テト攻勢

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | テト攻勢
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 300px
北ベトナム人民軍と南ベトナム解放民族戦線の攻撃地点(赤矢印)および都市内での軍事行動(赤い枠線)
戦争ベトナム戦争
年月日1968年1月30日
場所南ベトナム主要都市
結果:軍事的に共産側の敗北、政治的にアメリカ側の敗北
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 22px北ベトナム軍
22px南ベトナム解放民族戦線(NFL)
22px南ベトナム軍
22px駐ベトナム米軍
22px大韓民国
22pxオーストラリア
22pxニュージーランド
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | グエン・チ・タイン人民軍大将 ウェストモーランド駐ベトナム米軍総司令官
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 32万3000人~59万5000人 100万人
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 戦死 32,000人
負傷 50,000
捕虜 5,800[1]
戦死 6,328人
負傷 20,663

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テト攻勢(テトこうせい、ベトナム語Sự kiện Tết Mậu Thân漢字:事件節戊申)は、ベトナム戦争において1968年1月30日夜から展開された北ベトナム人民軍(NVA)及び南ベトナム解放民族戦線NLF、ベトコン)による大攻勢である。これはベトナム戦争最大の転機となった。「テト」とはベトナム語の旧正月を意味する言葉で「節」という漢字のベトナム語読み。

概説

旧正月の祝日であるテトの期間は、南北ベトナム軍双方、暗黙のうちに休戦期間とする慣例があった。しかし1968年は、北ベトナムと解放戦線側は南ベトナム全土での大規模なゲリラ攻撃を企画し、私服の戦闘員を各都市に浸透させ、拠点に武器を集積するなど準備したのち、1月30日未明、一斉に蜂起した。南ベトナム全土の政府施設・インフラ施設・アメリカ側の施設・軍事拠点が攻撃対象にされたが、中でも古都フエ、南ベトナムの首都サイゴンは最重点目標とされ、サイゴンではタンソンニャット国際空港アメリカ大使館に攻撃目標が置かれた。ほとんどの都市で北ベトナム軍による軍事行動がとられ、ケサン米軍重砲基地も攻撃対象に含まれていた。特にダナンでは大激戦となった。

攻勢側の襲撃

ファイル:Damage Done!.jpg
べトコンに一時占拠されたサイゴンのアメリカ大使館

一般に攻撃側の士気は非常に高かった。アメリカ特命全権大使、駐ベトナム軍総司令官は辛くも難を逃れたが、アメリカ大使館は一時、べトコン側に占拠されてしまった。南ベトナム大統領官邸もべトコンに襲撃されたが、こちらは南ベトナム軍側が防衛に成功した。やがてアメリカ軍と南ベトナム軍の爆撃によって攻勢側の拠点は多くが奪還されていった。

北ベトナム軍総司令官のヴォー・グエン・ザップはテト攻勢には反対の立場であったが、他の北ベトナム軍幹部らや南ベトナム解放民族戦線に押し切られる形で、作戦を実行する事となった。南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍は、都市の密集した人口が盾となりゲリラを守ると想定していたが、実際にはチョロン、フエ、ミト、カントーはじめ都市部の人口密集地域にもアメリカ空軍とサイゴン政府空軍により猛爆が加えられ、民衆もろとも多大な犠牲を払うこととなった。

フエ事件

南ベトナム解放戦線は占領した街で南ベトナム政府関係者を形だけの路上裁判で次々に処刑していったが、その中には文民 (その多くが政府職員) や修道女も含まれていた。フエでは予め処刑者の名簿が配られており、名簿に名前がある人物はほとんどが後頭部に銃弾を撃ち込まれて射殺された。この攻撃は結局、南ベトナム解放戦線への恐怖を南ベトナム国民に知らしめる役割を果たした。


攻勢の結果

事態はメディアを通じて世界に報道された。特に50年代から60年代に普及したテレビにより、生々しい映像が全米に伝えられ、世論に大きな影響を与えた。また南ベトナムの警察庁長官グエン・ゴク・ロアン(阮玉灣)はサイゴンの路上で、ベトコンの捕虜、グエン・ヴァン・レム(阮文歛)を短銃で即決処刑する。その残酷な場面はカメラマンのエディ・アダムズに撮影され、世論に衝撃を与えた。アダムズはこの写真(『サイゴンでの処刑』)で1969年度ピューリッツァー賞 ニュース速報写真部門を受賞した。

戦術的には、解放戦線側は損害が大きいわりに成果は少なかった。アメリカ軍と南ベトナム軍は勝利したものの、ベトナム戦争の終結は間近であると知らされていたアメリカ国民にとって、一時的にせよアメリカ大使館が占拠される事態は、大きなショックとなった。特に、フエやチョロンその他デルタ地帯の都市部への空爆の実態などもあらためて米国民の知るところとなり、これによりアメリカ国内の反戦気運は非常に高まり、リンドン・ジョンソン大統領は次期大統領選挙への出馬を取り止めた。

アメリカの反戦運動を盛り上げ、ジョンソン政権には大きな圧力を加え、結果的にアメリカ政府の継戦意思の転機となったテト攻撃で、北ベトナムが得た政治的成果は大きかった。当初は攻勢へ反対意思を示していたザップも、結果として戦略的成功である事を認めたと言われる。以後、アメリカは脱ベトナムの方策を模索するようになる。

参照

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関連項目

  • Smedberg, M (2008), Vietnamkrigen: 1880-1980. Historiska Media, p. 188