架式橋梁の建設を命じており、後の発言には当局がその命令に不服従であることに対する苛立ちが強く示されている。 テンプレート:Quotation

彼の度重なる命令にも拘らず、架橋はずっと後になって実行された。サンフランシスコとオークランドを結ぶサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの建設は彼の死後、実に55年経た1933年に始まり1936年にようやく完成した。

皇帝としての生活

執務

プレシディオ陸軍駐屯地の将校から譲られた金モール付きの青い凝った軍服をまとい、ビーバーの皮製シルクハットに羽飾りを挿し、勲章をつけて、ノートンは彼の支配下にあるサンフランシスコの街路を頻繁に視察に訪れた。好んで携えたステッキなどを装っていたが、サンフランシスコの街路を巡りながら彼は歩道やケーブルカーの状態、公共施設の修理の進行状況や、警官の振る舞いや身だしなみに気を配った。彼は個人的に彼の臣民のことを気にかけ、さまざまなテーマについて哲学的な談義を長々と垂れるのを好んだ。

サンフランシスコでは1860年代から70年代にかけて、低賃金で働いて雇用を奪う中国系住民に対する白人市民デモが市内の最も貧しい地域でしばしば行われたが、それらはいたるところで流血の事態に発展した。ある時このようなデモのひとつに皇帝ノートン1世が居合わせ、暴徒たちとリンチを受けそうになっている中国系住民たちの間に立っていた。彼は頭を垂れ、何度も主の祈りを口ずさんでいたが、それを聞いた暴徒たちは恥じて解散してしまったと言われている。

警官アーマンド・バービアによる大逆罪

1867年、アーマンド・バービアという警官がノートンを捕え、彼の意に反して精神病の治療を受けさせようとした時、騒動が持ち上がった。この逮捕はサンフランシスコの市民と新聞による強い抗議を引き起こしたのである。警察署長パトリック・クロウリーはすぐに対応し、ノートンを釈放して警察として公式に謝罪した。ノートンは寛大にもこの若い警官バービアによる大逆罪に特赦を下した。この騒動以降、警官たちは通りで皇帝に会った時は敬礼するようになった。

人々の尊敬

ファイル:Lazarus2.jpg
雑種犬ラザルスの葬儀を教皇の姿で執り行うノートン1世

大衆は公然と皇帝ノートンを敬愛していた。ほとんど金を持たなかったにも拘らず彼はしばしば最上級のレストラン食事をとり、そこのオーナーは「合衆国皇帝ノートン1世陛下御用達」と刻んだブロンズのプレートをレストランの玄関に飾った。皇帝はこのような見栄を張ることを許しており、このプレートは実際にレストランの売り上げに寄与したという人もいる。サン・フランシスコの音楽堂と劇場では、皇帝が二匹のお供の雑種ラザルスとブマーを連れて貴賓席に現れるまで幕を開けることはなかった。皇帝の来臨がアナウンスされると観客の全員が起立して皇帝を迎えた。1863年、このラザルスが消防車に轢かれて死んだ時には当局によって服喪期間が設定された。ブマーが死んだ時、マーク・トウェインはその墓碑銘として「年月を重ね、名誉を重ね、病を重ね、そしてシラミを重ねた」と書いた。 セントラルパシフィック鉄道食堂車で食事をした皇帝に支払いを請求したために不興を買い、勅令によって営業停止命令を受けた。多くの市民が皇帝を支持し、反響に驚いた鉄道会社は皇帝に金色の終身無料パスを奉呈して謝罪した。

ノートン1世の地位には実際に公式な承認の細かい記録がある。1870年国勢調査はその統計表において彼を、「ジョシュア・ノートン、住所;コマーシャル・ストリート624番地、職業:皇帝」と記している。彼はまた小額の負債の支払いのために独自の紙幣を発行しており、それは地域経済において完全に承認されていた。この紙幣は50セントから5ドルまでの額面で発行されていたが、今日のオークションではその希少価値のため1000ドルを超える値が付いている。

サンフランシスコ市はその「権力者」に名誉を与え敬意を表した。その軍服が古びてくると市当局は盛大な儀式とともに新品を買うのに足りる分を支出した。その見返りに皇帝は感状を送り、終身貴族特許状を発行した。

晩年

ファイル:Nort10d.jpg
ノートン1世の帝国政府発行の10ドル国債

皇帝の治世の後期において彼はしばしば色々なうわさや憶測の的になった。よくささやかれたうわさの一つに彼は本当はナポレオン3世の子で、表向き南アフリカ出身と言うことになっているのは追及をかわすためだ、というものがある。別のうわさでは皇帝ノートンはヴィクトリア女王結婚しようとしているというものがあったが、皇帝は女王と幾度か手紙を交わしたことがあって、それによって彼女に忠告を与えていたのである。最後に、ノートンは本当は大金持ちだが貧民に対する同情の念から貧しさを装っている、といううわさもあった。

これらのうわさに加えて、いくつかの偽勅令が新聞に掲載されたことがあった。これらの新聞の編集者たちは、少なくともいくつかの勅令をそれらしい内容で偽造したのではないかと疑われている。サンフランシスコ市立博物館は本物だと証明された全ての皇帝勅令のリストを所蔵している。

皇帝の死

1880年1月8日の晩、ノートン1世は科学アカデミーでの講演に向かう途中で倒れた。警官が大急ぎで馬車に救援を要請し病院に運んだが、馬車が病院に着く前に息を引き取った。

