熊野 (重巡洋艦)
竣工当時の熊野 | |
艦歴 | |
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発注 | 昭和6年度計画(マル1計画) |
起工 | 1934年4月5日 |
進水 | 1936年10月15日 |
就役 | 1937年10月31日 |
その後 | 1944年11月25日戦没 |
沈没地点 | テンプレート:Coord |
除籍 | 1945年1月20日 |
性能諸元 | |
排水量 | 基準:12,000トン |
全長 | 200.6 m |
全幅 | 20.2 m |
吃水 | 5.9 m |
機関 | ロ号艦本式重油専焼水管缶8基 +艦本式ギヤード・タービン4基4軸 |
最大出力 | 153,698馬力(新造時公試成績) |
最大速力 | 35.36ノット(新造時公試成績) |
航続距離 | 14ノット/8,000海里 |
燃料 | 重油:2,280トン |
乗員 | 930名(昭和19年10月時/1094名[1] |
兵装 (竣工時) |
三年式 15.5cm(60口径)3連装砲5基 八九式 12.7cm(40口径)連装高角砲4基 九六式 25mm連装機銃4基 13mm連装機銃2基 61cm3連装魚雷発射管4基 |
兵装 (最終時) |
三年式 20.3cm(50口径)連装砲5基 八九式 12.7cm(40口径)連装高角砲4基 九六式 25mm3連装機銃8基 同25mm連装機銃4基 同25mm単装機銃18基(機銃の装備数は推定) 九〇式61cm3連装魚雷発射管4基(魚雷24本) |
電探 | 二号一型(対空用) 1基 二号二型(対水上用) 2基 一号三型(対空用) 1基 |
装甲 | 舷側:140mm 甲板:60mm |
搭載機 | 水上機3機(呉式二号五型射出機2基) |
熊野(くまの)は、大日本帝国海軍の重巡洋艦。最上型の4番艦。15.5㎝砲搭載の二等巡洋艦(軽巡洋艦)として建造され、後に主砲を20cm砲に換装し重巡洋艦となった。
目次
艦名
軽巡洋艦(重巡洋艦)「熊野」の艦名は奈良県、和歌山県、三重県を流れる熊野川に因んで命名された。大日本帝国海軍(以下日本海軍)軍艦としての「熊野」は、明治時代の水雷母艦「熊野丸」、大正3年に日本郵船から購入した水雷母艦「熊野丸」に使用されている。巡洋艦「熊野」の艦内神社は熊野坐神社(現・熊野本宮大社)[2]。本艦建造時、熊野坐神社本殿を模した艦内神社が寄贈されたという[3]。毎月1日には熊野神社例祭が行われていた[4]。
構造
第四艦隊事件により最上型の船体強度に問題があることが判明したため、船体線図が改正され「最上」「三隈」とは船体形状に違いがあり、鈴谷型(鈴谷・熊野)と分類されることもある。また、ボイラーが「最上」「三隈」は重油専焼罐大型8基小型2基の計10基から、重油専焼罐大型8基に変更されている。そのため、第3砲塔と艦橋構造物との間の大型吸気トランクがなく、一番煙突の太さもボイラー数の減少の分だけ径が細くなっている。
艦歴
軍艦「熊野」は1934年(昭和9年)4月5日、川崎重工業神戸造船所にて起工。1936年(昭和10年)10月15日、伏見宮博恭王[5]、永野修身海軍大臣[6]列席のもとに進水。呉海軍工廠で製造された熊野用15.5cm三連装砲塔5基は、知床型給油艦「知床」が呉から神戸へ輸送した[7]。1937年(昭和12年)10月31日就役し、その姿は一般にも公開された[8]。1939年(昭和14年)に当初主砲として搭載されていた15.5cm3連装砲をに20.3cm連装砲に換装。1940年(昭和15年)10月11日、「熊野」「鈴谷」「最上」「利根」「筑摩」は紀元二千六百年記念行事に伴う紀元二千六百年特別観艦式に参加した[9]。
太平洋戦争序盤
1941年(昭和16年)12月の太平洋戦争開戦時、第7戦隊(司令官栗田健男少将)は第一小隊(熊野、鈴谷)、第二小隊(三隈、最上)で編成されていた[10]。12月8日以降、マレー上陸作戦、1942年(昭和17年)3月1日にはバタビア沖海戦に参加する。4月1日よりインド洋作戦の一環として通商破壊作戦に従事。第7戦隊は北方部隊(熊野、鈴谷、駆逐艦白雲)と南方部隊(三隈、最上、駆逐艦天霧)に分割されてベンガル湾で活動し、商船多数を撃沈した[11]。空母「龍驤」も本作戦で活躍している。
日本帰還後、「熊野」はミッドウェー作戦に向けて準備を行う。第7戦隊は第8駆逐隊(荒潮、朝潮)及び輸送船「日栄丸」を指揮下に入れ、護衛隊支援を任ぜられた[12][13]。5月22日から6月22日にかけてミッドウェー作戦に参加する[14]。
6月5日、日本海軍は主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を喪失、制空権をうしなった。残存する日本艦隊は米軍機動部隊とミッドウェー島基地航空隊に挟み撃ちにされる危険性が高くなった。この為、第7戦隊(栗田少将)に対し山本五十六連合艦隊司令長官は、最上型重巡4隻の艦砲射撃によるミッドウェー島基地破壊を命じる。この作戦過程で、浮上中の米潜水艦を回避しようとした旗艦「熊野」の航海信号が誤って伝達され、三番艦「三隈」と四番艦「最上」が衝突する[15]。栗田司令官は損傷の大きい「最上」に「三隈」「荒潮」「朝潮」の護衛をつけると、「熊野」「鈴谷」を率いて主力部隊との合流を急いだ。6月6日、「最上」以下4隻は米軍機動部隊艦載機とミッドウェー基地航空隊の波状攻撃を受け、「三隈」沈没、「最上」大破という損害を受けている(最上は8月25日をもって第7戦隊から外れる)[16]。この間、栗田及び「熊野」「鈴谷」は行方不明となっており、7日になって近藤信竹攻略部隊指揮官より「三隈」「最上」救援作戦に呼応するよう命じられて、やっと自隊の位置を報告した[17]。戦後、栗田は「そんな情況だったのには気付かなかった」、田中(熊野)艦長は「(栗田は主力艦隊と)合同すれば、第二小隊(三隈、最上)救援を命ぜられる事を懸念したからだ」と答えている[17]。
ソロモン海での戦い
6月25日、第7戦隊司令官は栗田少将から西村祥治少将に代わり、「熊野」は引き続き第7戦隊旗艦を務めた。7月17日、インド洋での通商破壊作戦(B作戦)に従事すべく、姉妹艦「鈴谷」、第2駆逐隊(村雨、春雨、五月雨、夕立)、第15駆逐隊と共にマレー半島のメルギに進出した[18]。同部隊はB作戦機動部隊指揮官原顕三郎少将指揮のもと、中央隊(司令官原少将兼務、16戦隊、第11駆逐隊)、北方隊(第3水雷戦隊、第11駆逐隊)、南方隊に別れ、「熊野」以下7戦隊・2駆・15駆は南方隊に所属していた[19]。
