主権

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テンプレート:政治 主権(しゅけん、テンプレート:Lang-it-shortテンプレート:Lang-fr-shortテンプレート:Lang-de-shortテンプレート:Lang-en-shortテンプレート:Lang-es-short)は、主として憲法国際法で用いられる、国家の最高独立性を表す概念である。

概要

「主権」概念の内容については、一般的には、国家の最高独立性を表す概念で、最高権統治権最高機関の地位のおおよそ三つの基本的意義があると理解されている[1]

日常的な意味は「至上であること」ないし「最高であること」であるが、長い歴史を有する多義的な概念で、論者によってさまざまな意味が盛りこまれることがある。

歴史的に、憲法における概念としては、フランスにおける絶対王政の確立に伴い、自己の意思に反して何者にも制限を受けないという君主神聖ローマ皇帝ローマ教皇からの対外的に独立した最高権、君主の諸侯に対する自国内における最高の統治権ないし最高決定力を理論的に擁護するための政治的な概念で、国家そのものである君主の有する権力を表す概念として統一的に把握されたが、民衆の政治参加の進展に応じた国家の概念の変化に伴い、自国内における政治の在り方を決定する最高の機関の地位の所在が問題となり、三つの基本的意義に分解された概念である。同様に、国際法における概念としては、ヨーロッパ全土を巻き込んだ宗教戦争の到達点であるヴェストファーレン条約によって確立された概念である。

中世のフランスのレジスト(Legisten、レギステン)と呼ばれるローマ法の注釈学者の一派が先鞭をつけ、ジャン・ボダンが理論的に確立した概念である。ホッブスによって社会契約説と結びつき、ロックルソーによって人民主権の概念と結びつき、近代国家を形容する概念となった。

歴史

「主権」の概念の原型は、ローマの法学者ウルピアヌスの「元首は法に拘束されず」(princeps legibus solutus est)、「元首の意思は法律としての効力を有する」(Quod principi placuit、legis habet vigorem)との法解釈に遡ることができるが、1100年ボローニャに法学校ができ、やがて大学へと発展して、1240年ローマ法大全の標準注釈が編纂されると、全ヨーロッパから留学生が集まるようになり、ローマ法が普及していった。

当時大学はカトリック教会とは切っても切り離せぬ密接な関係にあり、ローマ法が全ヨーロッパに普及するに連れて、カトリック教会は、宗教的権威を背景に、ローマ法の研究を進めて教会法を制定し、独自に教皇領を持って世俗的な権力を行使するようになっていった。そのため、中世ヨーロッパ秩序においては、神聖ローマ皇帝や諸侯は、ローマ・カトリック教会の宗教的権威に従属し(参照:カノッサの屈辱)、世俗的支配関係は、土地を媒介として重層的に支配服従関係が織り成される封建制により規律されていた。例えば、神聖ローマ帝国においては、領邦君主帝国等族として皇帝に従属し、領邦においては、領邦等族が領邦君主に従属していた。

しかし、このような中世的秩序は、以下のような過程を経て、徐々に崩壊し、国内の権力が徐々に君主に集中して絶対王政が確立して近代国家が成立することになる:

