バタビア沖海戦

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戦争太平洋戦争/大東亜戦争
年月日:1942年2月28日-3月1日
場所インドネシア・バンタム湾沖
結果:日本の勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1889 テンプレート:USA1912
テンプレート:Flagicon オーストラリア
テンプレート:NED
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 原顕三郎少将
栗田健男少将
H・ウォーラー大佐
A・H・ルークス大佐
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 重巡洋艦2
軽巡洋艦1
駆逐艦13
(輸送船団約50隻)
重巡洋艦1
軽巡洋艦1
駆逐艦1
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 駆逐艦3小破
掃海艇1、輸送船1沈没、輸送船2、病院船1大破)
重巡洋艦1
軽巡洋艦1
駆逐艦1沈没
指揮官戦死

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バタビア沖海戦(バタビアおきかいせん)とは太平洋戦争大東亜戦争)中の1942年3月1日日本軍連合軍との間で行われた海戦日本海軍艦隊とABDA連合艦隊の夜戦。連合軍側の呼称はスンダ海峡海戦(Battle of the Sunda Strait)。

海戦の背景

スラバヤ沖海戦で敗れた連合軍の残存艦隊のうち、アメリカ海軍重巡洋艦ヒューストン[1]オーストラリア海軍軽巡洋艦パース」は、スラバヤ沖海戦で戦死したドールマン少将の最期の命令により先任のヘクター・ウォーラー「パース」艦長の指揮下でジャワ島バタビア(現ジャカルタ)に撤退し、2月28日朝、バタビアに到着した[2]。しかし、バタビアは最早連合軍にとって安全な場所ではなく、戦力の再編成を行うためにABDA司令部よりスンダ海峡経由でジャワ島南岸のチラチャップへ移動する命令が下された。

2月28日夕、寄港から僅か半日で「ヒューストン」と「パース」の2隻が出港した。オランダ海軍駆逐艦「エヴェルトセン(エヴァンツェンとも)」が護衛するはずであったが、出撃準備が間に合わず、後から続くこととされた。しかし遅れて出港した駆逐艦「エヴェルトセン」は、先行部隊が交戦しているのを目撃し、圧倒的な日本艦隊との接触を避けて海峡を通過しようとした。しかし、先行部隊が壊滅した約1時間半後に日本軍に捕捉されて大破し、サブク島の海岸に擱坐して失われた[3]

一方、日本軍は2月18日に今村均陸軍中将率いる第16軍が西部ジャワ島攻略(蘭印作戦)のため輸送船56隻に分乗し、カムラン湾を出撃していた。これを護衛するのは第五水雷戦隊司令官 原顕三郎少将指揮の第3護衛隊(軽巡2、駆逐艦15、水雷艇2、掃海艇5、その他3、計27隻)であった。これに加えて西方支援隊として第七戦隊の重巡4隻、第十九駆逐隊の駆逐艦2隻が間接支援を行っていた。この部隊は3月1日午前0時を期してメラク湾、バンダム湾に入泊、上陸作戦を開始した。海戦当日の月齢は13、非常に明るい夜であったという。

参加艦艇

日本軍側

第3護衛隊(司令官:原顕三郎少将))

西方支援隊

上陸船団

連合軍側

ABDA連合部隊

  • 駆逐艦 エヴェルトセン

戦闘経過

会敵

先行した2隻の連合軍巡洋艦隊は、途中のジャワ島バンタム湾バビ島付近に差し掛かったとき、前方に日本軍の輸送船団を発見した。付近に護衛艦艇を発見できなかったことから、両艦はこれを攻撃すべく突撃を開始した。しかし、既に両艦は3月1日0009(0時9分、以下時間は数字表記のみ)、バビ島東方で哨戒を行っていた駆逐艦「吹雪」に発見されていた[4]。「吹雪」は後方8,000mを追尾し始め、敵艦の行動を逐一護衛司令部に報告していた[4]。一方、セントニコラス岬沖合いで哨戒中だった原司令官座乗の軽巡「名取」、駆逐艦「初雪」「白雪」も0018、東方2万mに敵艦を発見する。更に0029、パンジャン島沖合いを哨戒中の駆逐艦「春風」も距離8,000mで敵艦を発見、通報する。しかしこの時点においても連合軍の2艦は未だに日本軍の護衛部隊を発見しておらず、突撃を続けていた[4]