出撃前の8月7日、米軍はガダルカナル島とショートランド諸島に上陸を開始し、ガダルカナル島の戦いが始まる。「熊野」「鈴谷」は通商破壊作戦を中止してトラック泊地へ向かい、8月22日に南雲忠一中将率いる第三艦隊(南雲機動部隊)と合流した[20]。機動部隊における「熊野」の役割は、第十一戦隊の戦艦「比叡」、「霧島」と共に前衛部隊として米軍の攻撃を通報・吸収する役目だった。田中艦長は「駆逐艦兼おとり」と表現している[21]。8月24日の第二次ソロモン海戦ではB-17爆撃機と交戦し、戦果も被害もなかった[22]。10月18日、第7戦隊旗艦は「鈴谷」に変更される[23]。10月26日の南太平洋海戦では、空母「翔鶴」、「瑞鶴」、「瑞鳳」からなる機動部隊本隊の直衛に編入されて戦った。「鈴谷」は前衛のままであった。この戦闘で「熊野」はSBDドーントレス急降下爆撃機の空襲により至近弾を受ける。戦闘後、第17駆逐隊(磯風、谷風)に護衛され、損傷した空母「瑞鳳」と共に日本本土へ向う。11月7日、呉に到着して修理を行った。
11月22日、「熊野」は「谷風」と共に呉を出港。翌日、第9戦隊(司令官岸福治少将、軽巡洋艦北上、大井)の指揮下に入った[24]。「熊野」「谷風」は27日にマニラ到着[25]。陸兵や物資を積載し、翌日出港[26]。12月4日、ラバウルに到着した[27][28]。12月6日、第7戦隊旗艦に復帰する[29]。その後、トラック泊地を拠点に輸送任務に従事した。
1943年(昭和18年)5月17日、「最上」が第7戦隊に復帰[30]。7月9日、「熊野」以下第7戦隊は南東方面部隊の指揮下に入る[31]。7月15日、外南洋夜戦部隊に編入される[32]。7月20日、「熊野」は「鳥海」「鈴谷」、第三水雷戦隊各艦と共にコロンバンガラ島への輸送作戦従事中、米軍機の夜間空襲を受ける。駆逐艦「夕暮」「清波」が沈没。「熊野」にはTBFアベンジャー雷撃機が投下した魚雷1本が命中。トラックに避退後、工作艦「明石」の応急修理を受け、駆逐艦「雪風」等と共に内地に帰還した。第7戦隊旗艦は「鈴谷」に移った[33]。呉にて修理を行い、11月3日に南方へ出撃する。12月5日、トラック到着[34]。7日、第7戦隊旗艦に復帰[35]。25日までトラック泊地で待機。その後、カビエンへの輸送任務(戊三号輸送任務)に第一部隊として「鈴谷」「谷風」「満潮」と共に参加する[36]。ちなみに、戊一号輸送任務は戦艦「大和」、駆逐艦「谷風」「秋雲」「山雲」による本土からトラック泊地への陸兵輸送任務、戊二号輸送任務は第5戦隊及び「利根」、第27駆逐隊(時雨、白露)によるトラック~カビエン輸送任務、戊三号輸送任務第二部隊は、第二水雷戦隊(能代)・「大淀」、駆逐艦「秋月」「山雲」によるトラック~カビエン輸送任務である[37]。26日、「熊野」は戦艦「大和」に横付けして陸兵・物資を積載すると、同日夜にトラックを出撃してカビエンに向かう[38]。米軍大型爆撃機に発見された事で一旦トラックに避退したのち、28日に再出撃[39]。29日にカビエンに到着し物資揚陸に成功すると、1944年1月1日にトラック泊地に帰還した[40]。
昭和19年の戦い
1944年(昭和19年)1月1日、利根型重巡洋艦「利根」「筑摩」が第7戦隊に編入される[41]。1月はトラック泊地に滞在。2月1日、トラックを出発し8日にパラオへ移動[42]。17日、パラオ初、21日にリンガ泊地着[43]。3月1日、第一機動艦隊の第二艦隊(司令長官栗田健男中将)に編入される[44]。23日、「筑摩」に将旗が移り、「熊野」は第二小隊5番艦となる[45][46]。3月25日、西村少将にかわり白石萬隆少将が第7戦隊司令官に着任した。4月6日、第7戦隊旗艦に復帰する[47]。5月1日、戦艦「大和」、重巡洋艦「摩耶」がリンガ泊地に到着[48]。18日以降、「熊野」はタウイタウイ泊地に停泊した[49]。6月13日、同泊地を出撃し、6月19日のマリアナ沖海戦に参加する[50]。同海戦では「熊野」水上偵察機が米軍機動部隊を発見し、その位置を報告した[51]。「熊野」以下7戦隊は前衛艦隊(司令長官栗田健男中将、第三航空戦隊・第二艦隊主力)に所属し、戦闘に臨んだ。19日、小沢機動部隊第一次攻撃隊を誤射[52]。6月25日、日本本土に戻る[53]。7月8日、陸軍部隊のシンガポール輸送のため戦艦「大和」「武蔵」等と共に呉を出撃[54]。16日、シンガポールに到着し、以後はリンガ泊地で訓練に従事した。9月27日、「熊野」は通信機を特積する[55]。
レイテ沖海戦
10月中旬、捷一号作戦に於いて第7戦隊(司令官白石万隆中将、旗艦/熊野、鈴谷、筑摩、利根)は、第一遊撃部隊(第二艦隊/通称栗田艦隊、司令長官栗田健男中将/旗艦愛宕)第二部隊(司令官鈴木義尾中将、旗艦金剛)に所属して米軍と交戦する[56]。10月23日、栗田艦隊はパラワン水道通過中に米潜水艦の襲撃により旗艦「愛宕」及び「摩耶」を撃沈され、被雷した「高雄」と護衛の駆逐艦「長波」「朝霜」が艦隊から離脱した。「熊野」搭載の水上偵察機2号機・3号機は対潜哨戒の後、サンホセ基地に向かった[57]。24日、午前10時25分、熊野水偵1号機は空襲前に退避、サンホセへ向かった[58]。直後、ジブヤン海にて栗田艦隊は米軍機動部隊(第38任務部隊)艦載機の空襲を受ける。第二部隊は旗艦「金剛」を中心とする輪形陣を形成、「熊野」は「金剛」の斜め右前方3kmに配置された[59]。一連の戦闘により、戦艦「武蔵」が沈没し、損傷を受けた「妙高」「浜風」「清霜」が艦隊から離脱した。「熊野」には7機が襲来、爆弾1発が四番砲塔に命中するも不発であった[60]。この対空戦闘で「熊野」は主砲対空弾約70発、高角砲弾約200発、機銃弾約1000発を発射した[61]
