強行採決
強行採決(きょうこうさいけつ)とは、採決に賛成する多数派が、少数派の審議継続の主張を押し切って、審議を終了させて議案の採決を行い、法案を可決する行為のことを、少数派やマスコミが批判的に表現したもの。以下、日本の国会における強行採決について記述する。
概説
国会法においては質疑応答および議論を審議で一通り終われば採決にいたることが決められている。この審議の手続きが明確に立法化されている場合は審議の無作為な引き延ばしや中断ができない。ところが戦後日本においては長く自民党が過半数をしめる状態が続いたため、「多数派の専制」を避けるという意味でも、法案採決において何らかの形で(共産党を除く)野党の合意を取り付けるという紳士協定が長らく存在した。国会では議案に充当させる審議時間の配分や審議の順番など議事日程は議案ごとの均等割ではなく、議案ごとに議院運営委員会で調整され、ここでの調整が重要な政治上での駆け引きの材料となってきた(国対政治)。このため、議院運営委員会での優勢を背景に、野党の合意を取り付けないまま審議を終了させ、法案を採決することを「強行」とマスコミや野党が表現した。また与党が一方的に審議を打ち切ることから、「与党による審議拒否」とのレトリックが用いられることもある。ただし、法案に反対する野党側が無作為に審議継続を要求し、法案の可決を引き延ばす行為に出た場合に審議を終了させるのは批判の対象とならない。
日本の国会では、制度上は多数派による議事運営が規定されているものの、現実には与野党合意が慣例化されていた。[1][2]。
- 委員会の議事運営は委員長の職権である(衆議院規則、参議院規則)が、現実には当該委員会の理事会や理事懇談会での与野党交渉で審議日程が決定される。
- 本会議の議事運営は議長(衆議院議長、参議院議長)の職権であり(国会法第55条)、議院運営委員会(議運)の決定に基づいて審議日程が組まれる。しかし、現実には議運の理事会あるいは理事懇談会での与野党交渉によって審議日程が決定され、議運においても多くの場合は(多数決採決ではなく)全会一致で決定される[3] 。
- 本会議や委員会の議事運営の与野党交渉が暗礁に乗り上げた場合は、各政党の機関である国会対策委員会が調整に乗り出す。
しかし、それでも与野党が合意に達しない場合は、与党が単独で採決日を決めて採決を行うべきか否かが与党内で検討される。
委員会審議における強行採決は、通常、与党の若手議員が質疑打ち切りの動議を審議途中に挙手して口頭で提案し、それを可決する[4]か、委員長の職権で質疑終局の宣告をして採決に移る。これに対して、野党が議案の採決を阻止を企図する場合もある。物理的な議事妨害としては、委員長の入室を妨害する、委員長のマイクを奪う、などが挙げられる(これに対して与党は、委員長を衛視に護衛させて入室させ開会し審議を通す)。このほか、牛タン戦術や審議拒否などの手法が採られることもある。本会議の場合、議長の本会議場入場を阻止するピケ戦術を行う、内閣不信任決議案・議長不信任決議案・委員長解任決議案等を提出して牛歩戦術を行う、などの手法が挙げられる。
委員長が与党議員であると比較的円滑に採決が行われるが、野党議員の場合は一般にそのままでは強行採決は不可能となる。このため、野党が委員長ポストを占める「逆転委員会」に付託される内閣提出法案は、野党に宥和的な内容となる傾向がある[5] 。また、逆転委員会で法案審議が滞った場合、本会議が中間報告を求め、直ちに本会議での審議に移行して採決させるという手法が採られることもある。
一方の議院で可決してももう一方の議院で可決できないまま会期終了すると国会の議決とならないため、法案成立のためには衆議院の再議決するためのみなし否決の60日間、予算成立や条約承認のために自然成立する30日間の日数が必要なため、会期日数を考慮して衆議院で強行採決をする場合がある。特にいわゆるねじれ国会の場合は与党による参議院での強行採決が不可能なため、会期日数を考慮に入れて衆議院における委員会と本会議での採決日が決められる。
評価
強行採決を批判する立場からすると、少数派議員にとっては国民の持つ主権の至上性を代表している議員の名誉に対する極端な冒涜であり、多数派のなかの反対議員に対して行われる党議拘束とともに代表民主政治(間接民主政治)を否定する数の暴力の典型、となる。一方で審議の後に多数決で立法を決定する手続きは議会政治の基本であり、審議とはあくまでも意見の発表の場であり少数派が納得するまで続けよなどとする要求は会期制をとる議会の議会運営を無理に難しくするもので、少なくとも憲法典が多数決による法案採否を前提としている以上「強行」と批判的に表現すること自体には法的効果はない。また少数派は多数派の譲歩や妥協を得るための交渉を禁じられているわけではなく、また議員や投票有権者に説得を続けることで多数派を形成し自らの理念の立法化を目指すのが本筋であるという対立意見も存在する。党議拘束については政治的拘束にすぎず、これに反して自由投票を行うことが法律上禁じられているわけではないので、不満であれば離党を覚悟して自らの意志で投票すればよいとの主張もしばしば見られる。
命令委任の観点[6]では個々の議員は有権者団の結論の仮の投票者にすぎないため、「強行」採決には倫理上の問題は生じず「強行」と表現されることもない。日本の国会議員は自由委任と解される(憲法43条)が半代表の主張も有力である(国民主権も参照)。判例では強行採決による立法過程が法律の効力に影響を与えることは無いと判示している[7]。