原司令官は一刻の猶予も無いとして第三護衛隊全艦に対して集結命令を出した上で、北方沖合を哨戒中だった西部支援隊の第7戦隊第二小隊の重巡「三隈」「最上」、駆逐艦「敷波」に対しても直ちに集合するよう命じた上で、「名取」と第11駆逐隊には「魚雷戦用意」を下令した。原司令官は迎撃準備を整える一方、敵が味方重巡の出現により形勢不利と考えて遁走することも警戒していた。従って戦闘は「名取」と駆逐隊で広い海面に誘い出し、味方船団からも引き離した上で一挙に戦力を集中して撃滅する、という方針を立てた。

しかし、そうこうしているうちに「ヒューストン」と「パース」はぐんぐん船団に近づいていき、0037まず「パース」が照明弾を発射する。これに続いて「ヒューストン」が轟然と輸送船に対して主砲で砲撃を始めたが、距離がまだ遠かったため命中はしなかった。一方、連合軍はようやく後方に艦がいることに気づいた。「パース」が発光信号で誰何を行った直後の0044、後方を追尾していた駆逐艦「吹雪」が距離2,500mで「ヒューストン」に対して魚雷9本を発射し、更に12.7センチ主砲で砲撃を開始した[4]。これに対して連合軍両艦は面舵で急旋回を行い魚雷を回避しつつ急斉射で反撃したが、「吹雪」は煙幕を展張して避退した。また連合軍の船団への砲撃開始を見た駆逐艦「春風」が敵艦と船団の間に割って入り、煙幕を展張した。この煙幕は当時まだレーダーを装備していなかった連合軍艦船に対して極めて有効に働き、これによって連合軍の両艦は船団砲撃が出来なくなった。

原司令官も敵艦の味方船団への砲撃開始を確認した直後の0045、これを救援すべく麾下の第5駆逐隊と第11駆逐隊に対して「駆逐隊突撃せよ」と下令した。しかし船団傍にいた第5駆逐隊の「旗風」は敵艦との距離が3,500mまで近接しており、直ちに砲撃を開始したが12センチ砲4門では巡洋艦2隻の相手にはならず、逆に猛烈な反撃を受け離脱、一旦集結地点へ向かい北上した。「旗風」は0102、セントニコラス沖北方約10kmの海上で「春風」「朝風」と合流すると直ちに敵艦へ向かって南下、突撃を開始した。

原司令官の「突撃せよ」の命令に伴い、各駆逐隊は各々敵艦に向けて突撃を仕掛けた。0110、まず第11駆逐隊の「初雪」「白雪」が距離3,500mまで接近すると魚雷を各艦9本、計18本を発射し北方に離脱した。次に集結して戦場に戻ってきた第5駆逐隊の駆逐艦3隻が魚雷を発射しようとしたが、これは敵艦の猛烈な砲火により「旗風」「春風」が発射時期を逸して「朝風」のみが6本の魚雷を発射、離脱する。軽巡「名取」も砲撃しつつ頃合を見て魚雷4本を発射し北方へ離脱。しかしこれらは尽くかわされてしまった。「名取」と第11駆逐隊は北方へ離脱しつつ魚雷の次発装填を急ぎ、また第一撃で射点を逸して魚雷を発射できなかった「旗風」「春風」は再度の襲撃運動に入っていた。