25日早朝、栗田艦隊は米軍護衛空母部隊と遭遇、水上戦闘を行う(サマール島沖海戦)。午前7時18分、「熊野」は米駆逐艦「ジョンストン」(軽巡と誤認)に対し射撃を開始、距離9700mに迫った[62]。砲撃中にTBFアベンジャー雷撃機(爆装)3機の攻撃を回避したところ、「ジョンストン」が発射した魚雷10本のうち1本が「熊野」艦首に命中[63]。艦首から約13mを喪失し、最大発揮速力14-15ノットとなって艦隊から落伍した[64]。白石司令官は第7戦隊の指揮を「筑摩」艦長に任じると、二番艦「鈴谷」への移乗を決定[65]。洋上に停止した「熊野」「鈴谷」間をカッターボートで移動し、8時30分以降「鈴谷」に中将旗を掲げた[66]。「熊野」は単艦での戦場離脱を命じられた[67]。人見(熊野)艦長は11時23分に「0724魚雷1、10番フレーム附近に命中、25番フレームより大破浸水、35番フレーム隔壁に補強防水確実。出し得る最大速力15ノット」と打電、「熊野」の退避航海が始まる[68]。なお同日の戦闘で第7戦隊は「鈴谷」「筑摩」を喪失、第7戦隊旗艦は「利根」に移った[69]。
損傷した「熊野」は単艦でコロンへの航海を行うが、その途上でも度重なる米軍機の空襲を受けた。25日正午前、「熊野」は日本海軍の水上機瑞雲3機と遭遇し2機から爆撃され、続いて天山艦上攻撃機1機から誤爆される[70]。日没前、今度は米軍機約30機の空襲を受ける[71]。零式艦上戦闘機の上空掩護もあり、「熊野」は被害なく航行を続けた[72]。
26日朝、ミンドロ島南端冲で再び米軍機動部隊艦載機の空襲を受ける[73]。この部隊は空母「ハンコック」から発進した戦闘機12、急降下爆撃機4、雷撃機7であった[74]。艦中央部(煙突付近)に爆弾1発が命中した他、至近弾により船体に亀裂が走り機関部に浸水、速力2ノットに低下[75][76]。米軍は1000ポンド爆弾1発命中、魚雷2本命中、写真判定により沈没確実と報告した[77]。しかし、「熊野」は応急処置により9ノット発揮が可能となる[78]。13時30分頃、第二遊撃部隊(志摩艦隊)所属の駆逐艦「霞」(第一水雷戦隊司令官木村昌福少将)と重巡洋艦「足柄」が「熊野」に合流する[79][80]。夕刻、「熊野」はコロン湾に到着[81]、タンカー「日栄丸」に横付けして燃料を搭載した[82][83]。栗田長官は「熊野」に対し応急修理の上、マニラを経て日本本土への修理を命じた[84]。第七戦隊戦闘詳報は、レイテ沖海戦における「熊野」の損傷について『熊野は二十五日の水上戦斗に於ける被雷後出し得る速力十五節となり旗艦変更後 単独回航中数次の爆撃を受け一時航行不能に陥りしも応急処置により辛うじて十節航行可能となり 「コロン」を経て「マニラ」に回航せり。人員船体兵器機関共損傷甚だしく大修理を必要とし 当分戦斗参加の見込なし。』と報告している[85]。また熊野水上偵察機も10月28日の時点で1機のみ健在であった[86]。29日の報告によれば、レイテ沖海戦における「熊野」戦死者は56名、重軽傷者約100名[87]。
燃料補給を終えた「熊野」は駆逐艦「浜風」「藤波」の到着を待っていたが、昼間空襲の懸念や速力の観点から2隻との合同を待たず、10月27日午前0時30分、単艦でコロンを出港した[88]。その後、午前5時頃に駆逐艦「沖波」と合流し[89]、同艦に護衛されてマニラに向かった[90]。28日午前7時30分、マニラ着[91]。29日、マニラは米軍機約290機の空襲を受ける。「那智」「青葉」と共に対空戦闘を行い、「熊野」には損害なく、僚艦も「那智」火災という被害に留まった[92]。「熊野」側は高雄への回航を希望して司令部と折衝したが護衛艦の手配が付かず、高雄回航を断念し、時機を待つことにした[93]。その後連合艦隊司令部より、重巡洋艦「青葉」と共に本土回航を命じられる[94]。第16戦隊所属の「青葉」は10月23日に米潜水艦の雷撃を受けて損傷しており、「熊野」と同じく本土での修理が必要であった[95]。11月5日、「熊野」「青葉」はマニラを出港し、マタ31船団(2000トン級タンカー3隻、小型貨物船3隻、海防艦2隻、駆潜艇5隻)と合流する。速力8-9ノットでルソン西岸間際を航行、台湾の高雄まで一週間かかる予定であった。「熊野」達はマニラ上空に米軍機大編隊を視認したが、米軍機が船団に襲来する事はなかった[96]。九六式陸上攻撃機や練習機の対潜警戒下のもと、夕刻にサンタクルーズ入港、「青葉」に対し清水の補給を行う[97]。11月6日、サンタクルーズを出港、「熊野」は「青葉」の0.8km前方を航行していた[98]。
熊野の最後
「熊野」は最後の1ヶ月間に魚雷6本(もしくは8本)、爆弾10発命中という多大な被害を受けた。また乗員は本土帰還を目指して対空戦闘に、応急修理にと奮闘したが帰還は果たせなかった。そこで最後の1ヶ月の被害とその応急修理を中心に詳細を記す。
- 1944年10月25日
- 7時24分 - サマール沖海戦で米フレッチャー級駆逐艦「ジョンストン」が発射した魚雷1本が艦首に命中。艦首の抵抗のため速力12ノットに低下。
- 17時15分 - サンベルナルジノ海峡で艦載機の攻撃を受ける。至近弾により左舷缶室に浸水。
- 10月26日
- 8時10分 - 米軍機動部隊艦載機の急降下爆撃を受ける。艦橋左舷、煙突付近に3発命中し右舷缶室にも被害。一時航行不能。10ノットでコロンに向かう。途中3回空襲を受けたが被害無し。
- 18時30分 - 同日コロン到着。燃料補給後、駆逐艦「沖波」の護衛でマニラへ向かう。
- 10月28日 7時30分、マニラ到着。特務艦「隠戸」に横付しマニラ第103工作部による艦首の応急修理。機関部を整備し速力10ノット発揮可能[99]。
- 10月29日 米軍第38任務部隊艦載機290機によるマニラ空襲。「熊野」に被害なし。
- 11月4日 - 回航準備完了。艦首波防装置により速力18ノット可能[100]。
- 11月5日
- 11月6日
- 7時00分 - サンタクルーズを出港[103]。船団はリンガエン湾西方で米軍潜水艦(ブリーム・ギターロ・レイトン・レイの4隻)の攻撃を受ける[104]。「ギターロ」は「カゴの中の最大のスモモ=熊野」に魚雷9本を発射し、爆発音から3本命中を主張[104]。
- 9時20分 - 陸岸に大爆音と大水柱、「熊野」から魚雷航跡確認できず[105]。
- 9時55分 - 「熊野」は潜望鏡(ブリーム)を発見し、取り舵で魚雷を回避[106]。「ブリーム」、米軍時間8時43分に「熊野」に対し魚雷4本を発射、命中音2回を確認する[104]。
- 10時40分 - 「青葉」、前方に潜望鏡を発見する[107]。
- 10時42分 - 潜望鏡(レイトン)を発見、魚雷6本を取舵で回避、爆雷8個を投下・2発命中により敵潜撃沈と記録[108]。米軍時刻9時43分、「レイトン」は魚雷6本を発射して3本の命中を確認し「熊野」撃沈と錯覚[104]。
