中村鋭一

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テンプレート:基礎情報 アナウンサー 中村鋭一(なかむら えいいち、1930年1月22日 - )は、日本のタレント。男性。

来歴・人物

滋賀県栗太郡金勝村大字上砥山(かみとやま)日吉神社で、神職の父親と小学校教員の母親益(ます)のもと、長男として生まれる。5人兄弟で、姉3人、弟1人。 その後、栗太郡草津町宮町、滋賀郡坂本村松ノ馬場駅近く線路沿い500坪)で15年間、松原市などで過ごし、現在は吹田市在住。 草津尋常高等小学校(現:草津小学校)を経て、1942年3月、坂本国民学校(現:坂本小学校)卒業。 同年4月、滋賀県立膳所中学校(5年制)入学。1947年3月、卒業。 同年4月、同志社外事専門学校米英科(3年制)入学。1950年3月、卒業。同年4月、草津中学校教員に着任。1951年4月、同志社大学商学部に入りなおす。同年8月、朝日放送入社。ガールフレンドは全員ファッションモデルだった。1977年3月、退社しフリーになる。 既婚で、娘2人、大学3年の男の孫がいる(2012年10月現在)。 2012年8月1日から「大阪滋賀県人会」最高名誉顧問(名誉顧問から格上げ)。身長173cm。江州弁。 愛称「えいちゃん」。「浪速のえいちゃん」と名乗っていた時期もある。俳号「中村一竿子(なかむら いっかんし)」。

父親は神主で、立木神社、唐崎神社宮司であった。終戦直後に唐崎神社の社務所に3年間住んでいた。草津や坂本では、「お宮さんのアナウンサー」と呼ばれている。父親は、その後、日吉大社禰宜として、そして近江神宮にも長く仕えた。そういう家庭環境で育った中村も神社神道一本で、家には仏壇は一切ない。中村によれば、「いただきますごちそうさまという言葉は米をつくることを教えて下さった神武天皇天照大神から連なる天皇家に対して言う言葉である」[1]

終戦後のテレビもなかった時代、進駐軍のラジオ放送FENを聴き、アメリカの文化に魅せられ英語を志す。 学生時代は、軟派で、付文をつけては「べっぴんさん」を追い回していた。 理数系が大の苦手で、秀・優・良・可・不可の5段階評価で代数幾何物理化学は滋賀県立膳所中学校では全部不可(オール1)だった。一桁の足し算も暗算では絶対できない。数学の授業は教員の目を盗み専ら英語の内職をしていた。教員に見つかり黒板用大型の三角定規で頭を強打されたこともある。平均という言葉の意味も全く理解していなかった。また、「酒を飲む前に青酸カリを飲む」と言うほど酒が大嫌いで絶対飲まない。また、ゴルフはするが100を切ったのは1回だけである(ゴルフ歴50年、ハンディキャップ36)。麻雀もするが得意ではない。「85Mの会(はちごうえむのかい)」に所属し膳中の仲間8人で麻雀を1ヶ月に1回している[2]。川柳のクラブ「相合傘」に入っている。ほか、タイガース応援、釣りが趣味である。自称「文武両立の達人」で、馬術部に所属し、障害飛越と純馬術で全国高等専門学校大会第2位(昭和23年か24年)。歌が下手なのは有名だが、下手にもかかわらずどこででも歌いたがる。友人の美空ひばりの前で歌った時は「こんな下手な歌は聴いたことがない」と大笑いされた。愛車は800万で買ったレクサス

学生時代に物干し竿を振り回す藤村富美男を見て、スポーツキャスターになることを強く志す。1950年NHKのアナウンサー試験を受け、学科試験は通ったが、アクセント試験で落ちる。NHKは東京の山の手の発音を基準としているため、金勝村出身で江州弁の中村は落とされた。同志社の旧制外事専門学校米英科を出て、郷里の滋賀県草津中学校の英語の先生を20歳の年に1年間やって、大学に入りなおして、大学の商学部に在籍中に、ABC朝日放送のアナウンサー試験に合格。草津中学では生徒にムチを振るい暴行を働く暴力教師だった[3]1951年8月6日に朝日放送に第1期アナウンサーとして入社。初鳴きは、同年11月11日で、ニュースを読んだ。当時、多くの女性とつきあったが、ガールフレンドは全員ファッションモデルだった。朝日放送開局当初からアナウンサーを務め、福井放送山口放送などの各開局時にも応援のために出向していたことがある。その後はスポーツ中継を中心に活躍。なお、ABCは朝日新聞社毎日放送毎日新聞社とともに設立・開局した大阪テレビ放送に出資していた時期もあり(1955年5月25日設立〜1959年5月[4])、同局に出向する形で番組出演することもあった。