  • フランスでは、神聖ローマ帝国(現在のドイツ)に対抗するという政治的な理由から、フィリップ2世1219年ローマ法の適用を禁止し、神聖ローマ皇帝に対する独立性を擁護するための理論を模索していた。
  • フランスでは、フィリップ4世は、レジストと呼ばれるローマ法学者を重用し、君主の神聖ローマ皇帝、ローマ教皇からの対外的独立性を擁護するための理論の確立を図り、1302年に聖職者、貴族、平民の代表者を集めて全国身分会議(l'États généraux)を開催した。
  • フランスでは、1303年アナーニ事件をはじめとするバビロン虜囚をきっかけに教皇、ローマ・カトリック教会の権威は失墜するようになった。
  • フランスでは、 シャルル7世は、ジャン・ボダンニッコロ・マキャヴェッリの影響の下で、国王の主権の概念を持ち出し、1438年にローマ教皇に対しフランス教会の自立を主張した。
  • マルティン・ルター等の宗教改革により、カトリック教会の宗教的・政治的権威が揺らぎ、宗派間の対立が激化し、多くの宗教戦争が起った。
  • 1555年、宗派間対立の妥協として、アウクスブルクの和議により「ある者に領土の属する場合には、その者に宗教もまた属する(cuius regio, eius religio)」という領邦教会制が生まれた。この結果、領邦君主が領邦の宗教をルター派とすることにより、カトリック教会の支配から独立することが可能となった。
  • 1648年、宗教戦争である三十年戦争の講和条約として、ヴェストファーレン条約が締結された結果、ヴェストファーレン体制という勢力均衡の国際的な枠組が生まれ、国際法上国家は平等であるという原則、主権国家体制が形成された。
  • フランスでは、17世紀、ルイ14世が絶対王制を確立し、自国内の最高統治権を把握した。「朕は国家なり」との言葉のとおり王権神授説に基づき主権を有する君主=国家と考えられていた。ホッブズは、ボダンの主権論と社会契約説を結びつけて、絶対王制を擁護した。
  • 17~18世紀にかけて、ホッブズの主権論を批判的に承継したロック・ルソーによって人民主権論が発展させられた。
  • 1775年アメリカ独立戦争が起こり、1783年パリ条約でイギリスがアメリカ合衆国を主権国家として認めた。
  • ルソーの人民主権論はフランス革命に影響を与え、ルイ16世ギロチンで処刑され、ナシオン主権論に基づく1791年憲法が成立した。
  • ナポレオンの侵攻が原因で、1806年ライン同盟が成立し、神聖ローマ帝国は消滅した。この結果、領邦国家は、法的には他者に従属しない存在となった。そのほかにも神聖ローマ帝国において次のことが起こり、中世的な身分秩序は完全に崩壊した。
    • 世俗化(Säklarisation)により、聖界諸侯の領邦は廃止された。
    • 陪臣化(Mediatisierung)により、すべての聖界諸侯と多くの俗界諸侯が、皇帝ではなく領邦君主からレーン権(Lehnsrecht)を封じられることになった。つまり、帝国直属の等族(reichsunmittelbare Stände)ではなくなった。結果として、残存した領邦は大規模化した。

以上のような宗教的及び世俗的権力の闘争の過程を通して、中世的な王国(regnum)が解体して近代になって生まれたのが国家(state)なのであり、近代国家の成立と共に、あらゆる世俗的及び宗教的権威から超越した理性的かつ絶対・万能であることを特徴とする主権概念が成立したのである。

基本的意義

「国家(領土・領海・国民・国家体制など)を支配する権限」であり、次の特質を持つ。

最高権(対外主権)

国家が外に対して独立している」ということが、「主権」の内容として語られる。国家は互いに平等であり、その上に存在する権威はないため、「最高独立性」といわれることもある。近代国家である以上、対外的に独立していなければならず、逆に、対外的に独立していない場合は、それは国家ではない(国際法上の国家の要件が欠缺している)ということになる。

統治権(対内主権)

「国家が内に対して最高至上である」ということが、「主権」の内容として語られる。近代国家においては、国家は、自らの領土において、いかなる反対の意思を表示する個人・団体に対しても、最終的には、物理的実力(physische Gewalt)を用いて、自己の意思を貫徹することができる。この意味で、国家は対内的に至高の存在であり、これを「主権的」と表現するのである。この意味で用いる場合には、「主権」という語は、領土に対する統治権、即ち「領土高権」とほぼ同じ意味内容を持つ[2]

最高機関の地位(最高決定力)

ある国家のうちで、「国政の在り方を最終的に決定する最高の地位にある機関は『誰』なのか?」あるいは「実際に最終的に決定する『力』を持っているのは『誰』なのか?」という帰属主体の問題も「主権」の問題として語られる。

その場合の「最終的に決定する『力』」とは何かという問題もあるが、一般には、最高法規である憲法を制定する権力、即ち、憲法制定権力(独:erfassunggebende Gewalt, 仏:pouvoir constituant)であるとされている[3]。ただし、その性質については、本当の「力」であるという実力説、機関としての権限であるという権限説や監督権力説など諸説がある。

ドイツ流の議論では、君主主権説人民主権(Volkssouveränität)説が対立し、その帰属主体をあえて問わないという問題回避的な国家主権説が唱えられていた。この論争は、明治憲法の解釈として、日本に輸入されて、いわゆる天皇機関説論争となった。