- 10時48分 - 15ノットで航行中[109]、魚雷4本を右舷至近距離に発見する。魚雷2本が艦首右舷および右舷機械室附近に命中[110]。右舷のバルジに幅5m、長さ10mの破孔が生じる[111]。全機関室が満水となり傾斜11度、既に13mもがれていた艦首は更に15mが脱落し、計28mを喪失した[112]。一番砲塔は前に傾き[113]、艦の各所で浸水被害が生じた。被雷位置は北緯6度11分、東経119度44分[114]。一方「熊野」に魚雷4本を発射した「レイ」は潜航退避しており、1時間後に浮上すると停止した「熊野」とタンカーを確認した[104]。この後、「レイ」は海中の峰に座礁して浸水、「熊野」に対する再攻撃を断念した[104]。「熊野」は1時間45分の間に23本の魚雷を発射されていた事になる[104]。
- 10時50分 - 米軍機による空襲を懸念して自艦の魚雷1本を投棄[115]。
- 11時00分 - 「青葉」は『われ曳航能力なし』と信号し、船団に続行した[116]。油槽船「道了丸」、駆潜艇18号・37号が救援のため残置された[117]
- 11時30分 - 右傾斜8度に減少[118]。
- 14時25分 - 応急処置に成功、右傾斜11度で安定[119]。曳航作業進まず。
- 18時30分 - 右傾斜4度、浸水量約5000トンと推定[120]。
- 20時00分 - 油槽船「道了丸」による曳航成功[121]。
- 11月7日
- 11月9日
- 11月17日 - 警戒艇が「駆潜艇27号」から漁船改造船「第21長運丸」に交代する[125]。
- 11月19日 - F6Fヘルキャット延べ32機に機銃掃射され、戦死4名、重軽傷者19名を出す[126]。
- 11月20日 - 係留したまま試運転を行い、一軸運転に成功するも蒸気漏洩多し[127]。
- 11月21日 - 速力6ノット発揮可能になる[128]。
- 11月24日 - 海防艦「八十島」(旧寧海級巡洋艦「平海」)と戦車運搬艦3隻(112号、142号、161号)に「熊野」戦傷者十数名を移乗させ、マニラへの移送を依頼する[131]。
- 11月25日
- 7時00分 - F6F十数機が来襲、警戒艇「第21長運丸」を攻撃して炎上させる。
- 9時00分 - 米軍機約90機が来襲、「八十島」以下4隻を攻撃する[132]。船団は全滅し、便乗していた熊野戦傷者全員戦死[133]。
- 12時10分 - 「長運丸」爆沈[134]。
- 14時30分 - 米空母「タイコンデロガ」艦載機(F6Fヘルキャット8、SB2Cヘルダイバー13、TBFアベンジャー9、計30機)の空襲が始まる[135]。
- 14時40分 - 魚雷5本・爆弾4発が命中[136]。傾斜が増し、左舷へ転覆する[137]。
- 15時15分 - 沈没。脱出者はF6Fヘルキャット1機、TBFアベンジャー2機の機銃掃射を浴びた[138]。
- 15時35分 - 米軍機は去り、桟橋から派遣された内火艇やカッターボートでの救助が始まる[139]。沈没までに99名が戦死、沈没時の戦闘で人見艦長・真田副長以下399名が戦死(計498名戦死)、生存者は636名(准士官以上51名、下士官兵554名とも)であったが、陸上部隊に編入されるなどして更に497名が戦死したとされる[140]。
戦後の慰霊
1978年(昭和53年)11月19日[141] - 遺族など関係者の手により、呉市長迫公園(旧海軍墓地)に慰霊碑が建立された。
- Kumano-3.JPG
熊野の慰霊碑
(長迫公園)
歴代艦長
艤装員長
- 須賀彦次郎 大佐:1936年12月1日 -
艦長
- 西村祥治 大佐:1937年10月31日 -
- (兼)西村祥治 大佐:1938年11月15日 -
- 西村祥治 大佐:1938年12月15日 -
- 八代祐吉 大佐:1939年5月18日 -
- 有馬馨 大佐:1939年11月15日 -
- 小畑長左衛門 大佐:1940年10月15日 -
- 田中菊松 大佐:1941年5月24日 -
- 藤田俊造 大佐:1943年2月17日 -
- 人見錚一郎 大佐:1944年3月29日 - 11月25日戦死[142]
同型艦
脚注
参考文献
- 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
- Ref.海軍研究社編纂部『日本軍艦集 : 2600年版』(海軍研究社、1940年)
- Ref.テンプレート:Cite book
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C10100488600『明治37年3月1日~明治37年12月1日 軍艦熊野丸現状報告』
- Ref.C05110099200『第34号 水雷母艦熊野丸日本海海戦航跡図(熊野丸戦闘報告付図)』
- Ref.C10080514900『熊野丸購入の件』
- Ref.C10080514900『水雷母艦熊野丸機関部戦時日誌 大正3年8月』
- Ref.C05110833900『第1286号の3 12.10.22酒保設置の件 軍艦熊野』
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- Ref.C05034684400『第384号 11.10.12軍艦能野進水式に参列の為兵庫県へ出張の件』
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- 雑誌「丸」編集部『丸スペシャルNo122 重巡最上型/利根型』(潮書房、1987年)
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第7巻 重巡III』(光人社、1990年) ISBN 4-7698-0457-1
- テンプレート:Cite book
- 牧島貞一『炎の海 テンプレート:Small』(光人社、2001年) ISBN 4-7698-2328-2
著者は日映カメラマン。ミッドウェー海戦後乗艦、南太平洋海戦まで「熊野」に乗艦。 - 「歴史群像」編集部『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.38 最上型重巡』(学習研究社、2002年) ISBN 4-05-602880-X
- テンプレート:Cite book 著者は「熊野」航海士としてレイテ沖海戦に参加。
外部リンク
関連項目
- ↑ #捷号日誌(3)第7戦隊p.8『熊野/士官37、特准29、下士官310、兵715、其ノ他3、合計1094』
