佐久間信栄

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佐久間 信栄(さくま のぶひで、弘治2年(1556年) - 寛永8年11月23日1632年1月14日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将佐久間信盛の長男、信実の兄。子に娘(織田貞置室)、娘(佐久間信勝室)、娘(安見元勝室)。養子に信実、信勝、信重。通称は甚九郎。駿河守を自称し、剃髪後は不干斎と号した[1]は正勝(まさかつ)とも伝えられるが、信頼できる史料は信栄としている[2]

生涯

織田氏の重臣佐久間氏の当主・信盛の長男として生まれ、若くして父と共に各地を転戦、伊勢国大河内城攻略戦、対六角氏戦や野田城・福島城の戦いなどで父と共に戦功をあげ、天正4年(1576年)には石山本願寺との戦争(石山合戦)で天王寺城の守備を任されている。

塙直政の戦死によって父が石山本願寺攻めの指揮官になるとこれを補佐し、平行して畿内各地に援軍として出兵するが、石山合戦では一向に結果が出せなかった。業を煮やした主君・織田信長が天正8年(1580年)に朝廷を動かして本願寺と和睦すると、19ヶ条に渉る譴責状を突きつけられ、父共々高野山へと上った。譴責状では「甚九郎覚悟の条々 書き並べ候えば 筆にも墨にも述べがたき事(信栄の罪状を書き並べればきりがない)」と酷評されているが、茶器の収集や茶会の出席などに精を出し、茶の湯三昧の日々を送っていた事は事実らしい。のち、信長によって高野山からも追い出されている。

父の死後、天正10年(1582年)1月には赦免されて信長の嫡男・信忠に仕え、本能寺の変後は信忠の弟・信雄に仕えた。小牧・長久手の戦いでは大野城を築いて滝川一益と戦ったが、守備していた蟹江城を留守中に一益に落とされるという失態を演じたのが事実上最後の従軍で、これ以降は76歳で死去するまで合戦に従軍したという記録は無い。信雄が改易されると茶人として豊臣秀吉に召抱えられ、大坂の陣後は徳川秀忠御咄衆として武蔵国児玉郡、横見郡に3,000石を与えられた。

寛永8年(1632年)、江戸で死去。法名は宗岩。墓所は京都紫野大徳寺の高東院。2男7女のうち息子2人に先立たれていたため、弟の信実と同族の佐久間安政の次男・信勝と従弟の信重を養子に迎えた。信実は信栄に先立って亡くなり、信勝も子供の無いまま亡くなり1代で断絶したが、信重の子孫と信実の遺児・盛郎の子孫は旗本として存続した。

細川家に再仕官した旧臣の久野次郎左衛門あての不干斎書状2通が現存している[3]

脚注

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参考文献

関連項目

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  • 同じく不干斎を称した不干斎ハビアンとは関係ない。
  • 寛政重修諸家譜』では正勝、『佐久間軍記』では信勝
  • 肥後細川藩拾遺 http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/434131cb6e7b7d316bb9d5c20707fc54