フエ

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フエHuế)は、ベトナム中部の都市で、トゥアティエン=フエ省省都である。19世紀から20世紀にかけてベトナムに存在していた阮朝の首都に定められていた。

フエはフランス語風にユエと呼ばれることもある[1]。フエの漢字名の「順化(トゥアン・ホア、Thuận Hóa)」は、14世紀陳朝が設置した順州・化州に由来する[2]。二つの行政区画のうち、かつてフエの町が属していた「化州」の漢字音hoá)が転訛して、町はフエと呼ばれるようになったと考えられている[1][3][4]。フランス植民地時代にトゥアン・ホアを訪れた外国人は、町を「スェウナ」「スィネア」「シネア」と呼んでいた[5]

ユネスコ世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」、無形文化遺産に「フエの雅楽」が登録されている。

地理

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洪水に見舞われたフエ(2009年)

標高15m、南シナ海に面する海岸から約16km離れた内陸部に位置する[1]安南山脈の支脈が町の背後を囲み、町は丘に囲まれた沖積地の上に建てられている[6]

市の中央をフオン川Hương Giang、香江)が流れ、北側にはボー川が流れる。フエはフオン川を挟んで旧市街と新市街に分かれており、チャンディエン橋、フースアン橋などの橋が新市街と旧市街を結んでいる。9月から11月にかけての雨季にはしばしばフオン川が増水し、新市街の家屋の一階部分が水没する[7]。1820年に旧市街を囲む城壁が、1904年にはチャンディエン橋が町を襲った洪水によって流された[8]

フエの郊外には宿泊施設を併設した温泉がいくつか存在する[9][10]

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歴史

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テト攻勢時のフエ

紀元前111年前漢によって設置された日南郡の首府は、フエ近郊に位置すると推定されている[11]

2世紀末に建国された林邑(チャンパ王国)の首都はフエ付近に存在したと推定されている[3]。林邑の時代のフエは東南アジア内陸部の物品を中国に出荷する積出港として機能していた[12]。中国の史料に現れるチャンパの地名「烏麗」「烏里」はフエに比定され[13]、烏里には多くのチャム人が住んでいた[1]。制氏、潘氏といったチャム人の名家は、フエがキン族化された後も名門の地位を保ち続けた[1]

1307年に北ベトナムの陳朝とチャンパ王国の間に結ばれた協定によって、烏里は陳朝に割譲されて化州と改称された。1401年から1402年にかけて、胡朝紅河デルタ地帯の住民をフエに移住させる[14]1407年に胡朝を滅ぼしたがベトナムを支配下に置いた後、陳朝の王族の生き残りはフエを拠点として、1413年まで明に抵抗を続けた[15]1558年阮潢(グエン・ホアン)入城までにフエのキン族化はほぼ完了していた[1]

15世紀末までのフエは北ベトナムの政権とチャンパ王国の国境に位置する都市に過ぎなかったが[16]、16世紀から始まる南北抗争時代にフエは広南阮氏の本拠地とされ、1636年に富春(フースアン)都城が完成する。広南阮氏の時代のフエは南シナ海貿易の中心地として繁栄していた[17]西山党の乱の時代、1774年に鄭氏、1786年に西山阮氏の阮恵(阮文恵)がフエを占領した。フエを本拠地とした阮恵は北平王を称し、クアンビンからハイヴァン峠に至る地域を支配した[18]

1801年阮福暎(嘉隆帝、ザーロン帝)はフエを制圧し、町を阮朝の首都に定めた。ザーロン帝はヴォーバン様式に基づいた星型の城郭を持つ王城の建設を計画し[1]、1805年にサイゴンに置かれていた太和殿がフエに移されて王宮の建設が開始される[19]。阮朝時代のフエは、中国的要素が強い北ベトナムで培われた文化に南ベトナムのチャンパ文化を取り入れて発展していく[20]。阮朝第4代嗣徳帝(トゥドゥク帝)は広南阮氏の正史『大南寔録正編』を編纂させたことで知られるが、建築事業も大々的に行い、現存する市内の王宮及び郊外の帝陵は彼によって整備された。

1883年にフエはフランスによって占領され、この地で二回にわたって条約が締結された。第二次フエ条約(パトノートル条約)によってベトナムがフランスの保護国とされた後も、阮朝の皇帝は第二次世界大戦末期までフエの宮殿に住み続けた[1]1945年8月24日に皇帝バオ・ダイは退位を宣言してフエを去り、阮朝は滅亡する(ベトナム八月革命)。