- ↑ #官幣大社熊野坐神社年表p.37『昭和12年・皇紀2597年|○五月十五日、軍艦熊野艦ニ當社御神璽奉斎ニツキ同艦乗組南出大尉参拝、○十月三十日、本社御神璽ヲ軍艦熊野ニ鎮祭』
- ↑ #第5641号寄贈品受納に関する件p.5
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(2)p.3『(1944年)6月1日0830 熊野神社例祭』、p.45『7月1日 熊野神社例祭』
- ↑ #軍艦熊野命名式次第書並式場設備に関する件p.14
- ↑ 『第384号 11.10.12軍艦能野進水式に参列の為兵庫県へ出張の件』p.3
- ↑ #軍艦熊野用砲塔輸送の件pp.3-4
- ↑ 『日本軍艦集 : 2600年版』p.30
- ↑ #紀元二千六百年特別観艦式・第三章p.1
- ↑ #戦隊行動調書p.7『編成 1D(熊野 鈴谷) 2D(三隈 最上)』
- ↑ #戦隊行動調書p.7『三.二六 馬来部隊機動部隊 北方隊(1D/7S 白雲) 南方隊(2D/7S 天霧)
- ↑ #戦隊行動調書p.7『五.二丸 攻略部隊支援隊(将旗/7S) 7S 8dg 日栄丸』
- ↑ #ミッドウエー海戦戦時日誌(1)pp.4-5
- ↑ #ミッドウエー海戦戦時日誌(1)p.3
- ↑ #図説太平洋海戦史第2巻85頁
- ↑ #戦隊行動調書p.7『八.二五 最上、7Sヨリ除カル』
- ↑ 17.0 17.1 #図説太平洋海戦史第2巻86頁
- ↑ #戦隊行動調書p.7『七.一四 南方部隊B作戦部隊。七.二八~八.二 2dg 15dg 7S指揮ス』
- ↑ #昭和17年8月~第16戦隊日誌(2)p.3『「カルカッタ」「マドラス」間敵交通線破壊拿捕 船舶の回航 会敵部隊ノ撃滅』
- ↑ #戦隊行動調書p.7『八.二二 機動部隊夜戦部隊(将旗7S) 7S(最上欠)10S 筑摩』
- ↑ 牧島『炎の海』289頁
- ↑ 牧島『炎の海』292頁
- ↑ #戦隊行動調書p.7『一〇.一八 将旗ヲ鈴谷ヘ』
- ↑ #昭和16年12月~第9戦隊日誌(4)p.9『11月23日/熊野谷風 陸兵輸送任務に関し本職の指揮下に入る』
- ↑ #昭和16年12月~第9戦隊日誌(4)p.11『熊野谷風1100「マニラ」着 9s1200「マニラ」発 球磨1400「マニラ」発』
- ↑ #昭和16年12月~第9戦隊日誌(4)p.11『熊野谷風1158「マニラ」発』
- ↑ #昭和16年12月~第9戦隊日誌(4)p.15『當隊は前月下旬より一時本職の指揮下に在りし球磨及熊野谷風と共に第65旅団を「マニラ」より「ラボール」に向け急送中なりし處12月3日「ラボール」着、4日熊野谷風の「ラボール」着を以て本輸送任務を終了、6日「トラック」に帰投す』
- ↑ #昭和16年12月~第9戦隊日誌(4)p.21『12月4日 熊野、谷風 0630「ラボール」着 第九戦隊0700「ラボール」発(第六十五旅団 自「マニラ」至「ラボール」輸送任務終了) 熊野谷風に対する本職の指揮を解く』
- ↑ #戦隊行動調書p.7『一二.六 将旗ヲ熊野ニ変更、摩耶ヲ除ク』
- ↑ #戦隊行動調書p.8『五.一七 最上7Sニ編入(七.二迄内地ニテ調整)』
- ↑ #戦隊行動調書p.8『七.九 南東方面部隊指揮下ニ編入』
- ↑ #戦隊行動調書p.8『七.一五 外南洋部隊夜戦部隊(将旗7S) 7S(最上欠)、鳥海、川内、雪風、浜風、清波、三日月、水無月、松風』
- ↑ #戦隊行動調書p.8『七.二一 将旗ヲ鈴谷ヘ』
- ↑ #昭和18年12月~熊野日誌(1)p.5
- ↑ #戦隊行動調書p.8『一二.七 将旗ヲ熊野ヘ』、#昭和18年12月~熊野日誌(1)pp.5,35『7日0900 旗艦ヲ本艦ニ復帰』
- ↑ #戦隊行動調書p.8『一二.二五 戊三号輸送部隊(将旗7S) 第一部隊(7S(最上欠)満潮、谷風) 第二部隊(2sd(能代)、大淀、山雲)』
- ↑ #昭和18年12月~熊野日誌(1)pp.38-39
- ↑ #昭和18年12月~熊野日誌(1)p.10『26日0540大和左舷ニ横付ス 0600物資移載始ム 1255横付ヲ離ス 1318大和艦尾ニ假泊 2000假泊地発(「カビエン」ニ向フ)』
- ↑ #昭和18年12月~熊野日誌(1)p.12『29日1315出港(「カビエン」ニ向フ)』
- ↑ #昭和18年12月~熊野日誌(2)p.3
- ↑ #戦隊行動調書p.8『昭和19 一.一 利根筑摩 7Sニ編入』
- ↑ #昭和18年12月~熊野日誌(2)pp.46-47
- ↑ #昭和18年12月~熊野日誌(2)pp.48-51
- ↑ #戦隊行動調書p.8『三.一 1KdF 2Fヘ編入』
- ↑ #昭和18年12月~熊野日誌(3)p.23『将旗ヲ筑摩ニ移揚』
- ↑ #昭和18年12月~熊野日誌(3)p.25『28日2000第七戦隊司令官/艦隊区分ヲ一時左ノ通改ム 第一小隊 1筑摩 2筑摩 第二小隊3鈴谷 4最上 5熊野』
- ↑ #昭和18年12月~熊野日誌(3)p.51『4月6日1400七戦隊司令官/本日旗艦ヲ熊野ニ復帰セリ』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(1)p.3『5月1日/二.大和、摩耶其ノ他駆逐艦入港』
- ↑ #戦隊行動調書p.8『五.一八以降「タウイタウイ」ニテ訓練待機』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(2)pp.6
- ↑ #戦隊行動調書p.8『あ号作戦成果 筑摩水偵 敵哨戒機1撃墜。熊野水偵 敵KdB発見報告触接』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(2)p.7『八.0840 対空戦闘(味方ノ誤)』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(2)p.9
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(2)p.47
