上田貞次郎
テンプレート:混同 テンプレート:複数の問題 上田 貞次郎(うえだ ていじろう、1879年5月12日 - 1940年5月8日)は日本の経営学者、経済学者。1937年、帝国学士院会員。1940年、正三位旭日重光章。1932年、勲二等瑞宝章。
略歴
上田家は祖父の代まで町人であったが、父上田章が漢学をやったために、士族に引き上げられた[1]。
旧制正則中学校(現正則高等学校)を経て、1902年に高等商業学校(現一橋大学)専攻部貿易科卒、同年福田徳三に師事。卒業後イギリスやドイツ等に留学し、アシュレーやウェッブ夫妻等の下で学ぶ。1919年、法学博士。1925年、如水会常務理事。
1902年、高等商業学校嘱託講師となり、1905年に同教授。1936年、三浦新七の後任として、東京商科大学(現一橋大学)学長就任。東京海上社長を務めた各務鎌吉の遺産をもとに東亜経済研究所(現・一橋大学経済研究所)を設立し、初代所長に就任。学長在任中の1940年に盲腸炎で急逝。在学生の寄付により、一橋大学国立キャンパスに胸像が建てられた。
1918年、商学会を設立し同幹事就任。1928年、志立鉄次郎や平生釟三郎とともに自由通商協会を設立し同常務理事。1933年、人口問題研究会理事。1940年、国立人口問題研究所(現国立社会保障・人口問題研究所)参与。
1916年、徳川家理事。1919年、第1回国際労働会議(国際労働機関の総会)政府代表顧問に代表の鎌田栄吉に請われ就任。1926年、徳川家顧問。1927年、国際経済会議日本代表に首席代表の志立鉄次郎に請われ就任。1933年および1936年、太平洋会議日本代表等も歴任。
弟子
弟子に一橋大学教授や日本学士院会員等を歴任した上田辰之助、東京商科大学教授を辞し実業界に転じた猪谷善一、会計学者の太田哲三、思想史家の金子鷹之助、経済学者の山中篤太郎等。
上田ゼミナール出身者としては、茂木啓三郎(キッコーマン第2代社長・中興の祖)、正田英三郎(元日清製粉社長、美智子皇后の父)、森泰吉郎(森ビル設立者)、小坂善太郎(元外務大臣)、安居喜造(元東レ会長)、川村勝巳(元大日本インキ化学工業社長)等がいる。
家族
父は儒学者で、紀州藩藩校明教館寮長や紀州藩公用局副知事等を務めた上田章。
二男の上田良二は物理学者で名古屋大学教授を務めた。社会学者で名古屋大学准教授の上村泰裕は曾孫。
著書
脚注
- ↑ 上田貞次郎「士族の思い出」『文藝春秋』1926年11月号。のちに上田貞次郎『白雲去来』所収。