1963年ティエンムー寺ティック・クアン・ドック、トゥーダム寺のティック・ティウ・ディウらの僧侶が民主化・伝統的仏教の弾圧を行うゴ・ディン・ジエム政権に抗議して焼身自殺を行った[21]1968年テト攻勢では1月31日から2月24日にかけてフエで戦闘が展開され、町は多大な被害を被った[22]。テト包囲戦の中で、およそ2,800人の官吏、警官、教師、学生が南ベトナム解放民族戦線の兵士によって殺害された(フエ虐殺[23]

人口

1956年 1968年 1989年 1994年 1996年 2005年
人口 95,000[3] 156,000[6] 211,000[24] 274,102[20] 286,000[4] 305,000[1]

経済

象牙細工、ガラス細工がフエの特産品となっている[3]。ほか、町では精米、製材、繊維、セメント工業が行われている[25]

フエの台所として知られているドンバ市場はコンクリート造りの2階建てのビルで、1階では雑貨や生鮮食品、2階では衣服が販売されている[26]。1986年の台風でドンバ市場は一度は崩壊したが、後に建て直された[26]。ドンバ市場の前のチャンフンダオ通りには、飲食店、電化製品店、雑貨屋などの商店が軒を連ねている[27]

建築物

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旧市街

かつてフオン川北岸(左岸)の旧市街(京師)には阮朝の官僚と庶民が住み、南岸(右岸)の新市街にはフランス人居住区が置かれていた[1]。北の旧市街には王宮と下町、南側には官公庁、学校、病院が建てられている[28]。また、ホテルも新市街に集中して建てられている[27]

旧市街は城壁に囲まれた碁盤の目状の方形都市であり、その南側に更に城壁と堀に囲まれた王宮がある。フエに建てられた阮朝の建造物群には、中国式の建築様式にバロック建築とベトナムの伝統的な建築が取り入れられている点に特徴がある[29]。観光客は船でフオン川を下りながら、川沿いに建つ名跡を見学するツアーを利用する事もできる[30]

フエ旧市街を囲む城壁は、フランス帰りの建築家レー・ヴァン・ホクLê Văn Học、黎文学)が設計したものである。城壁内部の建築は北京の王城の形式に倣い[3][19]、北京の紫禁城を4分の3に縮小した王宮が置かれている[31]。このため、フエ王宮は中国の王宮の模倣と言われることもある[32]。王宮の東側には、国子監や六部などの官庁が置かれていた[31]。現在、王宮はフエ遺跡保存センターによって管理されている[1]

城壁は一辺2.2km、高さ6.6m、幅21mに及び、外には濠が掘られている[19]。城壁には11の門があり[3][33]、城壁の建設にあたっては各地から瓦、木材が集められ、およそ30,000人が動員された[19]函館市五稜郭と同じフランス式の星型城郭で、ヴォーバン様式と呼ばれる。1968年のテト攻勢で南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍が旧市街に立て籠もった時にフエは戦火に巻き込まれたが、城壁は攻撃を耐え抜いた[33]。城壁の外にはトランビンダイ、トランハイタンなどのフオン川の通行を監視するための砦が築かれ、それらの砦は川の波や嵐に耐えられるよう、丸い形をとっている[34]。内部の建物の配置には風水説が取り入れられており[1]、王宮や南の陵墓の造営にあたっては中国から招聘した風水師の意見が容れられている[35]

王宮の南側には、見張り台として使われていたフラッグ・タワーが存在する。台座の高さは17.4m、塔の頂上までの高さは29.59mに至る[36]。フラッグ・タワーはベトナム戦争や天災の被害を受けて何度も破壊されたが、1969年に再建された[36][37]。フラッグ・タワーの左右には9門の大砲が置かれており、右側の4門の大砲は四季を、左側の5門の大砲は五行思想を表している[38]。大砲が実際に使用されることはなかったが、霊的な力によって王宮を守護する役割を果たしていたと見なされている[39]

王宮

王宮地域は縦604m、横622m、高さ4m、厚さ1mの城壁で守られている[34]。城壁の外には濠がめぐらされ、水量は四方の水門で調節することができる[31]。王宮の建造物の上部はふんだんに使われた陶磁器やガラスの破片で装飾されており、これらの装飾には悪霊の侵入を防ぐ意図もあったと考えられている[40]。屋根瓦の固定に使われている漆喰は、建物の装飾にも使用されている。王宮の建築物に代表される阮朝建築は、2つの建物を屋根で結合して1つの建物とし、広い空間を作り出す点に特徴がある[41]。2つの建物の屋根の間には雨水を流すための溝(樋)が設けられているが、ベトナムの集中豪雨を樋だけで処理することは難しく、漏水、木材の腐食が問題になっている[41]