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(3)p.55『1YB二七日1235/1YB信令第131号 左に依り工事を実施すべし 一.特積通信装置送受信器各一装備(大和、金剛、妙高、熊野、矢矧、能代、最上) 二.同右受信器一装備(武蔵、長門、榛名、羽黒、高雄、鳥海、摩耶、鈴谷、利根、筑摩)』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.4『第七戦隊(将旗熊野、鈴谷、筑摩、利根)は第一遊撃部隊の第二部隊(3S、7S、10S(《将旗矢矧、17dg、野分》及清霜)に属し第一部隊と共に1YBの主力として「シビアン」海経由「サンベルナルヂノ」海峡突破「レイテ」泊地突入を企図す』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.6『一時1YB対潜直衛ニ任ジタル後 前路警戒ヲ実施シツツ「サンホセ」基地ニ進出』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.6『対空戦斗前発進「サンホセ」基地ニ避退。』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.12『第B3警戒航行序列(輪形陣)』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか17頁
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.47『戦果並に消耗兵器(一)十月二十四日(対空戦斗)』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか18頁
- ↑ #昭和19年10月鈴谷詳報p.6『0735 熊野駆逐艦ノ雷撃ヲ受ケ艦首ニ命中』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)pp.20-21,33『0724/熊野の右艦首雷跡三本発見(敵駆逐艦の発射せるものと認む)一本艦首に命中10番「フレーム」より前方切断 波切不良の為出し得る速力14節 其の他被害軽微機関異常なし』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.21『0732/将旗熊野→7S「筑摩艦長一時指揮を執れ」』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.23『0800頃/熊野(漂泊)鈴谷熊野附近に漂泊す。熊野より「カッター」を降し司令官及司令部職員の一部(参謀四名司令部附士官二名下士官二名)鈴谷に移乗す』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.8『0830/熊野は単艦「サマール」島に接岸北上せしむ』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか20頁
- ↑ #昭和19年10月鈴谷詳報p.7『1130 御勅諭御寫眞ヲ利根ニ奉移ス 7S司令官将旗ヲ利根ニ移揚セラル』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか20頁、#捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.34『1445熊野→1AF・2AF・GF/瑞雲 天山の爆撃を受く 異状なし 1400の位置「サンベルナルヂノ」灯台の90度45浬針路西速力15節』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.9『1730/単独分離北上せる熊野は「サンベルナルヂノ」海峡東口に艦上機十数機と交戦』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.35『2010熊野→1YB/一.1715より約45分間「サンベルナルヂノ」海峡にて敵艦上機三十機の雷爆を受く 二.戦果撃墜2機確実 三.零戦数機上空にて空戦撃墜3機 四.?航路は予定通「コロン」に向ふ』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.10『0810~0850頃/熊野単独回航中ミンドロ島「サンホセ」の南415浬附近に於て対空戦斗被爆 一時航行不能』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか23頁
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)pp.54-55『(ロ)被害:熊野 中部爆弾一命中並ニ左舷至近爆弾其ノ他』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.38『1002熊野→1YB/我敵艦上機約30機の雷爆撃を受け中央に爆弾1命中1缶の外使用不能出し得る速力2節 我「コロン」に向ふ 地点ヤナサ35(ミンドロ島サンホセ基地沖)0930』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか23頁
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.10『1030/熊野微速航行中再び対空戦斗一時航行不能となりしも応急処置により自力9節可能となる』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.10『1330/霞 足柄《2YB》は熊野に合同警戒に當る』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.41『1515 将旗1sd→各隊/熊野と合同コロン湾に向ふ速力9節(錨甲板切断しあり2缶4軸を使用中)1830入泊予定錨泊不能に付直接補給船に横付補給の要あり』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.10『1830/熊野(足柄、霞護衛)コロン湾着』