フランス流の議論では、君主主権説の前提が存在しなくなったので、ドイツ流の三者間の対立とは異なり、プープル主権(souveraineté du peuple)論ナシオン主権(souveraineté nationale)論の二者の対立となる。プープル主権論は人民主権説に相似し、ナシオン主権論が国家主権説に相似するといえる。プープル主権においては、具体的なプープル(peuple、人民)こそが主権者であり、具体的な人民の具体的利益こそが政治に反映されるべきであり、命令委任は肯定すべきと考えられることになる。これに対して、ナシオン主権論は、抽象的なナシオン(nation)、人格化された国家が主権者であり、ナシオンが授権した代表者はナシオン(の利益)を代表するのであるから(「純粋代表制(régime représentatif pur)」という)、選挙民による命令委任(mandat impératif)は否定すべきであると考えられることになる。フランスの憲法学者であるレオン・デュギー (L.Duguit)は、主権概念抹消ないし不要論の立場から、その帰属主体をあえて問わないという問題回避的な法主権説を唱えた。これらの論争も、日本国憲法の解釈として、日本に輸入され、前者が杉原・樋口論争、後者がノモス主権論となった。

実定法における「主権」

国際法における「主権」

先に述べたように、近代国際法においては、国家間の「主権平等の原則」が認められており、国際連合もまた、この原則によって立つものとしている(国際連合憲章2条:「The Organization and its Members, in pursuit of the Purposes stated in Article 1, shall act in accordance with the following Principles. [/] 1. The Organization is based on the principle of the sovereign equality of all its Members.」)。この法的認識枠組によれば、カトリックローマ教皇庁もまた、バチカン市という領土を統治するひとつの「国家」(バチカン市国)であり、他の国家と平等の存在でしかないということになる。ここに中世の法秩序との大きな違いがある。いうまでもなく、この「主権」概念は、対外的な最高独立性という意味で用いられており、そのコロラリー(帰結)として、一国一票(one state, one vote)の原則が導かれる。

日本法における「主権」

日本においては、実定法上「主権」という概念が頻出し、しかも、それらが異なる意味で用いられているために、混乱の原因となっている。整理すれば、以下の通りとなる。

  1. 対外的な独立性という意味で用いられる場合
    • 「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」(日本国憲法前文3項)
  2. 対内的な統治権という意味で用いられる場合
    • 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」(ポツダム宣言8項)
  3. 国家における最高決定力という意味で用いられる場合
    • 「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。」(日本国憲法前文1項)
    • 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」(日本国憲法第1条

三つ目に掲げられた条文により、日本国憲法は国民主権原理を採用したと解されている。

主権が問題となった主な事件

主権はしばしば、国際的事件において問題となってきた。以下にそのうち日本が関係したものを例示する。

主権の制限

戦後は、平和主義と国際協調主義の下、主権を制限し、または国際機関に委譲できる旨の規定を有する憲法[4]が増えているが、これが伝統的な絶対性を特徴とする主権概念の相対化を示すものであるかどうかは議論がなされている。

参考文献

  • 芦部信喜『憲法制定権力』東京大学出版会、1983年。ISBN 4130311123
  • 芦部信喜『憲法〔初版〕』岩波書店、1993年。
  • 樋口陽一『比較憲法〔第3版〕』青林書院、1992年。ISBN 4417010757
  • 佐藤幸治『憲法〔第三版〕』青林書院、1995年。ISBN 4417009120
  • 古野喜政『金大中事件の政治決着:主権放棄した日本政府』東方出版、2007年。ISBN 4862490506

脚注

  1. 美濃部達吉は、国家法人説を前提に、以上の三つに加えて、「国家の意思力そのもの」を主権概念に含める。これがドイツ法の「国権」(Staatsgewalt)を表す概念であることは明らかであるが、「統治権」と区別がしにくいとの難点が指摘されている。
  2. 領土高権、対人高権、組織高権の三つが国家の基本的権利としての統治権であるとされる。
  3. 国家の意思力そのもの、「国権」ないし国家権力のことであるという反対説もある。規範と事実を峻別し、主権は規範としての法的権力の問題であるが、制憲権は事実の問題とする。
  4. 例として、ドイツ連邦共和国基本法第24条やイタリア共和国憲法第11条が挙げられる。

関連項目

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