午門と呼ばれる王宮の正門は、正午になると太陽が門の真上に来るように設計されている[42]。午門には複数の入口があり、中央の入口は皇帝専用の通り道になっていた[42][43]。中央の入り口は鉄の柵で閉鎖されているため、使用する事はできない[43]。午門が完成した1834年には門の上に木造2階建て、5つの望楼を有する五鳳楼が建てられ[42]、建設当初の五鳳楼には金箔が貼られていたといわれている[43]。かつて午門はシロアリによる多大な被害を受けていたが、ユネスコによる修復作業や日本からの援助によって、門の崩壊に対策が施された[44]。フエ王宮の午門も、やはり北京の紫禁城に設けられている午門をモデルにしている[17][45]

午門を抜けると、左掖池と右掖池に挟まれた道が現れる。池の左側に設けられた空間では皇帝が騎乗する象と馬が飼われ、右側の空間には兵舎が建てられていた[4]。王宮の中央には阮朝の政治の中心となっていた太和殿が建ち、太和殿の後方には塀で囲まれた禁裏(紫禁城)が置かれている。太和殿の大きさは縦30.5m、横44m、高さ11.8mに及ぶ[42]。太和殿の屋根、柱、玉座には皇帝のシンボルである龍があしらわれている[35]。1968年に太和殿は戦渦に巻き込まれて全壊したが、1970年に再建された[43]。太和殿の大広間の中央には、皇帝が座る金箔張りの椅子と台座が置かれている。

他の王宮内部の建築物

  • 顕臨閣(世廟) - 太和殿の西に建立されている歴代皇帝と皇后を祀った廟。顕臨閣の庭には、元朝の下でベトナムが統一されたことを表す9つのが置かれている[46]。鼎には歴代皇帝の名前とベトナム各地の四季の風景が刻まれており[47]、最も大きい中央の鼎はザーロン帝に奉げられたものである[46]。フエの建造物の中でも顕臨閣は比較的保存状態が良く、1947年のフランス再上陸で被害を受けたものの、修復が行われた[48]
  • 長生殿(延寿宮) - 1803年にザーロン帝が母親のために建てた住居[36][49]。かつては中国式のランプなどが据え付けられていたが、戦災や盗難によって破損したため、建て替えられた[36][49]
  • 安定宮 - 啓定帝(カイディン帝)の離宮として使われていた建物。バオ・ダイの即位まで皇帝の住居として使用されていた。
  • 閲是堂 - かつて皇族がニャーニャク(雅楽)を鑑賞していた劇場を復元した建物。宮廷音楽と宮廷舞踏のショーが上演されている。
  • 右廡、左廡 - 宿直の高級官僚の控室。右廡は王宮で使用されていた生活用品の展示室、左廡は記念撮影所として使用されている。

遺跡、阮朝歴代皇帝の陵墓

フエの内部と郊外には、多くの遺跡が存在する[1]。旧市街の対岸に存在する虎園は直径約20mのレンガ造りの円形闘技場で、チャム人の遺跡の上に建てられている[50]。虎園は1831年にミンマン帝の命によって造営され、その中ではゾウとトラの戦いが催されていた。虎園で戦うゾウは権力あるいは正義、トラは敵対者の象徴であり、トラの牙と前足の爪はあらかじめ抜かれてゾウに有利な戦いになるように仕組まれていた[50]。虎園が建てられた理由について定説はなく、儒教思想による皇帝権力の誇示、キン族による先住民支配の強調などが理由として挙げられている[50]

町の郊外の南には南郊壇、フオン江の上流の丘陵には阮朝歴代皇帝の陵墓が建てられている。元来は皇帝の陵墓の敷地面積は明確にされていなかったが、阮朝最後の皇帝であるバオ・ダイによってそれぞれの陵墓の範囲が定められた[44]

阮朝の第2代皇帝ミンマン帝の廟は公園とされ、市民に憩いの場として親しまれている[31]。皇帝の存命中から建設計画が立てられていたミンマン帝の廟は、自然の地形を活用した構造になっている[51]。ミンマン帝の廟には華美な装飾が施されており[52]、中庭に並ぶゾウ、ウマ、官吏の石像は、死者の霊魂を守るために作られた[53]。陵墓の敷地にはミンマン帝の霊廟のほかに、皇帝と皇后の位牌が納められた崇恩殿などの建物やハス池などが設けられている。雨季には敷地内の池に水が流れ込むため、水門を使って池の水量を調節している[51]。洪水や台風の際にしばしば冠水し、外周壁、敷地内のマツが被害を受けた[51]。ミンマン帝の霊廟は小高い丘の上に建てられているが、彼の遺体は陵墓に埋葬されておらず、実際の埋葬場所は明らかになっていない[53]