- ↑ #昭和19年5月~日栄丸日誌(7)pp.5,21『10月26日那智→日栄丸 21戦隊/足柄ノ補給ハ那智終了後行フ 補給量庫量満載 那智補給終了見込ミ1930 熊野ハ舟左ニ横付補給ス』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.38『10月26日2000頃/日栄丸ニ依ル重油補給終了』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.42『1YB→各隊/(一)浜風清霜は予定変更なるべく速にコロンに回航熊野の警戒に任ずべし (二)熊野は要すれば南西方面艦隊派遣修理班により応急修理の上「マニラ」に回航、内地回航に応ずる 差當りの整備に着手せよ』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)p.43『(ホ)本戦斗後ノ状況』
- ↑ #捷号詳報(比島方面決戦)(6)pp.45-46
- ↑ #捷号日誌(3)第7戦隊p.32『29日0638熊野→7S(人事局長、呉人事部長)/25日、26日戦斗に於ける人員の被害右の通 戦死56名(少尉1、予少尉2、准士官2)、重傷19名(総員入院少尉2、予少尉1)、軽傷80名(入院30)』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.37『10月27日0030頃/警戒艦たる浜風藤波未着なるも空襲の状況と測量とに鑑み先行するに決し行動予定を日栄丸に托し単艦出港す』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.39『10月27日0500頃/沖波追及合同ス』
- ↑ #捷号日誌(3)第7戦隊pp.37-38『27日1840 熊野→清霜、浜波/熊野機密第271810番電 熊野 沖波 28日0730「マニラ」着の予定』『28日0129浜風→1YB/一.浜風、清霜28日熊野に合同 任務終了後「ブルネイ」に進出の予定 二.「コロン」に於て応急修理班の用意無きに付乗船中』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.39『10月28日0730「熊野沖波「マニラ」着」』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか24頁
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.41『回航準備完了せるもGKF司令部と折衝の結果一隻の護衛艦も得られず遂に高雄回航を断念。当地にて整備。護衛艦都合出来次第高雄回航に決し其の旨1YB 7Sへ打電す』
- ↑ #捷号日誌(3)第7戦隊p.46『31日GF→各隊/GF機密第310943番電 一.熊野、青葉は十一月四日以後「マニラ」発呉に回航修理に従事すべし 二.GEB指揮官は右両船に対し適宣の護衛船を附するか又は最寄船団に加入すべし』
- ↑ #昭和19年7月~第16戦隊日誌pp.25-26
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.43『11月5日0740頃/F6F×2を発見 引続き「マニラ」上空方面に戦爆数十機を認むるも来襲せず』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.43『11月5日1830頃/途中九六陸攻 練習機等の対潜直衛を受け「サンタクルーズ」入港 青葉に横付 同艦に清水を補給す』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.43『11月6日0700/「サンタクルーズ」出港 予定ノ如ク接岸北上開始 隊形左ノ如シ』、p.53『当時の警戒航行序列左の如し』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.41『10月29日1725『二.本艦乗員の応急処置に依り主機械四軸 二.七缶使用可能 燃料残額800屯実速10節』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.42『11月4日1000回航準備完了(二缶四軸使用 舟首波防装置 最大発揮可能速力18節)』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.33『4日0417 GF→青葉(熊野)/NSB電令作第85号 一.青葉ハ五日「マニラ」発「マタ」31船団に同行 内地に回航修理に従事すべし 二.熊野ハ右船団ニ同行ス』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.25『作戦経過概要/5日0100マニラ出港、1830サンタクルーズ入港』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.62『11月6日0700「サンタクルーズ」出港後…』
- ↑ 104.0 104.1 104.2 104.3 104.4 104.5 104.6 #捷号作戦はなぜ失敗したのか27-28頁
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.43『11月6日0920頃/左正横100米附近ニ大爆音大水柱1 引続キ右後方300米ノ陸岸ニ大爆音大水柱1アリ』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.44『11月6日0955/左60度3500米ニ潜望鏡発見。直ニ潜没 発射セルヲ認メ取舵一杯前進一杯 舟首ヲカハシ原針路ニ復ス 水偵並ニ駆潜帝射点附近ヲ攻撃ス』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.44『11月6日1040頃/青葉 艦首ニ潜望鏡発見』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.44『11月6日1042頃/左60度2500米ニ潜望鏡発見 取舵一杯前進一杯 潜望鏡艦首附近トナレル頃潜没 仝時ニ魚雷発射 雷跡6本 右舷ヲ反航ス。駆潜艇射点附近爆雷攻撃。本艦ハ(潜水艦)直上ヲ通過シツツ爆雷投射8箇、内2発ハ激震ト共ニ黒色大水柱上リ撃沈概ネ確実ナルモノト認ム』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.47『2.当時の艦状態 爆雷投射直後 艦速約15節』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.47『2.