一分銀

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一分銀(いちぶぎん)は、江戸時代末期に流通した銀貨の一種。

概要

南鐐二朱銀の成功を受け、天保8年11月7日(1837年)に鋳造開始され、同12月21日(1838年)に通用開始された天保一分銀を嚆矢とする。従来の丁銀豆板銀が、重量を以て貨幣価値の決まる秤量貨幣だったのに対し、額面が記載された表記貨幣(計数貨幣)であった。

形状は長方形で、表面には「一分銀」、裏面には「定 銀座 常是」と刻印されている。額面は1。その貨幣価値は、金貨である一分金と等価とされ、したがって1/4に相当し、また4に相当した。

一両あたりの量目は9.2に過ぎず、天保丁銀の含有銀量を一両あたりに換算した15.6匁にはるかに及ばず、幕府の財政難を埋め合わせるための出目(改鋳利益)獲得が目的の名目貨幣であった。天保一分銀、安政一分銀伴に発行高は丁銀をはるかに上回るものとなり、銀貨流通の主流となった。一分銀発行以降、市場における両単位の貨幣の流通の多くを一分銀が占めたことから、後の開港後における小判流出の元凶となった。

天保一分銀

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天保金の発行後間もなく一分の額面をもつ計数銀貨の発行となったが、これは文政南鐐二朱銀2枚分の量目4.0と比較して42.5%の大幅な減量であり、文政南鐐一朱銀4枚分の量目2.8匁に対しても約18%の減量である。銀量の減少と引換にさらに精錬の度合いを上げた花降銀(はなふりぎん)を使用し、勘定所役人らは表面に「花降一分銀(はなふりいちぶぎん)」と表記することを計画したが、水野忠邦の反対に遭い単に「一分銀」と表記し、周囲の額に桜花を20個配置することになった[1]。これが天保一分銀(てんぽういちぶぎん)であり、古一分銀(こいちぶぎん)とも呼ばれる。

裏面の「是」字の八画および九画が交差した交叉是のもので、側面の仕上げが滑らかで桜の花弁が打たれているものが天保一分銀である事が多いが、厳密には周囲の桜花の逆打ちのものの位置から判断することが定着している[2]

公儀灰吹銀および回収された旧銀から一分銀を吹きたてる場合の銀座の収入である分一銀(ぶいちぎん)は天保一分銀では当初鋳造高の2.5%と設定され、天保14年(1843年)からは1.6%に減額された。また天保14年8月17日(1843年)の一時吹止めまでの期間について、『銀座掛御用留』の記録では15,153,802両を鋳造し、このとき吹替えにより幕府が得た出目は2,430,000両としている[3]

また、表面に「庄」の極印が打たれたものが存在し、慶應4年5月20日(1868年)から6月15日までの期間に鶴岡藩(庄内藩)において、良質の天保一分銀を他領から流入する銀質の劣る安政一分銀と区別し増歩通用させるために、鶴岡および酒田において極印を打ったものとされ、庄内一分銀(しょうないいちぶぎん)と呼ばれる[2]。打印数は酒田において30万両(推定)、鶴岡において13万両[4]とされ、裏面の桜花額縁の右下側にY極印を打ったものが酒田製、左下側のものが鶴岡製と推定されているが資料による裏付けはなされていない。

安政一分銀

日米和親条約締結により安政6年(1859年)に開港され、外国人大使の小判入手が目的の洋銀から一分銀への両替要求が急増し、貿易港周囲における市中の一分銀が払底したため、幕府に対し一分銀の増鋳が要求された。しかし一分銀の払底は解消されず、ハリスは洋銀を一分銀に改鋳して発行するよう提案し幕府もこれを受け入れ、同年8月13日より洋銀と同品位の一分銀が通用開始されることになった[3][5]。このとき発行されたのが安政一分銀(あんせいいちぶぎん)であり、新一分銀(しんいちぶぎん)とも呼ばれる。

裏面の「是」字の八画および九画が交差せず、側面の仕上げが鑢(やすり)目となっているものが多いが、周囲の桜花の逆打ちのものの位置から判断する方が確実である[2]

貨幣司一分銀

慶應4年4月17日(1868年)、維新政府は銀座を接収し、同月21日、太政官に設立された貨幣司(かへいし)は明治2年2月5日(1869年)までに銀座で旧幕府発行のものを踏襲した一分銀および一朱銀を鋳造した。

このときのものが貨幣司一分銀(かへいしいちぶぎん)と呼ばれ、裏面の「常」字の第一~三画までが「川」の字に近く、川常一分銀(かわつねいちぶぎん)とも呼ばれ、鋳造期間が明治に改元された後も続くことから明治一分銀(めいじいちぶぎん)とも呼ばれる。また従来の一分銀に対し一般的に質が劣り亜鉛を含むものがあり、亜鉛差一分銀(あえんさしいちぶぎん)と呼ばれることもある。ただし明治一分銀とされるものにも銀90%程度の良質なものも存在し、その詳細については不明である。

明治元年中、東京において300,508両2分、明治元年7月〜2年2月にかけて大阪長堀において766,325両が鋳造された[6][7]

「川常」であることまた逆の桜花の位置で安政一分銀と区別されるが[2]、これも諸説あり現在のところ確定的でない。

二分判、一朱銀および天保通寳と同様に藩および民間による贋造が横行し、久留米藩では明治元年9月(1968年)から翌年6月までの間に3万両にも及ぶ鋳造を行ったとされる[8]

仕様

名称 鋳造開始 分析品位(造幣局)[9] 規定量目 鋳造量

[2][3][6]

天保一分銀(古一分) 天保8年-安政元年
1837年-1854年
金0.21%/銀98.86%/雑0.93% 2.3
(8.62グラム)
19,729,139
(78,916,556枚)
安政一分銀(新一分) 安政6年-明治元年
1859年-1868年
金0.07%/銀89.36%/雑10.57% 2.3匁
(8.62グラム)
25,471,150両
(101,884,600枚)[10]
貨幣司一分銀(川常) 明治元年-2年
1868年-1869年
金0.09%/銀80.66%/雑19.25% 2.3匁
(8.62グラム)
1,066,833両2分
(4,267,334枚)

参考文献・脚注

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テンプレート:江戸時代の貨幣
  1. 元の位置に戻る 『日本の貨幣-収集の手引き-』 日本貨幣商協同組合、1998年
  2. 以下の位置に戻る: 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 青山礼志 『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』 ボナンザ、1982年
  3. 以下の位置に戻る: 3.0 3.1 3.2 田谷博吉 『近世銀座の研究』 吉川弘文館、1963年
  4. 元の位置に戻る 清水恒吉 『南鐐蔵版 地方貨幣分朱銀判価格図譜』 1996年
  5. 元の位置に戻る 三上隆三 『江戸の貨幣物語』 東洋経済新報社、1996年
  6. 以下の位置に戻る: 6.0 6.1 『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』 大蔵省、1875年
  7. 元の位置に戻る 瀧澤武雄,西脇康 『日本史小百科「貨幣」』 東京堂出版、1999年
  8. 元の位置に戻る 澤田章 『明治財政の基礎的研究』
  9. 元の位置に戻る 甲賀宜政 『古金銀調査明細録』 1930年
  10. 元の位置に戻る 28,480,900両(113,923,600枚)の記録もあり。小葉田淳 『日本の貨幣』 至文堂、1958年、『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』