カイディン帝の廟の意匠にはバロック様式の影響が見られ[54]、廟の内部の壁と天井は磁器やガラスで装飾されている[55]。バロック様式だけでなく、仏教寺院、ヒンドゥー教寺院、キリスト教寺院の特色が見られ、西洋と東洋の建築様式が混合した建物になっている[55]。内部には金箔が貼られたカイディン帝の銅像が置かれ、像の約9m下に皇帝の遺体が安置されている[55]

紹治帝(ティエウチ帝)の廟は小さく、皇帝本人の希望によって塀は立てられていない[30]

阮朝の創始者であるザーロン帝の陵墓は荒廃した状態に置かれている[32][55]。他の皇帝の廟と異なり、自然の地形が生かされた構成になっている[55]。ザーロン帝の廟は最も南に位置し、他の陵墓のおよそ5倍の面積を有する[56]。陵墓の区画は3つに分けることができ、手前の区域にはザーロン帝の事績を記した石碑、中央の区域には位牌と形見の品が置かれ、最も奥の区域にザーロン帝の遺体が埋葬されている[56]

寺院・教会

多くの寺院が建つフエの町には「百の寺がある」とも言われる[57]。フエの多くの寺院の中でも、チャム人によって作られたレンガの丘の上に建つ[4]ティエンムー寺(テンプレート:Vie)が特に有名である[3][58]。ティエンムー寺に置かれている亀の石像の甲羅には、仏典の一節、皇帝の事績、寺院の建立年などを記した石碑が載せられている[59]。ティエンムー寺の側に建てられているトゥニャン塔(慈仁塔)は高さ約21mの風水塔であり、各層に仏像が安置されている[59]。本堂の裏側には、焼身自殺をしたティック・クアン・ドックが生前に使用していたオースチンが展示されている[60]

ほか、1674年建立のバオクオック寺[9]、1959年にアメリカの援助によって建立されたフエ大教会(聖マリア救済教会)[9]などの寺院がある。フエ大教会はヨーロッパのカテドラル建築とベトナムの伝統的な建築様式の両方が取り入れられた建物として知られている[9]。フオン川沿岸に建つホンチェン殿は、元々チャム人がポーナガール女神を祀っていた場所だった[61]

家屋

フエの伝統的な家屋の建築様式は正方形の住居のロイ(Roi)、ロイを発展させたルオング(Ruong)、町屋のフォ(Pho)の3種類に分けられる[62]。ロイは中部ベトナムの住宅の原型となった建築様式だと推測されており、庶民の家屋だけでなく王族の女性の住居にも採用された[63]。宮殿と伝統的な家屋の架構は基本的には同一の構造であるため、宮殿は「大きな家屋」に例えられることもある[64]

庭園付邸宅のルオングはニャーヴオン(園宅)とも呼ばれ[65]、かつては旧貴族・皇族・高級官僚の住居とされていた[66]。小さいながらも豪華な作りがニャーヴオンの特徴で家屋に付随する庭園の面積は広く[66]、庭園は母屋の南側に設置されている[65]。庭園には衝立、池、築山、蓮池、鉢植え、井戸などが設けられている。庭園の随所に植えられた樹木と花は木陰を作り、視覚を楽しませるだけでなく、祖先への供え物ともなっている[67]。庭園は琵琶(ティバ)や筝(チャイン)などの伝統的な楽器の演奏の場や武術の稽古の場になっているが、家の持ち主によってカフェやカラオケに改築された例もある[68]

フエの建造物群の世界遺産登録までの経緯

19世紀のフランスの攻撃でフエは被害を受けたが、町の建築物は20世紀半ばまでほぼ無傷のまま保たれていた[69]。しかし、1946年からの第一次インドシナ戦争で王宮の主要な建物は破壊され、1960年代のベトナム戦争によってフエの建造物は多大な被害を受ける[69]。ベトナム戦争で王宮の約80%が焼失し[17]、午門、太和殿、顕臨閣といった少数の建物だけが残った[69]。王宮には弾痕が残り[70]、戦後の復興期には遺跡に使われていた石材を持ち出して家を建て直す住民もいた[40]