命中点 右舷前部機関室及錨鎖庫右舷』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.47『損傷状況<3>F/48を中心に「バルヂ」に幅約5米長さ約10米の破孔』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)pp.44-45『11月6日1048/面舵ヲ取リ原針路ニ向ケツツアリシガ陸岸側ヨリ雷跡数本(飛行機ノ報告ニ依レバ4本)ヲ右後方至近ニ発見回避ノ余裕ナク右舷前機及舟首ニ命中、全機並ニ各軸室共ニ満水 一番砲塔ヨリ前部切断 航行不能トナル 直ニ浸水遮防並ニ傾斜復元ニ努ム(最大傾斜11度)』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.48『損害状況<2>一番砲塔若干前方に傾斜』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.33『11月6日1240熊野/熊野機密第061105番電 敵潜ノ雷撃ヲ受ケ航行不能』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)pp.45,49『11月6日1050頃/視界内敵機十数機アリシヲ以ツテ魚雷1本ヲ投棄ス』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか26頁
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.45『11月6日1100頃/ch18 ch37 道了丸ヲ残シ船団続行ス』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.45『11月6日1130頃/傾斜右8度ニ減ズ 漂流ス 道了丸ニヨル被曳航ヲ計画セルモ実施ニ至ラズ』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.33『11月6日1630熊野/熊野機密第061425番電 進水遮防効キ右傾斜11度ニ喰止メ居レリ』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.46『11月6日1830頃/再ビ道了丸ニテ被曳航ヲ試ム。当時浸水量約5000屯傾斜右4度』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.46『11月6日2000頃/被曳ニ成功(艦尾曳航實速1節ニテ「サンタクルーズ」ニ向ウモ道了丸ノ操縦意ノ如クナラズ』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.46『11月7日0700頃/CD18及CD26を補助曳艦として舟首両舷を曳航を試みたるも成功せず』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.62『1048遂に2本被雷航行不能となり道了丸に曳航せられて11月7日1620「サンタクルーズ」入港』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.62『二缶一軸使用自力航行を目念として全乗員一致協力最善の努力を盡し…』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか29頁
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.64『1335より1435迄G戦延三十二機来襲銃爆撃を繰返す。戦果、撃墜二機、被害戦死4名(内少尉1)、重軽傷者19名 其の他なし』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.65『二缶一軸使用係留運転を実施 機械は結果良好なるも蒸気漏洩極めて多きを以て尓後極力修理に努む』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.62『11月20日状況確認の為係留運転を実施し畧自力航行可能(発揮可能推定速力六節)の見込を得るに至り』
- ↑ #戦隊行動調書pp.5,8『5S/1121 熊野 利根5Sへ』『7S/11.21.将旗ヲ撤ス』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.27
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか30頁
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.66『0905/約90機の編隊を発見せるも編隊のまま本艦の20粁附近を西航沖合航行中の八十島船団を攻撃するを認む』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか30頁
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.66『1210/炎上中の長運丸爆雷誘爆せるものの如く轟沈す』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか30-31頁
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.69『(ニ)被害 爆弾命中 四發・航空魚雷命中 五本(沈没)』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.67『1440/艦は間もなく左に横転しとなり次で艦首沈下暫時艦尾「スクリュー」附近水面上にあり』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.67『1515/全没ス。敵機は泳ぎ居る乗員に対し爆弾2発を投じ且F6F×1、TBF×2は低速にて周囲を旋回 固定銃旋回銃を以て執拗に銃撃を加ふ』』
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.67『1535/敵機避退す。乗員は桟橋派遣中の内火艇「ランチ」「カッター」にて収容』
- ↑ #捷号作戦はなぜ失敗したのか31頁
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ #昭和19年5月~熊野日誌(4)p.28