マリオ・アンドレッティ

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テンプレート:Infobox マリオ・ガブリエーレ・アンドレッティMario Gabriele Andretti1940年2月28日 - )はアメリカ人のレーシングドライバー。1978年のF1ワールドチャンピオンであり、インディカーでも4回のチャンピオンを獲得した。インディ500デイトナ500とF1チャンピオンを全て獲得した唯一のドライバーである。

プロフィール

アメリカでの成功

ファイル:AndrettiHawk.jpg
1969年のインディ500で優勝したホークのレプリカ

マリオ・アンドレッティは当時イタリア領のモンタナ・ディストリア(Montona d'Istria、現在のクロアチアモトヴン)で生まれ、第二次世界大戦後に一家でアメリカへ移住した。

アメリカへ移るとすぐ、1959年ダートオーバルレースからレーシングキャリアをスタートさせた。1964年にアメリカ国籍を獲得し、アメリカ合衆国自動車クラブ (USAC) のオープンホイールカー・シリーズ(後のCARTシリーズ)に参戦するようになる。1965年にはUSACのナショナルチャンピオンを獲得し、1966年、1969年にもチャンピオンに輝いた。

世界三大レースのひとつであるインディ500では1965年にルーキー・オブ・ザ・イヤー、1966年に初ポールポジション、1969年に初優勝を達成した。また、ストックカーレースNASCAR)のデイトナ500でも1967年に優勝し、名実共にアメリカを代表するドライバーのひとりになった。

また、スポーツカーレースにおいてもセブリング12時間レースで3勝、デイトナ24時間レースで1勝し、ル・マン24時間レースカナディアン-アメリカン・チャレンジカップ (Can-Am) に参戦するなど、車両やコースの種類を問わないオールマイティーな才能をみせた。

F1参戦

ファイル:AndrettiMario19690801Lotus63-Allrad-3.jpg
4WDロータス・63をドライブするアンドレッティ(1969年)
ファイル:Andretti celebrating at 1978 Dutch Grand Prix.jpg
1978年オランダGPで優勝したアンドレッティ

1968年、アンドレッティはロータスよりスポット参戦でF1に参戦を開始した。初参戦はイタリアGPだったが、予選走行後、同週末に開催されたフージャー100に参戦するためにアメリカに戻った。イタリアGP主催者は、アンドレッティがフージャー100に参戦した場合には、レースの24時間以内に別のレースに参戦することを禁じたルールに従い、イタリアGPへの出走を禁じるとしていた。アンドレッティはアメリカに戻り、イタリアGP決勝には出走しなかった[1]。2度目の参戦はアメリカGPだった。このレースでアンドレッティはポールポジションを獲得した。F1では、初めて決勝に進出したレースをデビュー戦とするため、アンドレッティは「デビュー戦でポールポジション」を獲得したことになる。F1デビュー戦でPPを獲得したのは史上4人しかいない[2]

1971年にはフェラーリに乗り、開幕戦南アフリカGPでF1初優勝を記録。1975年にはアメリカチームのパーネリでフル参戦するが、撤退により1976年途中からロータスに加入。コーリン・チャップマンと協力して当時低迷していたチームを徐々に上位に押し上げて行く。同年に日本で初めて開催されたF1レース、F1世界選手権イン・ジャパンでは、豪雨の中でロータス・77を見事に操り、5年ぶりの優勝を飾った。1977年シーズンは年間最多勝(4勝)を記録した。

1978年は最強のウィングカーロータス・79を得て年間6勝を挙げ、フィル・ヒル(1961年)以来2人目となるアメリカ人F1チャンピオンとなった。ただし一部には「チームメイトのロニー・ピーターソンの方がアンドレッティより速いのに、チームオーダーでアンドレッティを先行させていた」という説も存在する。当時アンドレッティ自身、「チーム内の約束がなければロニーが勝てたレースはまだ2つか3つはあっただろう」と語っている。しかしながら、この年のロータス79の活躍はアンドレッティの卓越したマシン開発能力によるものであることは疑いようもない事実である。