1978年秋に開かれたユネスコ総会で「フエ遺跡救済のための国際運動」プロジェクトが承認されたが、同年12月のベトナム軍のカンボジア侵攻によって、国際世論からの協力は得られなかった[71]。1984年からベトナム政府は文化遺産保護運動を推進し、1988年にフエの建造物群は「歴史的重要性を持つ記念物」に指定された[72]。同1988年12月に日本の東洋史学者・山本達郎は自国の外務省にフエ王宮の午門の保全状況が危機的な状況にあることを伝え、遺跡の保護を訴えた[73]。当時東南アジア各国の視察を行っていた上智大学アジア文化研究所の文化遺産調査団は外務省の要請を受けて予定を変更し、1989年にベトナムを視察し、遺跡の状況を報告した[73]。調査団の訪問後、ハノイの文化省は政府、ユネスコ、フエ現地の関係者を集めて「フエ遺跡救済のための国際運動」作業部会を開催した。作業部会において、フエ側の出席者からはベトナムの厳しい気候と天災、ベトナム戦争によって遺跡の損傷が進んでいることが報告された[74]。同時に損傷に歯止めをかけるための応急処置、政府と国際社会からの資金援助が提案される[75]。ベトナム政府はフエ一帯が有用な観光資源になりうると考えていたが、予算の不足のために十分な対策は行われなかった[76]。1992年に文化遺産保存日本信託基金を通した多国間援助により、初めて国外からの遺跡の保護・修復への援助が実現した[76]。1993年に、「都市計画と防御機能を備えた首都の好例、19世紀初頭のベトナム封建王朝の権力の象徴」を事由として[41][77]、「フエの建造物群(Complex of Hué Monuments、Ensemble de monuments de Huê)」がユネスコの世界遺産に登録される[78]。世界遺産登録後にフエを訪れるベトナム人観光客の数は大きく増加し、1994年に1,000,000人を超えた[79]

比較的新しいフエの建造物群には歴史的に高い価値があるとは言い難いという見方、ベトナムの権力者が抱いていた精神文化を象徴する文化遺産として評価する見方がある[32]。考古学的価値がより高いと思われるミーソン聖域よりも先にフエの建造物群が登録されたことと、北ベトナムよりも先に中部ベトナムの文化遺産が登録された点には、ベトナム政府の政治的意向が関与している可能性が指摘されている[80]

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/core

文化

水上生活者

フオン川には、屋根付の小舟で一生を送る水上生活者が多く住んでいる。1つの舟には5人から10人の家族が住み、母屋の役割を果たす舟のほかに漁や輸送に使う小舟を備えている[81]。水上生活者は川の流れの要所要所に集まって小さな集落を形成し、その様子は「万の渡し船」と呼ばれている[81]。伝統的に水上生活者は木造の舟を使用していたが、発動機や照明用のバッテリーの導入などの機械化も進展している[81]。また、観光客用に皇帝が乗っていた竜船や鳳船を建造し、船上で伝統音楽の演奏を提供する者もいる。

フエ市当局は精神生活と文化生活の向上を理由として、水上生活者の陸上への転居を推進している[81]

音楽

かつての阮朝の宮廷ではニャーニャク(雅楽)などの宮廷音楽が演奏されていたが、帝政の廃止によって一時的に伝統は断絶する[82]。フエの建造物群が世界遺産に登録された後、1994年からユネスコによってフエの無形文化遺産の調査が進められた。

1994年にフエで開催された国際会議で、継承者が少なくなりながらもフエの宮廷音楽と祭祀の伝統が細々と存続していることが伝えられ、各国の研究者からそれらの文化の重要性が指摘された[83]。日本の音楽学研究者らの助力によってフエ芸術大学に宮廷音楽の専攻コースが設置され、継承者の育成が再開される。2003年に、ニャーニャク(雅楽)、チャウヴァン(女神祭祀音楽)、トゥオン(伝統舞踏)が「フエの雅楽」(Nhã nhạc cung đình Huế)としてユネスコ無形文化遺産に登録された[84]。また、ニャーニャクを元にしてカ・フエ(フエの歌)、ダン・フエ(フエの演奏)といった、多くのレパートリーがある地方音楽が生まれた[85]

衣服

ベトナムの民族衣装として知られるアオザイノンバイトーは、フエ発祥の衣装といわれている[81]。ベトナム全土の衣服を統一するため、1828年にアオザイが標準的な衣服に制定された[81]