0119、駆逐隊の攻撃の邪魔にならぬよう攻撃を控えていた第7戦隊の重巡「三隈」「最上」が攻撃に参加する。まず、距離11,200mから両艦はそれぞれ6本ずつの魚雷を発射する。更に距離11,000mで照射砲撃を開始。これらの攻撃は尽く連合軍艦隊2番艦の米重巡「ヒューストン」に集中された。「ヒューストン」は次々と命中弾を受け次第に速力が低下し始めた。しかしここで「三隈」の主接断器に故障が生じ探照灯等の電気系統が麻痺し主砲射撃が出来なくなった。「三隈」は已む無く砲撃を中止するが続航する「最上」は砲撃を続けた。

0124、「春風」が魚雷6本を「パース」に向け発射する。これが「パース」を捉え更に「旗風」も魚雷6本を発射。これも「パース」に命中する。「パース」はこれにより航行不能となった。

0127、「最上」は「ヒューストン」へ向け魚雷6本を発射する。この魚雷は後に問題となった。

決着

0130、電路修理の終わった「三隈」が戦列に復帰する。「三隈」は距離9,000mで「ヒューストン」に砲撃を開始、命中弾多数を確認後「パース」に目標を変更する。更に第12駆逐隊の駆逐艦「白雲」「叢雲」が航行不能の「パース」に向け各9本の魚雷を発射する。これが「パース」にとって止めとなった。0142、被雷した「パース」は急速に沈没していった[5]。682名の乗組員のうち、ウォーラー艦長を含む353名が戦死、100名が捕虜生活中に死亡、229人が帰国した[6]

残った「ヒューストン」は15ktで走っていたが、機関室への命中弾で機関科兵員が全滅[5]、次々と命中する敵弾により既に主砲は沈黙し、僅かに数門の高角砲が火を吐くだけになっていた。日本軍はこの艦に対し手を緩めず攻撃を続ける。「ヒューストン」はこの時点で既に被雷4本以上、被弾50発以上の損害を受け浮いているのが不思議な状態であった。0156、「ヒューストン」の主砲が沈黙したことを確認した第七戦隊は砲撃を中止、戦隊の護衛についていた駆逐艦「敷波」を分離して「ヒューストン」に止めをさすことにした。命令を受けた「敷波」は直ちに戦隊から分離、突撃に移ると0159、「ヒューストン」へ向け九〇式魚雷を1本発射する。「敷波」は更に「ヒューストン」に銃砲撃を加えた。「ヒューストン」では既に艦長A・H・ルックス大佐が戦死しており副長が指揮を代行していたが「敷波」の魚雷命中を受けて総員退去命令が下された[6]。そして0206、「ヒューストン」は転覆、艦尾から沈んでいった。「ヒューストン」乗組員は1008名中、368名が日本軍に救助されたがそのうち76名は収容所内で死亡、266名が戦後帰国した[6]

