阪神タイガースの歌

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

阪神タイガースの歌』(はんしんタイガースのうた)は、日本のプロ野球チーム阪神タイガースの球団歌である。通称は『六甲颪』(ろっこうおろし)である。1936年(昭和11年)に『大阪タイガースの歌』(おおさかタイガースのうた)として作られ、1961年(昭和36年)の球団名変更とともに改題された。作詞佐藤惣之助、作曲古関裕而変イ長調またはト長調(現在ホームゲーム勝利時に流れるものは変ト長調、応援団の演奏は変イ長調)。現存する日本プロ野球球団の球団歌の中で最も古いものでもある(なお、日本プロ野球史上で最も古い球団歌は、日本運動協会の「日本運動協会野球歌」である)。

近畿地方を中心にした西日本では、プロ野球の球団歌では収まらず大変親しまれている曲で、(許諾の有無は別として)スーパーや商店街のBGMとしてエンドレスで流されたり、結婚式などの慶事で奉唱されたり、生前阪神ファンだった人物の葬儀で出棺の際に挽歌として使用されることもある等、日常生活の中で頻繁に耳にする。阪神タイガースが18年ぶりにリーグ優勝した2003年(平成15年)には、携帯電話着信メロディダウンロード件数が3日間で10万件に達した。

来歴

テンプレート:Sister

ファイル:Hanshin tigers no uta at kawasaki.jpg
川崎信用金庫前の歌詞ボード(神奈川県川崎市)

1935年(昭和10年)末の大阪タイガース創立に合わせて作られ、翌年3月25日甲子園ホテルで開かれたチームの激励会で初披露された。また、出席した二百人程度の関係者には、中野忠晴が歌ったレコードも配布された。このレコードのB面は『大阪タイガースの歌』と同じメロディで歌詞が違う『大阪タイガース行進曲』であった。このレコードは、製造した日本蓄音器商会(現・日本コロムビア)や球団・ラジオ局に保管されていなかったが、愛好者からの提供によって復刻され、2003年(平成15年)にアルバムCD『阪神タイガース 選手別応援歌 2003』に収録された。なお、現行版に至るまでの作詞には紆余曲折があり、そのうちの初稿版は藍川由美が歌っている(アーティストを参照)。

戦後、1961年(昭和36年)に球団名が阪神タイガースに変更され、同時に球団歌も『阪神タイガースの歌』に改題されている。この際、歌詞中の「大阪タイガース」が「阪神タイガース」に改められ、これに合わせて曲の一部が変更された。歌詞の「オウオウオウオウ」は、直後に続く「大阪タイガース」の「大」の音の押韻であったが、歌詞が変更されたためにただの感嘆詞となった。また、実際には1音で歌われることの多い「阪神」の「神」に楽譜では2つの音符が割り当てられているのも、元の歌詞が「大阪」の「阪」だった名残である。変更に際し、作詞者であった故・佐藤惣之助の遺族、作曲者である古関裕而の了解を得て行われたが、古関自身は「大阪」の歌詞の方により以上の愛着を感じていたらしく、没後に行われた遺族へのインタビュー(探偵!ナイトスクープ)において、古関が生前、「あの歌詞に合わせて作曲したのに一方的に歌詞が変更された」と不快感を抱いていたことが明らかにされている。

『阪神タイガースの歌』に改題の際、若山彰の歌唱により再吹き込みされたものが甲子園球場でのタイガース戦で流されるようになり、それで歌詞を覚えた当時朝日放送アナウンサーであった中村鋭一が、自身が司会をつとめたラジオ番組『おはようパーソナリティ中村鋭一です』で歌ったことにより、1970年代の多くのファンに広められた。1972年(昭和47年)に発売された中村の歌唱によるレコード(テイチクレコード発売)は、40万枚以上のヒットを記録し、1991年(平成3年)にはCD発売された。1985年(昭和60年)にタイガースが日本シリーズで優勝してからは、全国的に知られるようになった。なお、『六甲颪』という通称は、中村が考案したとされる[1]。またこの番組では、タイガースが勝利した翌日に六甲おろしを歌うのが風習となり、関西地方の朝の名物となった。なお、この風習は後番組で現在放送中の『おはようパーソナリティ道上洋三です』へと引き継がれた。