食文化

ファイル:Com Hen at Hue Vietnam.JPG
「コムヘン」(しじみ茶漬け)

フエ料理は、唐辛子を使った辛い味付けの料理である[86]。小皿で出される料理や一口大のものなど小さくまとまった料理が多い点に特徴があり、米粉を蒸した料理が多い[87]。唐辛子が多用されるフエ料理の特徴について、フエの先住民族であるチャム人の香辛料を多用する食文化との関連性を推測する意見もある[88]。阮朝時代の宮廷では華美な料理が供され、再現された宮廷料理のフルコースを供するレストランも存在する[89][90]。宮廷料理のレシピが役人の家庭に伝わり、さらに役人の家庭から庶民に広まって、フエの大衆料理が発展していったと言われている[90][91]。食費や食材が限られているため、一般の住民の料理は宮廷料理と違ってごく簡素なものになっている[89]。宮廷料理と大衆料理のほかに僧侶が食べる精進料理があり、フエの料理はこの3種類に大別することができる[91]。また、その立地上、フエの市場には北ベトナム、南ベトナム両方の料理で使われる食材が並ぶ[92]

フエ料理の品目にはブンボーフエ、コムヘン(しじみを使った汁かけご飯)などのものがある。バインベオ、バインナムといった水で溶いて蒸した米粉を使った料理には、唐辛子を多く入れたつけ汁が使われる[89]。宮廷料理にはコムセン(ハスの実入りご飯)、一口大のチャーヨー(揚げ春巻き)をパイナップルに刺して盛り付けたものがある。フエ名物の菓子としては緑豆の餡を餅で包んだバインスーセー、バイニットデンが知られており、コース料理のデザートとして供されることが多い[93]

美術館・博物館

  • フエ宮殿美術館 - 1845年に王城の東に建設された建物を1923年に改装した施設[9]。美術品や阮朝宮廷ゆかりの品が展示されている。
  • 歴史革命博物館
  • 軍事博物館 - 阮朝時代の国子監の建物を転用した施設。ベトナム戦争初期はアメリカ人の高校として使用され、戦後はベトナム戦争に関する展示を行う博物館として使用されている[94]
  • ホー・チ・ミン博物館
  • ファン・ボイ・チャウ記念館

スポーツ

フエにはトゥーゾー・スタジアムが建てられている。

教育

フエ大学(フエ師範大学、フエ科学大学、フエ医科大学、フエ芸術大学、フエ農林大学、フエ高等師範学校、フエ遠隔地教育センター)、ベトナム仏教学院フエ校(フエ仏教大学)、ベトナム文化通信院フエ分院(フエ文化人類学研究所)などがある。クォック・ホックは名門校として知られており、ホー・チ・ミンヴォー・グエン・ザップなどの人物を輩出した[9]。クォック・ホックの正門は寺の門に似た形をし、赤く塗られている[57]

交通

ハノイ、ホーチミンを結ぶ鉄道、自動車道がフエを通る[25]フバイ国際空港からは、フエとハノイ、ホーチミンを直結する飛行機が運行されている[7][95]。旧市街の北に位置するフィアバック・バスターミナルからは北ベトナム行きのバスが、新市街の南に位置するアンクー・バスターミナルからは北ベトナム行のバスが、ドンバ・バスターミナルからはフエ近郊の町行きのバスが運行されている。

姉妹都市、友好都市

脚注

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参考文献

  • 阿曽村邦昭「ベトナムの文化遺産と国際協力」『ベトナム』下収録(阿曽村邦昭編著, 古今書院, 2013年8月)
  • 伊藤千尋『観光コースでないベトナム』新版(高文研, 2011年4月)
  • 今井昭夫、岩井美佐紀編著『現代ベトナムを知るための60章』(エリア・スタディーズ, 明石書店, 2004年6月)
  • 小倉貞男「フエ」『月刊しにか』1997年8月号収録(大修館書店, 1997年8月)
  • 小倉貞男『ヴェトナム歴史の旅』(朝日選書, 朝日新聞社, 2002年4月)
  • 菊池一雅「フエ」『世界地名大事典』8巻収録(朝倉書店, 1974年4月)
  • 北川元「フエ」『ベトナムの事典』収録(同朋舎, 1999年6月)
  • 久布白兼昭、福川裕一「ホイアンの町家とフエの民家」『昭和女子大学国際文化研究所紀要』1収録(昭和女子大学, 1995年3月)
  • 酒井良樹「フエ」『アジア歴史事典』8巻収録(平凡社, 1961年)
  • 新江利彦「フエ」『東南アジアを知る事典』新版収録(平凡社, 2008年6月)
  • 坪井善明編『ヴェトナム』(暮らしがわかるアジア読本, 河出書房新社, 1995年11月)
  • 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』(地球の歩き方, ダイヤモンド社, 2012年7月)
  • 『コンサイス外国地名事典』(三省堂編修所編, 三省堂, 1985年12月)
  • 『ユネスコ世界遺産 6(東南アジア・オセアニア)』(ユネスコ世界遺産センター監修, 講談社, 1997年1月)
  • 『ヴェトナム』(坪井善明監修, アジア文化交流協会, 1997年7月)
  • 『東南アジア史1 大陸部』(石井米雄、桜井由躬雄編, 世界各国史, 山川出版社, 1999年12月)
  • 『ベトナム』2008-2009年版(新個人旅行, 昭文社, 2008年4月)