ただし、近年は日本も二大政党政治に移行している。この場合、野党側としては、与党の政策を批判して、明確な対立的立場を表明する方が次期の選挙において有利なため、特に重要な案件では、与党側の立案に賛成しない傾向が増えてきているため、こぞって、審議が野党の合意を取り付けないまま採決に至る「強行」が増えてきている。近年の例としてはでは通信傍受法案(1999年)、イラク特措法案(2003年)、国民年金法改定案(2004年)の採決などがあげられる。
一方、野党が採決で議題を否決しようとせず最初から採決そのものを否定するのは、議案を可決することによる問題点を審議過程で野党が明らかにしても、ほとんどの場合、与党の党議拘束に基づく数の論理を背景に議案が可決されるためである[8]。このため、与党議員への造反工作をほとんど行わずに議事妨害に終始していることから、野党の対応への批判もある。
いずれにせよ、与野党ともどこまで強硬な姿勢を維持できるかは、世論の動向により、ケースバイケースである。
背景
日本で強行採決が繰り返されてきた理由としては、
- 審議時間が比較的短いこと[9]
- 「議論が尽くされていない」などの野党側の言い分が説得力を持ちやすい。
- 会期が短く、本会議で継続審議の議決をしない限り会期終了とともに廃案となること(「会期不継続の原則」)
- 審議未了を防ぐために早めに採決をしなければならない与党の事情と、採決を引き延ばせば廃案になるという野党の国会戦略が対立して、採決日程が合意に至らない。
- 与野党とも造反が少ないこと[10]
- 内閣提出法案が採決に持ち込まれた場合は、可決がほぼ保証されている。
が挙げられる。このような事情から、円滑に法案を成立させるためには、与党が野党の法案修正協議に応じる[11]か、与党が強行採決に踏み切ることとなる。
これに対して、多くの西側民主主義国の議会では、
などにより、強行採決があまり行われない。なぜなら、野党にとっては廃案を目的とした採決の引き延ばしの意味が薄く、また、与党にとっては議会制度を理由とした早期採決への誘因が乏しい上に、むしろ与党議員の造反による政権へのダメージを考慮するためである。
具体例
政府与党が議事手続の枠組みを越えて強行採決した例として、1965年の日韓条約・協定および関連法案や、1969年の大学運営臨時措置法案がある[15]。
裏話
テンプレート:See also 与党が強行採決する際は、国会対策委員長同士や会談や委員会の理事懇談会といった非公式な場で、野党側に対して「○時○分に採決に踏み切る。」あるいは「○○議員の質疑終了後、質疑を終局する。」などと事前通告されている。このため、採決間近になると、与野党の議員が集結の準備を整えており、マスコミ各社のカメラもスタンバイを終えている。採決する時間も、NHKの生中継がしやすい時間帯を選んで設定されている。一方、一部の野党が出席して強行採決に踏み切る予定が、段取りを間違え全野党議員が欠席のまま採決してしまったため、数時間後に改めて野党議員の出席の上で強行採決をやり直した例もある。また、与野党対立を激化させないため、委員会で強行採決を行ったあと、当該委員会の委員長が引責辞任することもある。
このように、与野党が対立する法案にあって、どうしても妥協点が見出せない場合、ギリギリの落とし所として、強行採決が選択される。与党は法案を可決させるという「実」を取り、野党側は「体を張ってこの法案を阻止しようとした。」という姿を国民にアピールする「名」を取る。その意味では、与党が野党の顔を立てたものとも言える。
かつては岸内閣における安保国会や佐藤内閣における日韓国会などでは野党への事前通告なしに抜き打ちで強行採決が行われていた[16]。しかし、田中角栄が自民党幹事長に就任して以降は、野党を懐柔するために裏舞台で根回しをする国会運営が浸透し、事前通告なしの抜き打ちでの強行採決はほぼ無くなった。
その意味で、長らく政権交代のない55年体制、国対政治で醸成された日本的慣習・慣例であるとも言える。
なお、強行採決そのものは、戦前の帝国議会から存在していた。
脚注
参考文献
- 岩井奉信 『立法過程』 東京大学出版会、1988年。
- 大山礼子 『国会学入門 第2版』 三省堂、2003年。
- 川人貞史 『日本の国会制度と政党政治』 東京大学出版会、2005年。
- 増山幹高 『議会制度と日本政治』 木鐸社、2003年。
- 中山千夏 『国会という所』 岩波書店、1986年。
- 「強行採決の議事手続法上の問題点--「委員長報告」の省略を中心にして」清水睦(ジュリスト(341),30-34,1966-02有斐閣)
- 「強行採決と議会制民主主義の動揺」橋本公亘(ジュリスト(341),24-27,1966-02有斐閣)
関連項目
- 戦後国会の初期では、議運は多数決で本会議の議事日程を決定しており、各派交渉会の流れを汲んだ全会一致による議事運営機関(たとえば議院運営小委員協議会)は定着しなかった。
- 一方で、他の常任委員会では理事会での全会一致による議事運営が定着し始めた。ただし、帝国議会は本会議中心主義だったので、各委員会での全会一致による議事運営は戦前の名残ではなく、戦後国会の独自の慣例である。
- 理事会での与野党協議が議運でも定着したのは、他の委員会から波及したためである。実際、議運で多数決採決が減少するのは55年体制の成立以降のことである。
- よって、戦後の議運および本会議の議事運営は、戦前以来の制度的慣行に立脚するものではなく、与野党が合意する限りにおいて全会一致が成立するに過ぎない。