ジャイアント・インパクト説
ジャイアント・インパクト説(ジャイアント・インパクトせつ、giant impact theory)とは、地球の衛星である月がどのように形成されたかを説明する、現在最も有力な説である[1][2]。衝突起源説とも呼ばれる。
この説では月は原始地球と火星ほどの大きさの天体が激突した結果形成されたとされ、この衝突はジャイアント・インパクト(Giant Impact、大衝突)と呼ばれる。また、英語ではBig Splash や Big Whack と呼ばれることもある。原始地球に激突したとされる仮想の天体はテイア(Theia)と呼ばれることもある。
概要
ジャイアント・インパクト説以前は1898年にジョージ・ハワード・ダーウィンが提唱した遠心力による溶けた原始地球からの月の分離を説いた「分裂説」が受け入れられていたが[3]、この説では分離初期の状態を説明出来なかった。
1946年にハーバード大学の教授で地質学者であるカナダ人のen:Reginald Aldworth Dalyが月の誕生は遠心力による分離ではなく天体衝突によるものであるとの説を唱えたが[4]、発表当時は受けいれられなかった。その後1975年に衝突説がウィリアム・ハートマン (en:William K. Hartmann) とドナルド・デービス (Donald R. Davis) によって科学雑誌『Icarus』に発表した論文で再提唱され[5]、今では広く受け入れられている。
ジャイアント・インパクト説によると、地球が46億年前に形成されてから間もなく火星とほぼ同じ大きさ(直径が地球の約半分)の原始惑星が斜めに衝突したと考えられている。
原始惑星は破壊され、その天体の破片の大部分は無色鉱物に富んだ地球のマントルの大量の破片とともに宇宙空間へ飛び散った。破片の一部は再び地球へと落下したが、正面衝突ではなく斜めに衝突したためにかなりの量の破片が地球の周囲を回る軌道上に残った。軌道上の破片は一時的に土星の環のような円盤を形成したが、やがて破片同士が合体していき月が形成されたと考えられている。
現在のコンピュータシミュレーションによる推定では、このような場合では1年[6]から100年ほどで球形の月が完成するとされている。また最近のシミュレーションでは、月が一つにまとまるまでの時間は早ければ1ヶ月ほどだとする結果が出ている。誕生したばかりの月は地球から僅か2万kmほどのところにあり、それが徐々に地球との間の潮汐力の影響で地球から角速度を得て遠ざかり、現在のように地球から平均38万km離れた軌道まで移動したと考えられている[6]。
またこの影響で、月が誕生した当初は1日5時間から8時間ほどだった地球の自転速度が現在のような1日24時間の速度になったとされる。現在でも地球と月は1年に3.8cmずつ遠ざかり、地球の自転速度も少しずつ遅くなっていることが実測されている。
証拠
このような衝突があったとする証拠は、アポロ計画で採取された月の岩石の酸素同位体比が地球のマントルのものとほとんど同一だったことである。化学的な調査の結果、採取された岩石には揮発性物質や軽元素がほとんど含まれていないことが分かり、それらが気化してしまうほどの極端な高温状態で形成されたという結論が導かれた。月面に置かれた地震計(月震計)からニッケルや鉄でできた核の大きさが測定され、地球と月が同時に形成されたと考えた場合に予測される大きさに比べて実際の核の大きさが非常に小さいことが分かった。核が小さいということは衝突により月が形成されたとする説の予測と一致する。それは、この説では、月は大部分が地球のマントル、一部が衝突した天体のマントルから形成され、衝突した天体の核から形成されたわけではないと考えられるからである。ジャイアント・インパクト直後には地球は全体が高熱になりマグマの海(マグマオーシャン)が形成されたと考えられており、衝突した天体の核は融けた地球の深部へ沈んでいき地球の核と合体したと考えられている。
月が存在するということ自体以外のこの事件の主な痕跡は、研究者によると、地球が明るい色の無色鉱物や中間的な岩石のタイプを地球表面全体を覆うほど十分には持っていないという事実である。このために、地球には無色鉱物に富んだ花崗岩などの岩石からできている大陸と、大陸より暗い色でより金属に富んだ有色鉱物に属する玄武岩などの岩石からできている海という窪地があるのである。この構成の違いに加えて、水の存在が地球に広範囲に渡る活発なプレートテクトニクスを存在させることになった。さらに地球の自転軸の傾きと初期の自転の速さも、いわゆるジャイアント・インパクトによって決まったと考えられている。
ジャイアント・インパクトのような出来事があった場合に本当に月のような天体ができるのかどうかは、コンピュータシミュレーションにより検証されている。ジャイアント・インパクトの計算は重力多体問題と呼ばれる計算の一種で、破片が相互に重力的影響を及ぼしあうことから非常に計算量が多く、コンピュータには高い性能が要求される。しかしコンピュータの技術の進展により、1980年代後半から重力計算専用のスーパーコンピュータ(専用計算機)によりシミュレーションでのジャイアント・インパクトの実証ができるようになってきた。その結果、パラメータを上手く設定すると実際に月のような衛星の形成が起こりうることや、地球の自転軸の傾きなどを再現できることが示された。現在では扱う破片の数を増やすなどして、さらに精度の高いシミュレーションの試みが続けられている。
問題の解決