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:ベトナムの世界遺産
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  5. 小倉『ヴェトナム歴史の旅』、129頁
  6. 6.0 6.1 菊池「フエ」『世界地名大事典』8巻、1077-1078頁
  7. 7.0 7.1 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、204頁
  8. 小倉『ヴェトナム歴史の旅』、132頁
  9. 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 『ベトナム』2008-2009年版、181頁
  10. 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、224頁
  11. 桜井由躬雄「南シナ海の世界」『東南アジア史1 大陸部』、60頁
  12. 桜井由躬雄「南シナ海の世界」『東南アジア史1 大陸部』、64頁
  13. 桃木至朗「唐宋変革とベトナム」『東南アジア古代国家の成立と展開』収録(岩波講座 東南アジア史2, 岩波書店, 2001年7月)、36-37頁
  14. 桜井由躬雄「亜熱帯の中の中国文明」『東南アジア史1 大陸部』、183頁
  15. 桜井由躬雄「亜熱帯の中の中国文明」『東南アジア史1 大陸部』、186頁
  16. 『ヴェトナム』、付録39頁
  17. 17.0 17.1 17.2 北川「フエ」『ベトナムの事典』、281頁
  18. 桜井由躬雄「ベトナム世界の成立」『東南アジア史1 大陸部』、211頁
  19. 19.0 19.1 19.2 19.3 『ユネスコ世界遺産 6(東南アジア・オセアニア)』、70頁
  20. 20.0 20.1 坪井『ヴェトナム』(暮らしがわかるアジア読本)、37頁
  21. 伊藤『観光コースでないベトナム』新版、109-111頁
  22. 小倉貞男『ヴェトナム戦争全史』(岩波書店, 1992年10月)、212-214頁
  23. 松岡完『ベトナム戦争』(中公新書, 中央公論新社, 2001年7月)、86-87頁
  24. 『コンサイス外国地名事典』第3版(三省堂編修所編, 三省堂, 1998年4月)、824頁
  25. 25.0 25.1 『コンサイス外国地名事典』、848頁
  26. 26.0 26.1 『ベトナム』2008-2009年版、188頁
  27. 27.0 27.1 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、205頁
  28. 小倉『ヴェトナム歴史の旅』、123頁
  29. 今井、岩井『現代ベトナムを知るための60章』、214頁
  30. 30.0 30.1 『ベトナム』2008-2009年版、183頁
  31. 31.0 31.1 31.2 31.3 『ユネスコ世界遺産 6(東南アジア・オセアニア)』、71頁
  32. 32.0 32.1 32.2 小倉「フエ」『月刊しにか』1997年8月号、38-39頁
  33. 33.0 33.1 小倉『ヴェトナム歴史の旅』、130頁
  34. 34.0 34.1 『ユネスコ世界遺産 6(東南アジア・オセアニア)』、70-71頁
  35. 35.0 35.1 『ヴェトナム』、226頁
  36. 36.0 36.1 36.2 36.3 『ベトナム』2008-2009年版、180頁
  37. 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、207頁
  38. 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、207-208頁
  39. 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、208頁
  40. 40.0 40.1 『ユネスコ世界遺産 6(東南アジア・オセアニア)』、73頁
  41. 41.0 41.1 41.2 『ヴェトナム』、付録40頁
  42. 42.0 42.1 42.2 42.3 『ユネスコ世界遺産 6(東南アジア・オセアニア)』、74頁
  43. 43.0 43.1 43.2 43.3 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、206頁
  44. 44.0 44.1 小倉『ヴェトナム歴史の旅』、133頁
  45. 『ユネスコ世界遺産 6(東南アジア・オセアニア)』、72頁
  46. 46.0 46.1 『ユネスコ世界遺産 6(東南アジア・オセアニア)』、76頁
  47. 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、206-207頁
  48. 『ユネスコ世界遺産 6(東南アジア・オセアニア)』、76-77頁
