大山寺 (伊勢原市)
大山寺(おおやまでら)は、神奈川県伊勢原市にある真言宗大覚寺派の寺院である。大山不動の通称で知られる。山号は雨降山(あぶりさん)。本尊は不動明王。開基(創立者)は良弁と伝える。
高幡山金剛寺、成田山新勝寺と共にしばしば「関東の三大不動」に数えられ、江戸期には江戸近郊の観光地として賑わい、落語にも「百人坊主」として題材に取り上げられるほど、広く一般に浸透した。
歴史
大山は、丹沢山地の東端、伊勢原市域の西北端に位置する標高1,252メートルの山である。山頂付近の発掘調査により、縄文時代後期の土器片、古墳時代の須恵器・土師器などが発掘されている(縄文土器については後に持ち込まれたものとする説もある)。山頂には阿夫利神社(現・大山阿夫利神社上社)、中腹には同神社の別当寺の大山寺(不動堂)があった。阿夫利神社(石尊大権現)は『延喜式』「神名帳」にも記載がある古社で、この山が古くから山岳信仰の霊地であったことがわかる。[1]
『続群書類従』所載の『大山寺縁起』によれば、大山寺は天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当(住職)の良弁が聖武天皇の勅願寺として開創したという[1]。寺伝では空海(弘法大師)を3世住持と伝承する[1]。元慶2年(878年)に地震に伴う火災で焼失し、同8年(884年)に復興するという[1]。『吾妻鏡』によれば、建久3年(1192年)8月9日、源頼朝は北条政子の安産祈願のため、当寺を含む相模国の寺社に神馬を奉納している[2][3]。その後一時衰退するが、文永年間(1264 - 1275年)、願行房憲静(けんじょう)により中興。中世には修験系の信仰の場として栄えた[1]。
近世初頭、徳川家康は大山寺の改革を断行。慶長13年(1608年)に57石、同15年(1610年)にさらに100石を寄進するなど保護を与える一方で、修験者や妻帯僧を下山させ、清僧(妻帯しない僧)のみを山上に住持させた。3代将軍徳川家光も伽藍の修復代を寄進するなどの援助を与え、家光の代参として春日局が2度にわたり参詣している。江戸時代中期(18世紀後半)以降、豊作や商売繁盛などの現世利益を祈念する人々による「大山詣で」が盛んになり、関東各地に「大山講」が組織され、大山参詣へ向かう「大山道」が整備された。前述の家康の改革で下山した修験者らは「御師」として参詣者の先導役を務め、山麓の伊勢原や秦野には参詣者向けの宿坊が軒を連ね、門前町として栄えた[1]。
明治初期の廃仏毀釈・神仏分離で大山の廃仏と神社化が図られ、大山中腹にあった不動堂は破却されて、現在の大山阿夫利神社下社となった。その後、明治9年(1876年)、現在地(元の来迎院の跡地)にて不動堂の再建が着手され、明治18年(1885年)に明王院という寺名で再興された。大正4年(1915年)、明王院は観音寺と合併し、ようやく大山寺の旧寺号が復活した。[4]
文化財
- 鉄造不動明王二童子像(重要文化財)-日本では鉄造の仏像は鎌倉時代を中心に制作されているが、鉄は銅に比べて衣文などの細部の鋳造がむずかしく、鋳造後の表面の仕上げも困難なため、優れた作品は比較的少ない。本作は、鎌倉時代の鉄仏のなかでも秀作の1つに数えられるものである。不動明王像に比べ、左右の二童子像は鋳型のずれが見られるなど、やや技法的に難がある。毎月8・18・28日に開帳。
所在地
巡礼等
- 関東三大不動
- 関東三十六不動尊霊場:第1番
- 関東八十八箇所:第60番
交通アクセス
脚注
参考文献
関連項目
- 大山阿夫利神社
- 大山観光電鉄大山鋼索線(大山ケーブルカー)
- 大山(雨降山)
外部リンク
- 雨降山 大山寺 (公式サイト)