ジャイアント・インパクト説が提唱される以前は、月の形成理論として有名な説が3つあった。原始地球は高速で回転していてその一部がちぎれて月になったとする「分裂説」(「親子説」とも)、太陽系形成時に塵の円盤から地球と一緒に月が出来たとする「兄弟説」(「双子集積説」とも[7])、月は地球とは別の場所でできそれが後に地球の引力に捕らえられ地球の衛星となったとする「捕獲説」(「他人説」とも)である。
しかし、兄弟説や捕獲説では地球のマントルと月の化学組成が似ていることの説明ができなかった。分裂説では本当に分裂が起こるほどの力学的なエネルギーがあったのかという点に疑問があった。兄弟説では地球と月の平均密度の違い(地球は5.52g/cm³、月は3.34g/cm³)を説明できず、捕獲説では月のような大きな天体が地球に捕らえられるような確率が非常に低いと指摘されていた。さらにアポロ計画で採取された岩石から、月の形成初期には月全体がマグマの海(マグマオーシャン)で覆われていたことも分かっており、兄弟説や捕獲説ではこれを説明できなかった。
このようにどの説もそれぞれ重大な問題を抱えていた。このため1970年代中頃にはどの説も行き詰まってしまい、困惑した天文学者のアーウィン・シャピロ (Irwin Shapiro) は「もはや満足できる(自然に思える)説明は無い。最善の説明は月が見えるのは目の錯覚だと考える事である。」という冗談を言うほどであった。
一方、ジャイアント・インパクト説では、月と地球のマントルの化学組成が似ているのは月が主に地球のマントルの破片からできたためであるとされる。平均密度の違いも、破片に地球のマントル(岩石が主成分のため比較的低密度)が多く含まれ核([鉄が主成分のため高密度)はほとんど含まれないことで説明できる。また形成直後の月は破片が多数衝突したため高温になり表面が融解していると考えられることから、月がマグマの海で覆われていたとする証拠との整合性も高い。このように、ジャイアント・インパクト説は以前の説が抱えていた問題の多くを解決できると言われている。このため、ジャイアント・インパクト説は1980年代中頃には月形成理論としてもっとも有力な説とされるようになった。
しかしジャイアント・インパクト説でも、火星ほどの大きさの天体が地球を完全に破壊してしまわないような正確な角度で衝突し、衝突で自転軸の傾きを生じさせ(これは季節を生み出す)、地球で活発なプレートテクトニクスが起こるようにした(これは炭素循環のために不可欠[8])、というようなことが起こる確率が一見非常に低いという問題があった。この確率の低さは、地球外文明の存在の可能性の高さとそのような文明との接触の証拠が皆無である事実の間にある矛盾(フェルミのパラドックス)を説明するための証拠として持ち出されることがあった。この考えはレア・アース仮説(Rare Earth hypothesis)と呼ばれる。
しかし、エドワード・ベルブルーノ (Edward Belbruno) とリチャード・ゴット (Richard Gott III) は、最近の論文の中で衝突した天体はラグランジュ点 L4か L5 (地球の軌道上の、地球より60度先行した点と60度後方の点)で形成され、その後カオス的な軌道を移動し、適度に低速で地球に衝突したと主張した[1]。この仕組みによれば、このような衝突事件が起こる確率はかなり高くなるとされる。
またジャイアント・インパクト説が分裂説と同様に抱えていた問題として、月の軌道平面(白道面)が地球の赤道面と約5度傾いているのを説明できないというものがあった。しかしこの問題も、最近の精度を上げたシミュレーションによるとジャイアント・インパクトで飛び散った破片同士の重力的な相互作用により説明できる可能性が出てきている[9]。
他の惑星での例
2005年に発表されたロビン・キャヌプ(Robin Canup)によるシミュレーションでは、冥王星の衛星であるカロンも地球の月と同様に約45億年前に大衝突によって誕生したということが示唆された[10]。シミュレーションによると、冥王星の場合には直径が1600kmから2000kmほどある他のエッジワース・カイパーベルト天体が秒速1kmほどで衝突したとされた。キャヌプは、このような衛星形成の過程は初期の太陽系では一般的だった可能性があると推測している。
また太陽系外惑星の形成シミュレーションによって、地球型惑星が形成される際には3個か4個に1個程度の割合でジャイアント・インパクトのような大衝突を経験し、月のような衛星を持つ可能性が指摘されている。このことから、他の恒星を回る惑星にも地球と同じような形成過程を経た月を持ったものがあるかもしれないと考えられている。
脚注
関連項目
外部リンク
- 惑星科学研究所のジャイアント・インパクト説についてのページ (英語) - ハートマンとデービスも惑星科学研究所に所属している。このページには、ハートマン自身による衝突のイラストもいくつかある。
- 月の形成のコンピュータ・モデリング (英語)
- The Origin of the Moon Home Page - 国立天文台、東京大学の小久保英一郎のサイト。ジャイアント・インパクトのコンピュータシミュレーションの画像がある。
- ジャイアント・インパクト - 「地球生命の歴史」のweb科学館内のページ。
- NetScience Interview Mail・井田茂3/6 - 東京工業大学理工学研究科地球惑星科学専攻、井田茂助教授(当時)へのインタビュー。
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