  49. 49.0 49.1 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、207頁
  50. 50.0 50.1 50.2 坪井『ヴェトナム』(暮らしがわかるアジア読本)、216頁
  51. 51.0 51.1 51.2 『ヴェトナム』、45頁
  52. 『ベトナム』2008-2009年版、182頁
  53. 53.0 53.1 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、210頁
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  55. 55.0 55.1 55.2 55.3 55.4 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、211頁
  56. 56.0 56.1 小倉『ヴェトナム歴史の旅』、134頁
  57. 57.0 57.1 伊藤『観光コースでないベトナム』新版、107頁
  58. 伊藤『観光コースでないベトナム』新版、110頁
  59. 59.0 59.1 『ユネスコ世界遺産 6(東南アジア・オセアニア)』、77頁
  60. 伊藤『観光コースでないベトナム』新版、112-113頁
  61. 坪井『ヴェトナム』(暮らしがわかるアジア読本)、44頁
  62. 久布白、福川「ホイアンの町家とフエの民家」『昭和女子大学国際文化研究所紀要』1、47頁
  63. 久布白、福川「ホイアンの町家とフエの民家」『昭和女子大学国際文化研究所紀要』1、47-48頁
  64. 中沢信一郎「ベトナム中部地方・フエの伝統家屋」『アジア遊学』80収録(勉誠出版, 2005年10月)、36-37頁
  65. 65.0 65.1 久布白、福川「ホイアンの町家とフエの民家」『昭和女子大学国際文化研究所紀要』1、50頁
  66. 66.0 66.1 今井、岩井『現代ベトナムを知るための60章』、115頁
  67. 坪井『ヴェトナム』(暮らしがわかるアジア読本)、37頁、39頁
  68. 今井、岩井『現代ベトナムを知るための60章』、116頁
  69. 69.0 69.1 69.2 『ヴェトナム』、222頁
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  71. 阿曽村「ベトナムの文化遺産と国際協力」『ベトナム』下、702頁
  72. 阿曽村「ベトナムの文化遺産と国際協力」『ベトナム』下、702-703頁
  73. 73.0 73.1 阿曽村「ベトナムの文化遺産と国際協力」『ベトナム』下、713頁
  74. 阿曽村「ベトナムの文化遺産と国際協力」『ベトナム』下、714頁
  75. 阿曽村「ベトナムの文化遺産と国際協力」『ベトナム』下、714-715頁
  76. 76.0 76.1 阿曽村「ベトナムの文化遺産と国際協力」『ベトナム』下、715-716頁
  77. 坪井『ヴェトナム』(暮らしがわかるアジア読本)、38頁
  78. 今井、岩井『現代ベトナムを知るための60章』、213-214頁
  79. 坪井『ヴェトナム』(暮らしがわかるアジア読本)、251頁
  80. 阿曽村「ベトナムの文化遺産と国際協力」『ベトナム』下、708頁
  81. 81.0 81.1 81.2 81.3 81.4 81.5 坪井『ヴェトナム』(暮らしがわかるアジア読本)、40頁
  82. 今井、岩井『現代ベトナムを知るための60章』、208頁
  83. 阿曽村「ベトナムの文化遺産と国際協力」『ベトナム』下、719頁
  84. 今井、岩井『現代ベトナムを知るための60章』、114頁
  85. 桜井由躬雄編『もっと知りたいベトナム』第2版(弘文堂, 1995年8月)、256頁
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  87. 『ベトナム』2008-2009年版、185頁
  88. 森枝卓士『ベトナム・カンボジア・ラオス・ミャンマー』(世界の食文化4, 農山漁村文化協会, 2005年1月)、131頁
  89. 89.0 89.1 89.2 今井、岩井『現代ベトナムを知るための60章』、231頁
  90. 90.0 90.1 「地球の歩き方」編集室・編『ベトナム(2012‐2013年版)』、30頁
  91. 91.0 91.1 坪井『ヴェトナム』(暮らしがわかるアジア読本)、42頁
  92. 森枝卓士『ベトナム・カンボジア・ラオス・ミャンマー』(世界の食文化4, 農山漁村文化協会, 2005年1月)、125-126頁
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  97. Ville ouverte sur le monde(2014年6月閲覧)
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