球団歌として公認されたのは、1980年(昭和55年)に発売された立川清登の歌唱のものである(変イ長調)。阪神タイガースのホームゲームでは球場内に流され、ファンが合唱した。1992年(平成4年)にはCD発売され、阪神タイガースファンの間で正調とされてきた[2]が、1999年(平成11年)に廃盤された。その後、ファンの待望の声に応え、2005年(平成17年)に限定発売されたコンピレーションアルバム『大阪ソウルバラード2005』に収録された。

球場で立川の歌が使われなくなってからは、1992年(平成4年)に発表された唐渡吉則の歌唱のもの(CDアルバム『'92阪神タイガース選手別応援歌ヒッティング・マーチ集』に収録)が代用された[3]。行進曲風の調子が和らげられ、歌謡曲風にアレンジされていた(ト長調)が、毎日放送が制作に関わっていたことから問題になり、球場では伴奏だけのものを使用することになった(ただし、倉敷マスカットスタジアムなど、オーロラビジョンのない地方球場主催の場合は、歌詞つきとなる。またビジター球場で流される場合は、多くの場合唐渡版・歌詞つきである)。なお、阪神甲子園球場では、球団のマスコットであるトラッキーのアニメーションとともに、歌詞がスコアボードに映される。

歌詞の著作権1992年(平成4年)12月31日に消滅し、曲の著作権も2039年12月31日に消滅するが、現在は日本コロムビアの管理楽曲である。

また、川崎信用金庫本店の所在地が佐藤惣之助の生家跡にあるため、阪神タイガースがリーグ優勝した年である2003年(平成15年)9月1日には同曲の歌碑が同店敷地内にある「佐藤惣之助生誕の地碑」の上に暫定的に設置されていた。

阪神球団創立70周年のときのキャッチコピーに「三世代 六甲おろしを 大合唱」とある。

歌詞

テンプレート:Quotation テンプレート:Sister

アーティスト

その他

気象現象としての"六甲颪"は秋から春にかけて吹くことが多く、プロ野球が盛り上がる夏に吹くことは少ない。夏に吹くのは、ほとんどが浜風である。実際の現象と歌詞のずれについて、井上章一は「作詞家の佐藤惣之助は阪神地方の気候について詳しくなかったのだろう」と考えている[5]

関連項目

  • 阪神ファン
  • 巨人軍の歌 - 同名の曲が3曲存在し、初代の通称「野球の王者」と現在(3代目)の通称「闘魂こめて」は古関裕而が作曲を手がけた。「野球の王者」は作詞も本曲と同じ佐藤惣之助である。
  • ドラゴンズの歌 - 中日の初代球団歌(1950年 - 1977年)。古関裕而が作曲を手がけた。
  • 阪急ブレーブス団歌 - 1番の歌い出しの歌詞が同じことから「もう一つの六甲おろし」の異名を持つ。

脚注

  1. 井上章一『阪神タイガースの正体』(太田出版、2001年)に掲載された中村へのインタビューで「一番のうたいだしから、私が勝手に命名しました」と語っている(同書P320)。
  2. テレビ番組「ズームイン!!朝!」のプロ野球いれコミ情報コーナーでも、阪神情報を伝える際のBGMに、同音源のインストゥメンタルが使用された。
  3. 1993年(平成5年)には、CDシングル『六甲おろし』が発売。先述のCDも含め、発売元は日本コロムビア
  4. 以来、2003年(平成15年)発売の『阪神タイガース選手別応援歌2003』まで、日本コロムビアから発売のCDアルバム『阪神タイガース選手別応援歌』シリーズにおいて、必ず収録された('97年版までは、初出の音源。'98年版以降は、甲子園バージョンというアレンジバージョンを収録)。
  5. 2014年5月19日付 愛媛新聞19面『こころの森』井上章一

外部リンク

テンプレート:日本プロ野球の球団歌