イバード派
イバード派(アラビア語 : الاباضية al-Ibādīya)は、イスラム教の宗派のひとつ。初期に多数派(のちのスンナ派とシーア派)から分派して成立したハワーリジュ派の流れを汲み、現在は主にオマーンに多い。イバード派の名は、最初の指導者とされる人物の名に由来している。
教義
イバード派はハワーリジュ派の系統に属するが、ハワーリジュ派の特徴とされる他宗派に対する排斥的な態度はとらず、他宗派に寛容な穏健派に位置付けられる。法学的にはマーリク学派、神学的にはテンプレート:仮リンクに近いとされるように、その教義はスンナ派の発展させたそれと非常に密接な関係にあり、政治的には一般にスンナ派と協調的である。
イバード派の教義において特徴的な点はイマーム論である。イバード派ではイマームを共同体の指導者として位置付けるが、指導者をクライシュ族出身に限定するスンナ派とも、ムハンマドの娘婿アリーの子孫に限定するシーア派とも異なり、宗教的に敬虔で指導者となるべき資質を持つ者ならば誰でもイマームになれるとする。この点はハワーリジュ派と変わりない。実際にイマームの選出を担うのは、有力なウラマー(宗教指導者)たちであり、部族がこれを承認するという形式を踏む。
イバード派はスンナ派からみると異端視されることもあるので、信徒はイバード派の信仰を隠すこと(テンプレート:仮リンク)を認める。イバード派共同体の力が弱いときはイマームを置かず政治的にも隠れの状態に入ることが許されており、この制度のおかげでハワーリジュ派が弾圧され衰退した後も生き延びることができたと言われる。
歴史
イバード派は、ハワーリジュ派が興ってから30年ほど後の7世紀末にイラク南部のバスラを中心に成立したとされる。
アッバース朝期に入りイラクがスンナ派圏の中心となるとバスラにおける勢力は後退するが、8世紀にはアラビア半島の南部や、北アフリカ(マグリブ)のベルベル人の間に布教の活路を見出していった。マグリブのイバード派は、ベルベル人の軍事力を活用してテンプレート:仮リンクを建国し、オマーンでは早い時期にイバード派が地域における支配的な宗派となり、イバード派を奉ずる勢力による国家が興亡した。
マグリブにおけるイバード派は、10世紀にルスタム朝がファーティマ朝によって滅ぼされるなどして政治的に衰退し、現在はリビアの西部やアルジェリアの南部などの砂漠地帯に少数が存続するのみとなっている。
一方、オマーンのイバード派は、18世紀中頃にアラブ人のブーサイード族から出たアフマド・イブン=サイードがイバード派のイマームとなり、現在までオマーンの王家として続いているテンプレート:仮リンク[1]を興した。しかしブーサイード朝の支配者は19世紀の初頭からイマームではなく世俗的な支配者として君臨しており、同国はイバード派の神権国家というわけではない。