アカプルコ

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アカプルコ (Acapulco) は、メキシコ合衆国の太平洋岸のゲレーロ州にあるリゾート都市。正式名称はアカプルコ・デ・フアレス (Acapulco de Juárez)。

概要

リゾート

首都メキシコシティから南西に約300キロの太平洋岸に位置する。人口は60万人強と中規模の街だが、海岸沿いに大規模なリゾートホテルや豪華な別荘が立ち並び、世界中から人口の10倍以上の年間数百万の観光客が訪れる、古くからのリゾートである。

1963年エルヴィス・プレスリーが主演した映画「アカプルコの海 (Fun In Acapulco)」の舞台としても取り上げられ、他にも、その風光明媚な土地柄から多数の映画のロケ地として使用されている。1968年に開催されたメキシコシティオリンピックのヨット競技が、アカプルコで開催された。

貿易港

首都メキシコシティ外港ベラクルスとともに担ってきた爲、太平洋側のメキシコ有数の貿易港としても栄えている。1609年(慶長14年)にフィリピン総督 ドン・ロドリゴ一行が、マニラからアカプルコへ向かう航海中台風に遭い房総半島御宿海岸で遭難し地元民に救出されたことがあり、その後、1613年慶長19年)にはローマへ向かう伊達藩士、支倉常長一行が経由地として訪れるなど、日本とも縁が深い場所で、千葉県御宿町宮城県仙台市姉妹都市である。

歴史

8世紀までに、アカプルコ一帯に小規模な文化が存在していた。一帯は最初オルメカ人によって、スペイン支配の前の期間には他の複数の部族によって支配されていた。アカプルコ湾には、Playa LargaEl Guitarrón として知られている丘の上に、2つのオルメカ人居住地が存在していた。オルメカ人の影響で、小さく散らばっていた村がより大きな集合となり、祭儀の中心地を建設した。後には、テオティワカン影響により、村からクエルナバカチルパンシンゴを経由する道路が建設された。そしてマヤ人の影響が、テワンテペク地峡からオアハカ通じて伝えられた。アカプルコの歴史は、特にPlaya Hornos, Pie de la Cuesta, Tambuco で発見された考古学的な埋葬品から知ることができる。11世紀に、ナワトル人やコイサス人 (Coixas ) の新しい移住者がやって来た。これらの人々は、アステカ人の祖先であった。アカプルコはアウィツォトル王の統治時代の1486年に、正式にアステカ帝国の一部となった。この地は、Tepecuacuilco という名前の属州の一部であったが、ほとんど統治の組織化はされていなかった。

アカプルコ湾がどのようにヨーロッパ人に発見されたかについては、2つの説がある。1つ目は、スペインによる征服の2年後、エルナン・コルテスが金を発見するために遠征隊を送ったと言う説である。1523年以降、遠征隊はこの地域を征圧し、コルテスによってサアベドラ・イ・セロン (Saavedra Cerón ) が一帯に居住区を設立する承認を与えられた。もう一方の説は、サンチアゴ・ゲバラ (Santiago Guevara ) を船長とするエル・タパチェ・サンチアゴ (El Tepache Santiago ) 号という名の小型の船によって、1526年12月13日に発見されたという説である。エンコミエンダ制は1525年最初に近代のアカプルコ自治体の一部であるCacahuatepec で設立した。 1531年、ファン・ロドリゲス・デ・ビジャフエルテ (Juan Rodriguez de Villafuerte ) のような多くのスペイン人がオアハカ海岸を離れ、アカプルコが位置する場所にビジャフエルテの村を設立した。ビジャフエルテは、原住民を征圧することができず、結果としてクアウテペック (Cuautepec ) 地区でヨパ (Yopa ) 反乱が起きた。コルテスは原住民と交渉して譲歩を与えるために、バスコ・ポルケーヨ (Vasco Porcayo ) を送らざるを得なかった。アカプルコ地方はエンコミエンダ制となり、ロドリゲス・デ・ビジャフエルテは税をカカオ、絹、トウモロコシの形で徴収した。

1530年代までに、コルテスはアカプルコを主要港として創設し、1531年までにメキシコシティと港との間の最初の主要道を建設した。マルケスとい名の埠頭が、ブルジャ・ポイントとダイアモンド・ポイントの間に建設された。その後すぐ、この地域に町 (Alcadia ) が造られた。

極東でのスペイン貿易により、アカプルコはヌエバ・エスパーニャ経済において重要な役割を与えられた。1550年までに、アジアからのガレオン船がアカプルコに到着し始め、町がヨーロッパ人移住地の恒久的な基地となるように、その年にスペイン人の30家族がメキシコシティから送られた。フィリピンとの直接貿易により、スペインにとってアカプルコはベラクルスに次いで重要な港となった。貿易は毎年マニラ・ガレオンで集中的に行われた。マニラ・ガレオンがヌエバ・エスパーニャとヨーロッパ、アジアの間でのすべてのやり取りを結びつけた。1573年、アカプルコ港はマニラ貿易の専売権を認められた。

16世紀中頃から19世紀初期の間、マニラ・ガレオンは毎年 行き来した。ヌエバ・エスパーニャに運ばれる豪華な金品は、フランシス・ドレークヘンリー・モーガントーマス・キャヴェンディッシュらのイギリスオランダの海賊の関心を引き付けた。彼らはガレオン船を「黒い船 (The Black Ship )」と呼んだ。港と来る船の積荷を守るため、サンディエゴ城壁が建設された。城壁があるにも関わらず、1615年オランダ船団がアカプルコに侵攻し、立ち去る前に町や城壁の多くを破壊した。1776年に地震により城壁は崩壊し、1783年に再建された。

19世紀の始め、スペイン王カルロス4世がアカプルコの市制 (Ciudad Oficial ) を宣言し、スペイン王にとって必要不可欠な場所となった。しかし直後に、メキシコ独立戦争が勃発した。1810年、ホセ・マリア・モレロ・イ・パボン (José María Morelos y Pavón ) が、忠誠な指揮官であったフランシスコ・パレス (Francisco Parés ) をトレスパロスの戦い (Battle of Tres Palos ) で破った後に、アカプルコを攻撃し、町を焼き払った。1821年のメキシコの独立により、マニラ・ガレオンの往来が途絶えた。19世紀中頃にカリフォルニアで起きたゴールドラッシュの間、パナマからの往来の船がアカプルコに寄航し、港としての重要性が回復した。

交通

空路ではアカプルコ・アルバレス国際空港[1]が玄関となりメキシコシティから約1時間、高速道路を使っていくと約5時間程度の距離にある。日本からの直行便はなく、アエロメヒコ航空や日本航空のメキシコシティやティファナ行きの直行便を乗り換えていくのが一般的である。もしくはアメリカロサンゼルスダラスでの乗換えで行くことも出来る。

気候

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題材にした作品

映画

音楽

治安

アカプルコに限った話ではないが、メキシコ国内では2000年代に入ると麻薬がらみの犯罪や抗争が爆発的に増え、アカプルコにも余波が押し寄せている。2011年1月8日には、ショッピングセンター脇の路上で頭部を切断された15遺体が見つかる事件があり、これも麻薬がらみの犯罪と考えられている[2]

メキシコのシンクタンクが発表している、2012年の主要都市別の殺人事件発生率では、10万人当たり143人となり世界2位を記録している[3]

出身者

脚注

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関連事項

外部リンク

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  • フアン・アルバレス将軍にちなんで名付けられている。IATA空港コードはACA。
  • http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2782038/6649266 メキシコのリゾート地で頭部のない15遺体見つかる(AFP.BB.News.2011年01月10日))
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