灘尾弘吉
テンプレート:政治家 灘尾 弘吉(なだお ひろきち、1899年(明治32年)12月21日 - 1994年(平成6年)1月22日)は、昭和時代の日本の官僚、政治家。衆議院議長(60・61代)、文部大臣(74・75・77・82・83・90代)、厚生大臣(41代)を歴任。
来歴・人物
1899年12月21日広島県佐伯郡大柿町(現・江田島市)に生まれる。灘尾家は農業の傍ら、木綿の製造・醤油醸造を営んでいた。父の灘尾夫子俟(なだお ふじまつ)は、早稲田大学の講義録で独学した後、政治に興味を持ち、地元で村会議員、町会議員、村長を務めた。
なお、遠縁に5代目三遊亭圓楽がいる(灘尾弘吉の父方のいとこの妻が、圓楽の母の姉にあたる)[1]。
灘尾は、折り紙付きの秀才で、小、中学校では、まれに見る神童と呼ばれ、旧制広島一中、旧制一高、東京帝国大学法学部を首席で卒業した。一高時代は、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)がヨーロッパ訪問の際、一高校旗の旗手を務め見送りの学生の先頭に立った。
東大卒業後、当時内務省の人事課長で広島中学の先輩だった佐上信一の計らいで[2]、内務省に入省し衛生局に入る。その後、内務省から保健行政部門が厚生省として分離したことに伴い、厚生省社会局に移る。福利課長、保護課長など社会福祉関係のポストを歴任し、大臣官房会計課長となる。1941年当時最年少の43歳で大分県知事となる。翌1942年に厚生省に戻り、厚生省生活局長、衛生局長。1944年内務省地方局長。
1945年4月内務省事務次官となる。次官在職は終戦の8月までで、灘尾は郷里広島に一度戻り、再度上京するが、1947年11月にGHQによって公職追放となる。灘尾は社会福祉関係を渡り歩き、警察・治安関係とは無関係であったことから、周囲からGHQに追放解除申請をするよう勧められたが、灘尾は、解除したければGHQがするべきだと筋論を通した。
1951年8月に追放が解除され、周囲に推されて1952年10月の第25回衆議院議員総選挙に立候補した。内務次官経験者ではあったが、地元ではそれ程知名度もなく、組織票も無い上、演説も訥弁で声も小さく、地元の利益など一切口にしなかったが、かえって誠実であるということで2位当選を果たした(当選同期に福田赳夫・大平正芳・黒金泰美・内田常雄・丹羽喬四郎・宇都宮徳馬・植木庚子郎・加藤精三・山崎巌・今松治郎・重政誠之・町村金五・古井喜実など)。当選後、内務次官時代から面識のあった自由党であった緒方竹虎の緒方派に所属し、緒方亡き後は石井光次郎派に所属する。
1956年の自由民主党総裁選挙の結果、石橋内閣が成立すると、灘尾は文部大臣に就任。以後、灘尾は池田勇人内閣での厚生大臣(1期)を挟み計6期文部大臣に就任し、「文部大臣は灘尾」と呼ばれることになる。
石橋内閣では、最初に日教組対策に直面し、小林武日教組委員長と会談、対話の端緒を開いた。しかし、第2次岸信介内閣で文部大臣として入閣すると、日教組とは勤務評定をめぐり激しい対決に終始する。岸内閣が警職法改正案で国会が紛糾した際に池田勇人、三木武夫とともに辞任した。池田内閣では厚生大臣に任命され、厚生省と日本医師会が保健医療費値上げ問題で対立していたのを医療問題懇談会を設置して話し合いの場を設け、また厚生省の現業部局として社会保険庁を設置した。1966年の自民党総裁選挙では、立候補もしていない灘尾に対して11票も票が入ったが、当時、黒い霧事件の中で、一服の清涼剤のごとき印象を政界の内外に与えた(灘尾は「自分も入れていれば12票だった」とコメント)。なお、当時の自民党総裁選の規定では、立候補していない議員への票も有効票に数えられており、党史でも灘尾への票が記録されている。第2次佐藤栄作内閣で文部大臣に起用され大学紛争に対応した。デモ隊は灘尾邸にもおしかけたが、あまりの陋屋のため戦意喪失、退却を余儀なくされたというエピソードもある。1976年石井派解消とともに無派閥となる。
もともと親台湾派であった灘尾は、1972年の日中国交正常化とそれに伴う台湾(中華民国)との断交に際し、翌1973年に台湾との交流を支援する議員連盟として日華議員懇談会を立ち上げて会長となった。灘尾には中華人民共和国からの招請も度々あったが、台湾側に義理を立てて一度も訪中していない。
1974年、三木内閣で自民党副総裁の椎名悦三郎の推薦で、党三役のひとつ自民党総務会長に就任。灘尾と椎名、前尾繁三郎は「三賢人の会」と称される会合を持ち、交友を持っていた。田中角栄が金脈問題で退陣し、さらにロッキード事件の表面化による自民党の危機に対し、自民党の近代化を以前から主張していた椎名が三木と灘尾が協力することによって自民党改革を実行しようと企図したものであったが、椎名の目からは、三木は党改革には消極的であり、福田赳夫、大平正芳らの挙党体制連絡協議会(挙党協)の「三木おろし」により、1976年9月の党役員改選、内閣改造によって総務会長を辞任した。
1979年10月7日の第35回衆議院議員総選挙の結果、自民党は大敗した前回の衆議院選挙よりも議席を減らし、大平首相の進退をめぐっていわゆる「四十日抗争」が勃発するが、その過程で福田赳夫は大平に対し、誰にも反発されることのない公平無私な人物として灘尾の名を後継総裁に挙げている。
総選挙に先立ち、保利茂議長の病気辞任に伴って1979年2月1日第60代衆議院議長に就任し、総選挙後も引き続き第61代衆議院議長を務めた。議長としては、1980年大角主流派に反発する福田・三木・中曽根康弘反主流派が野党の提出した大平内閣不信任案に同調する動きを見せ政局は緊迫の度合いを強くしていた。その中、反主流派は不信任案に同調するか否かをめぐり混乱し、そのため、当初、午後3時開会の衆議院本会議を5時まで灘尾は延長する。しかし、反主流派は結論に達せず再延長を灘尾に申し込んだが、灘尾はこれを国会を軽視するものと拒否し開会を宣言し、大平内閣不信任は可決された。その後、衆議院議長応接室において解散となり、初の衆参同日選挙に突入する(ハプニング解散)。1982年に勲一等旭日桐花大綬章を受章。
1983年政界を引退する(旧広島1区の地盤は粟屋敏信が引き継ぐ)が、引退後も全国社会福祉協議会会長や、障害者団体としては国内最大の組織規模を有する日本身体障害者団体連合会の会長などを務め、社会福祉事業にも力を入れた。1989年3月長年連れ添った愛妻である敏子夫人が亡くなった際は、灘尾は激しい悲しみに襲われ人目をはばからず嗚咽したという。1994年1月22日、東京都世田谷区の自宅にて94歳で死去。
関連書籍
関連項目
- 広島県立広島国泰寺高等学校の人物一覧
- 東京大学の人物一覧
- 加藤紘一(灘尾は加藤の父・精三と当選同期であり、加藤をかわいがった)
- 5代目三遊亭圓楽(灘尾と縁戚であることを公表している)
脚注
テンプレート:S-par
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
保利茂
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院議長
第60・61代:1979年 - 1980年
|style="width:30%"|次代:
福田一
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
鈴木善幸
|style="width:40%; text-align:center"|自由民主党総務会長
第18代:1974年 - 1976年
|style="width:30%"|次代:
松野頼三
テンプレート:S-off
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
剱木亨弘
荒木万寿夫
松永東
清瀬一郎
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 文部大臣
第90代:1967年 - 1968年
第82・83代:1962年 - 1964年
第77代:1958年
第74・75代:1956年 - 1957年
|style="width:30%"|次代:
坂田道太
愛知揆一
橋本龍伍
松永東
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
古井喜実
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 厚生大臣
第37代:1961年 - 1962年
|style="width:30%"|次代:
西村英一
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
山崎巌
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内務次官
第50代:1945年
|style="width:30%"|次代:
古井喜実
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テンプレート:衆議院議長 テンプレート:裁判官弾劾裁判所裁判長 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:厚生労働大臣 テンプレート:大分県知事
テンプレート:自由民主党総務会長- ↑ 『女性自身』1981年5月14日・21日合併号。
- ↑ 政客列伝 灘尾弘吉(1) - 日本経済新聞