藤原真楯
藤原 真楯(ふじわら の またて、霊亀元年(715年) - 天平神護2年3月12日(766年4月25日))は、奈良時代の貴族。初名は八束(やつか)。藤原北家の祖・参議藤原房前の三男。官位は正三位・大納言、贈太政大臣。
経歴
天平12年(740年)正六位上から従五位下次いで従五位上に続けて昇叙され、天平15年(743年)正五位上、天平16年(744年)従四位下と、聖武天皇に才能を認められその寵遇を得て急速な昇進を果たす。聖武朝においては、天皇の命により特別に上奏や勅旨を伝達する役目を担ったという。非常に明敏であるとしてこの頃誉れが高く、そのために従兄弟の藤原仲麻呂からその才能を妬まれることがあったが、これに気づいた八束は病と称して家に閉じ籠もり、一時書籍を相手に日々を過ごしたという[1]。天平20年(748年)参議に任ぜられ、1歳年上の兄・永手に先んじて公卿に列す。
天平勝宝8年(756年)聖武上皇の崩御後まもなく、兄・永手が非参議から一躍権中納言に任ぜられ、八束は官途で先を越される。しかしながら、天平宝字2年(758年)の唐風への官名改称に賛同、天平宝字4年(760年)には唐風名「真楯」の賜与[2]を受けるなど、藤原仲麻呂政権下でも仲麻呂に協力姿勢を見せ、天平宝字4年(760年)従三位、天平宝字6年(762年)中納言と順調に昇進を続けた。またこの間、天平宝字2年(758年)に来朝した第4回渤海使の揚承慶が帰国する際に、八束は餞別の宴を開催し、揚承慶はこれに感動し賞賛している。
天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱では孝謙上皇側につき、正三位・授刀大将に叙任、勲二等を叙勲された。天平神護2年(766年)正月、右大臣に昇進した永手の後を受けて大納言に任ぜられるが、3月に死去。享年52。大臣としての形式で葬儀が行われ、太政大臣の官職を贈られた。
同時代の有力者は仲麻呂(恵美押勝)で、最も栄えていたのは南家であった。また、当時の北家の嫡流は大臣にまで昇っていた兄の永手であり、氏族間の均衡が望まれて親子・兄弟で要職を占めることに批判がなお強かった奈良時代後期において大納言まで昇った事はその才覚による部分が大きいと言える。そして後年藤原氏で最も繁栄する藤原道長・頼通親子などを輩出したのは、彼を祖とする北家真楯流である。
人物
度量が広く、政治家として天皇の政務を補佐する才能があった。
『万葉集』に短歌7首、旋頭歌1首の計8首収録。同書の補注などから大伴家持とは個人的親交があったと推測されている。
系譜
略歴
- 天平5年(733年) 親交のあった山上憶良の病気見舞いに河辺東人を派遣。
- 天平12年(740年) 春宮大進、従五位下。
- 天平12年(740年) 関東行幸従駕に際し、赤坂頓宮にて従五位上。
- 天平13年(741年) 右衛士督。
- 天平15年(743年) 正五位上(当時、式部大輔を兼ねる)。
- 天平16年(744年) 従四位下。
- 天平18年(746年) この頃、大和守
- 天平19年(747年) 治部卿。
- 天平20年(748年) 元正太上天皇崩御に際し装束司。
- 天平勝宝元年(749年) 参議。
- 天平勝宝4年(752年) 摂津大夫。
- 天平勝宝6年(754年) 従四位上。
- 天平宝字元年(757年) 橘奈良麻呂の乱後、正四位下。
- 天平宝字2年(758年) 藤原仲麻呂らと官号改易に関与(当時、参議・中務卿)。
- 天平宝字3年(759年) 正四位上。
- 天平宝字4年(760年) 従三位、大宰帥。「真楯」の名を下賜。
- 天平宝字6年(762年) 中納言、中務卿。
- 天平宝字8年(764年) 正三位、式部卿、勲二等、授刀大将。
- 天平神護2年(766年) 大納言。
- 天平神護2年(766年)3月12日 52歳で薨去。称徳天皇より大臣としての葬儀を賜わる。
参考文献
- 野村忠夫「永手・真楯(八束)・御楯(千尋)」(『史聚』12号、1970年)
- 前田晴人「藤原八束(真楯)の改名問題」(『東アジアの古代文化』89・91号、1996年・1997年)
- 吉川敏子「仲麻呂政権と藤原永手・八束(真楯)・千尋(御楯)」(『続日本紀研究』294号、1995年)
- 木本好信「藤原真楯薨伝について」(『古代文化』57巻3号、2005年)
- 木本好信「『続日本紀』藤原真楯薨伝・再論」(『政治経済史学』491号、2007年)