同士討ち

海戦自体は約2時間の戦闘で連合軍巡洋艦2隻撃沈、日本軍の損害軽微と日本海軍の一方的な勝利に終わったが、海戦もたけなわの頃、0135日本軍輸送船団を直衛していた第二号掃海艇が突然右舷缶室に魚雷1本の直撃を受けた。第二号掃海艇は行き足がついたまま横転し、轟沈した。更に、0138に陸軍輸送船の佐倉丸(日本郵船、9,246トン)の左舷4番船倉に魚雷1本が命中、さらに0200頃に左舷機関室に魚雷1本が命中し沈没、0140に陸軍病院船の蓬莱丸(大阪商船、9,192トン)の左舷機関室に魚雷1本が命中し、横転着底した、また、陸軍輸送船の龍野丸(日本郵船、7,296トン)が魚雷を回避中に座礁するという損害が出た。輸送船団は直ちに魚雷を発射した敵影を探したがどこにも見つからなかった。第16軍司令官今村均中将座乗の陸軍特殊船揚陸艦神州丸にも魚雷が命中して、同艦は大破着底した。今村中将は海上へ投げ出され、3時間の漂流後に救助された。日本海軍では海戦直後から原因調査したが、連合軍艦艇から魚雷が発射された形跡も無く、また他に敵影も見られなかった。そして輸送船の被雷時刻、射線方向、爆発の威力からして0127に「最上」が発射した魚雷が敵艦に命中せずにそのまま射線延長線上の輸送船団に到達した可能性が高いことが判明した。更に陸軍の上陸点付近で九三式魚雷の尾部が引き上げられる事態に至り、第3護衛隊司令部は原因は味方の誤射と判断。今村中将に対して護衛隊司令部一同が謝罪しに行く騒ぎへと発展した。謝罪をうけた今村司令官はこれを快く受け入れると、この事件に関しては敵魚雷艇の損害とすることを提案、海軍の顔を立てたのであった。護衛隊司令官の原少将はこの後、この海戦の戦訓所見として「輸送船団至近ノ海面ニ於ケル戦闘ニシテ、シカモ多数ノ夜戦隊挟撃ノ態勢ニ於ケル魚雷戦ニ於イテハ、射線方向ニ対シテ特ニ深甚ノ注意ヲ要ス」と戦闘詳報に明記している[7]

その後

同じ3月1日昼過ぎには、イギリス海軍の重巡「エクセター」も撃沈されており、ABDA連合艦隊の主力は失われた。スラバヤ沖海戦に参加した艦艇のうち脱出に成功したのは、バリ海峡の突破に成功したアメリカ海軍の駆逐艦4隻のみだった。その他、多くの小艦艇がオーストラリアやセイロン島を目指し脱出を試みたが、アメリカ駆逐艦「エドソール」のようにほとんどは撃沈された。[8]第16軍は3月1月、ジャワ島各所に上陸し、8日にはオランダ軍が降伏、10日にジャワ島の要地バンドンを陥落させた。蘭印を掌握した日本軍は、インド洋攻撃も行った。[9]

また、大破擱座したり、座礁した輸送船のうち、神州丸と龍野丸はサルベージされて修理される。神州丸は1945年(昭和20年)1月3日、台湾の高雄沖にて米機動部隊の空襲を受けて大破放棄され、漂流中に米潜「アスプロ」の雷撃を受け沈没している。龍野丸は修理後、応急タンカーに改装[10]され、海軍徴用船となって行動[11]し、1944年(昭和19年)1月15日にマニラから門司に向かう途中、ルソン海峡で米潜「スレッシャー」が発射した魚雷2本が左舷2番船倉に命中し、船体が竜骨ごと真っ二つにへし折られて沈没している[12]

脚注

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参考文献

  • ヒューストンは、ジャワ沖海戦などにより損傷状態であり、第3砲塔は既に使用不能だった。
  • #連合国艦隊壊滅すp.246
  • #連合国艦隊壊滅すp.252
  • 4.0 4.1 4.2 4.3 #連合国艦隊壊滅すp.248
  • 5.0 5.1 #連合国艦隊壊滅すp.249
  • 6.0 6.1 6.2 #連合国艦隊壊滅すp.250
  • 『「バタビヤ沖」海戦戦闘詳報』p.59
  • アメリカ海軍の軽巡2隻は大破して本国に回航され生き残った。またイギリス軽巡2隻とオーストラリア軽巡1隻を中核とした部隊があったが、戦闘に参加しないまま早期にスンダ海峡を突破して脱出している。
  • ジャワ島の軍政を担当した日本陸軍第16軍の司令官今村均中将は、優れた統治を行ったとされる。今村中将に高い評価を与えたオランダ軍は、戦後の戦犯裁判で今村中将を追及せず無罪とし、アメリカ軍のマッカーサーも今村中将の責任感に感動したと言われている。
  • #松井 pp.110-111
  • #郵船戦時上 p.462
  • #郵船100年史 p.167