当時の社長から「将来は朝日放送の幹部になってほしい」と言われ、1969年から1971年まで朝日新聞大阪本社社会部へ現場交換の形で出向、2年間朝日放送の命令で新聞記者。当初は事件記者(捜査1課など担当)、それから約1年にわたって天気担当記者をして、大阪管区気象台天気相談所長福井敏雄と親しくなった。万博担当記者でもあった。1971年4月朝日放送に報道局部長プロデューサーとして復帰、「おはようパーソナリティ中村鋭一です」のパーソナリティとなった。日本初のラジオパーソナリティを自称している[5][6]阪神タイガースが勝利した翌日には、必ず六甲おろしを熱唱したことで知られ、阪神ファンから絶大な支持を集めていた。15歳の時からの阪神ファンで、絶えず野球のことを考えているが、野球の経験は全くない。女子を追いかけ回す軟派な少年だった。

1977年3月6月参議院選挙出馬のため、朝日放送を退社。

テンプレート:政治家 1977年6月、第11回参議院議員通常選挙大阪府選挙区から、河野洋平宇都宮徳馬の支援を受け、新自由クラブ公認で出馬するが落選。タレント活動を始める。3年間は、月火水木金とベルトでラジオの生放送をやって、それとは別に、テレビの30分から1時間の番組を7本持ち、スタジオからスタジオを走り回っていた。

1980年6月、第12回参議院議員通常選挙大阪府選挙区から、民社党新自由クラブ推薦で出馬、初当選。

参議院で新人だった中村は国会代表質問に立った時に本会議場の壇上で、村上正邦に「えいちゃん、今日タイガースどうなってんだい」と言われたのを受け、「ただいま4対0でタイガース、リードしております」と発言し、「こら、不謹慎だ」と懲罰委員会にかけられた。徳永正利議長に呼ばれて、「実は、中村さん、相談がある。タイガースのうんぬんのとこは切る代わりに、閣僚で大臣で居眠りしとるのがおる(直前の中村の発言)、いうところも切らせてくれんか。議事録を消させてくれ。それで勝負は1対1でパーや」と言われ、然るべき懲罰を受けなかった。

1986年西川きよしらに敗れ落選。 1989年5月12日大津市の滋賀会館で右翼に襲われ負傷。 1989年7月の第15回参議院議員通常選挙には当選の見込みのない大阪府選挙区を避けて出身地の滋賀県選挙区から連合の会(のち民主改革連合)公認で出馬し、当選。 1994年1月には民主改革連合代表に就任しているが、12月に離党、新進党の結党に参加した。 1996年10月の第41回衆議院議員総選挙では大阪14区から新進党公認で出馬、同じく参院から鞍替え、政党移籍(日本社会党自民党)した谷畑孝を破り当選。 新進党解党後は自由党保守党に所属し、2000年6月の第42回衆議院議員総選挙では比例代表近畿ブロックから保守党公認で出馬するが落選し、政界を引退した。

通算で参議院議員を2期・衆議院議員を1期務めた。

現在の所属事務所昭和プロダクション。テレビ・ラジオのパーソナリティ、政治評論などで活躍している。

服部岩吉伯父(母の兄)。長浜市議会議員の吉田豊は甥(3女の姉の息子)。

現在の出演番組

上記以外の主な出演番組

ディスコグラフィー

  • 阪神タイガースの歌(六甲おろし) / 初恋は星に似て(1972年発売。テイチクレコード A-89)
    • B面曲は「中村鋭一・嶋亜矢」名義。
  • ハイサイおじさん / ハイサイおじさん(対訳篇)(1976年5月発売。カバー。テイチクレコード A-95)
  • タイガース音頭(1976年7月発売。1985年10月10日にジャケットのデザインを変更し、同内容で再発。1976年版:東宝レコード AT-4005、1985年版:アポロン(Alty) AY07-40)
    • A面曲は「中村鋭一とサウンド・フォー」名義。
    • B面曲は「進め!タイガース」(「アートボーン・チビッコ合唱団とサウンド・フォー」名義)
    • ジャケットデザインは1976年版は野球の試合のイラスト、1985年版は阪神タイガースの球団旗
    • 1985年の再発時には、両曲のカラオケも収録したカセットテープ版も同時発売。
  • 中村鋭一応援歌(並木順

関連項目

脚注

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外部リンク

  • 2012年2月11日,2月18日,8月11日「鋭ちゃんのダイナマイト・トーク」、2012年2月12日,2月19日「鋭ちゃん順子のさざなBeゲーション」えいちゃんのええ話他
  • 2012年3月3日「鋭ちゃんのダイナマイト・トーク」、2012年4月1日「鋭ちゃん順子のさざなBeゲーション」
  • 2012年9月9日「鋭ちゃん順子のさざなBeゲーション」教え子の体験談
  • 6月にABCに吸収され、現在のABCテレビとなる
  • 2012年3月31日「鋭ちゃんのダイナマイト・トーク」
  • ちなみに中村は日本で初めて『パーソナリティ』の肩書を名乗った人物だと言われている。詳しくはラジオパーソナリティの項を参照。