翌日『サンフランシスコ・クロニクル』は「Le Roi Est Mort(王は逝けり)」というフランス語の見出しで一面に追悼文を載せた。記事の雰囲気は悲しみと敬意にあふれたものだった。「みすぼらしい敷石の上で、のない暗い夜、しのつくの中で…の恩寵篤き合衆国皇帝にしてメキシコの庇護者ノートン1世陛下が崩御された」。サンフランシスコのもう一つの主要紙『モーニング・コール』はほとんど同じ見出しで社説に「神の恩寵篤き合衆国皇帝にしてメキシコの保護者ノートン1世陛下が崩御」と掲載した。皇帝崩御は遠く州外にまで報じられ、『ニューヨーク・タイムス』は「彼は誰も殺さず、誰からも奪わず、誰も追放しなかった。彼と同じ称号を持つ人物で、この点で彼に立ち勝る者は1人もいない」と評する追悼記事を掲載した。

ノートン1世は貧窮の中で没した。死去した際の彼の持ち物は、持っていた5~6ドルの現金とコマーシャル・ストリートの下宿の部屋の捜索で見つかった2.5ドルの他は、散歩用ステッキのコレクション、ヴィクトリア女王と交わした書簡、1,098,235株の無価値な金山株式だけだった。

ノートン1世が残したものでは貧民墓地への埋葬がやっとなのは明らかだったので、ビジネスマンたちの集まり、パシフィック・クラブは荘厳な葬儀を営むための資金集めを始め、最後には大規模で厳粛・荘厳な葬送の式典ができるだけの資金が集まった。「…全ての階層の人々が皇帝に敬意を表した。資本家から貧民まで、商店主から泥棒まで、身なりのよいご婦人から卑しい出自だと見た目でわかる者たちまで」と誰もが皇帝との別れを惜しんだ。3万の人々が棺が墓地に運ばれた時に垣をなし、棺に続く葬列は2マイルに及んだといくつかの記録に残されている。ノートン1世は最初、サンフランシスコのフリーメーソン墓地に葬られた。

1934年、ノートン1世の遺骨は改葬され、彼は今カリフォルニア州コルマのウッドローン墓地に埋葬されている。墓石には「ノートン1世、合衆国皇帝、メキシコの庇護者」と刻まれている。1980年にサンフランシスコではノートン1世の死後100年を記念するいくつもの式典が開かれた。

皇帝ノートン1世の今

今のところ最新の皇帝勅令

ノートン1世の物語についての目立つものの奇妙にぴったりした脚注は、1990年に「霊媒」を通じて発せられた今のところ最新の皇帝勅令である。それ以来ノートン1世の帝国はUsenetの世界にまで広がっている。 テンプレート:Quotation

文学におけるノートン1世

ノートンの物語はニール・ゲイマンによるグラフィックノベルサンドマン』のエピソードの一つ「三度の九月と一度の一月(Three Septembers and a January)」に登場する。この物語はシリーズの第六集「The Sandman: Fables and Reflections」に収録されている。

ロバート・シルヴァーバーグの短編小説『真夜中の宮殿』は最終戦争後のカリフォルニア州にあるサンフランシスコの帝国を描いており、そこを統治する皇帝はノートン7世という名前になっている。ノートン皇帝とその愛犬ブマー、ラザルスは、バーバラ・ハンブリーの「スター・トレック」物のオリジナル小説「イシュマエル」の中にもちらりと登場する。クリストファー・ムーアの長編小説『血に飢えた悪霊』には不死とおぼしきノートンが現代のサンフランシスコに現れる。漫画『ラッキー・ルーク』の57巻には「アメリカの皇帝」というタイトルの回があり細部がノートン皇帝に捧げられている。

その他

疑似新興宗教冗談宗教)のディスコルディアではノートンは実在した人間のうちでは最高の霊的段階にある第二位の聖者とされている。聖典「不調和原論(Principia Discordia)」の記述にはサンフランシスコのジョシュア・ノートンに関する標語がある。 テンプレート:Quotation

サンフランシスコのチョコレート会社、ギラデッリは二本のバナナとひとつかみのナッツが入った「ノートン皇帝アイス」を販売している。英語で「バナナ」と「ナッツ」は口語で「頭のおかしい人」という意味になるため、ノートン皇帝の変わった性格と重ねあわせている。

インディーズレーベル「エンペラー・ノートン・レコーズ」もノートンから取られている。一連のややシュールソフトと娯楽用ソフトにも「エンペラー・ノートン・ユーティリティーズ」という名前がついている。この名前はまた、このソフト集「ノートン・ユーティリティーズ」を作ったのがピーター・ノートンだということもついでに思い出させる。

ノートン皇帝は1993年、サンフランシスコで開かれた世界SF大会に貴賓として招かれた。この時彼が現れるために当地の印象深いファンが霊媒を務めている。エンニオ・モリコーネがノートンの人生を描いたオペラもあり、ウェスト・ベイ・オペラ・カンパニーによって1990年秋にサンフランシスコで上演されるなどしている。

出典

  1. テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite book
  3. テンプレート:Cite journal
  4. テンプレート:Cite book
  5. 5.0 5.1 テンプレート:Cite news
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 6.7 テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite news
  8. 8.0 8.1 8.2 テンプレート:Cite journal
  9. テンプレート:Cite book
  10. テンプレート:Cite web
  11. Ruiz v. Norton, 4 Cal. 355 (1854).
  12. テンプレート:Cite news
  13. 13.0 13.1 テンプレート:Cite web

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister テンプレート:Sister

典拠

テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA