伊奈忠治
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テンプレート:基礎情報 武士 伊奈 忠治(いな ただはる)は江戸時代初期の代官頭。
略歴
関東郡代であった武蔵小室藩主伊奈忠次の次男。父忠次の死後、跡を継いだ兄忠政が若くして死去してしまい、その子忠勝が幼少であったために跡を継いで関東郡代となる(忠勝はその後わずか9歳で病没し、小室藩は無嫡廃絶となる)。関東郡代となる前から幕府に勘定方として出仕しており、武蔵国赤山(現在の埼玉県川口市赤山)に既に七千石で赤山陣屋を拝領していたため、兄の配下だった代官の多くが忠治の家臣となったという。
忠治は父、兄の仕事を引き継いで関八州の治水工事、新田開発、河川改修を行い、荒川開削、江戸川開削に携わった。江戸初期における利根川東遷事業の多くが忠治の業績であり、鬼怒川と小貝川の分流工事や下総国、常陸国一帯の堤防工事などを担当した。なお、この業績を称えて忠治を祀った伊奈神社が、福岡堰(現在の茨城県つくばみらい市北山)の北東、つくば市真瀬にある。また、合併してつくばみらい市となった旧筑波郡伊奈町の町名は忠治に由来する。父の忠次も埼玉県北足立郡伊奈町の町名の由来となっており、親子2代で地名の由来となった珍しい例である。
忠治の業績
- 吉見領囲堤 - 元和年間(1615年~1624年):武蔵国吉見領(現在の埼玉県比企郡吉見町)
- 中山道移設・大宮宿の形成 - 寛永5年(1628年):氷川参道西側に街道を付け替えて宿や家を街道沿いに移転させ、現在に至る大宮の町の基を創る。
- 荒川瀬替え - 寛永6年(1629年):武蔵国久下~川島(現在の埼玉県熊谷市~比企郡川島町)
- 見沼溜井、八丁堤 - 寛永6年(1629年)
- 鬼怒川・小貝川分流 - 寛永6年(1629年)~寛永7年(1630年)
- 新綾瀬川開削 - 寛永7年(1630年):武蔵国内匠新田~小菅(現在の東京都足立区)
- 江戸川開削 - 寛永12年(1635年):下総国関宿~金杉(現在の千葉県野田市~埼玉県北葛飾郡松伏町)
- 佐伯渠 - 寛永12年(1635年)
- 北河原用水 - 正保元年(1644年):武蔵国北河原(現在の埼玉県行田市)
その他
- 一部小説では玉川上水工事の二度の失敗の責任を取り切腹したことになっているが、切腹はフィクションである。