1981年シーズンをアルファ・ロメオで過ごした後、F1へのフル参戦に区切りをつけた。しかし1982年、カルロス・ロイテマンの突然の引退を埋める形でウィリアムズに加わり、アメリカ西GPに出走。同年終盤のイタリアGPとラスベガスGPには、ジル・ヴィルヌーヴディディエ・ピローニのレギュラー2人を相次いで欠いたフェラーリの要請に応える形で出走し、イタリアGPでは予選1位、決勝3位と活躍した。

再びアメリカへ

1982年をもってF1での活動は完全に終了し、活躍の場をアメリカに戻した。アンドレッティのF1撤退後25年間に、F1に参戦したアメリカ人ドライバーはエディ・チーバーダニー・サリバン、息子のマイケル、スコット・スピードのわずか4人だけである。

1984年には4回目となるCARTのタイトルを獲得し、1994年までCARTにレギュラー参戦した。その後も2000年までル・マン24時間レースに参戦。アメリカとヨーロッパの大レースで輝かしい成績を残してきたものの、ル・マンでの勝利だけは実現できなかった(最高位は1995年の2位)。

2000年には国際モータースポーツ殿堂に殿堂入りした。

2003年には負傷したトニー・カナーンの代役として、63歳にしてインディ500参戦を表明[3]。プライベートテストに参加したが、直前にケニー・ブラックがクラッシュした際の破片を踏んだマシンが空中高く舞い上がるクラッシュを演じてしまう。マシンはフェンスに接触した上に縦に3回転したものの幸い元の体勢で着地し、アンドレッティ自身に怪我はなかった。

2006年にはディズニーピクサーの映画カーズで、本人役で声優として出演した。(ただし、アニメの設定上のマリオ・アンドレッティは往年の名レーサーの「車」である。)

2012年にはアンバサダーを務めるサーキット・オブ・ジ・アメリカズ (COTA) の開業セレモニーで、往年のロータス・79をドライブして初走行を行った[4]

2013年には、アニメ映画『ターボ』にゲスト声優として参加した[5]

なお、エイミー・グラントの1991年のヒット曲『Good For Me』の中で歌われている。

アンドレッティ・ファミリー

ファイル:MarioAndrettiAndJohnAndrettiMay2007.jpg
マリオと甥のジョン(2007年のインディ500にて)

アンドレッティ家はレーシング一族としても知られ、息子のマイケルジェフもレーサーになった。マイケルはCARTでチャンピオンを獲得し、F1にも参戦していた。マイケルの子である孫のマルコもレーシングドライバーとしてデビューし、IRLで参戦1年目で史上最年少優勝を遂げている。

マリオの一卵性双生児の兄アルドも元ドライバーで、その息子で甥のジョンアダムNASCARで活躍する。

アンドレッティ家のドライバーは、インディ500で好走しながらもトラブルに見舞われるなど勝利できないジンクスを持ち、いまだマリオが1勝したのみである。息子であるマイケルとジェフ兄弟や、マイケルの従兄ジョンもインディ500は未勝利で、アンサーファミリーが一族で何度か勝利経験を持つのとは対照的である。2006年にはフィニッシュ直前までマルコ-マイケルの親子1-2態勢を築きながら、ファイナルラップでサム・ホーニッシュJr.に交わされ、2位と3位に終わった。

経歴年表

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脚注

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関連項目

外部リンク

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先代:
ニキ・ラウダ
F1ドライバーズチャンピオン
1978年
次代:
ジョディー・シェクター

テンプレート:F1ドライバーズチャンピオン

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  1. テンプレート:Cite web
  2. 他の3人はジュゼッペ・ファリーナカルロス・ロイテマンジャック・ヴィルヌーヴ。但しジュゼッペ・ファリーナはF1開催第一回目に当るので実質2人。
  3. "マリオ・アンドレッティ、インディで復活". Web CG.(2003年4月25日)2013年5月28日閲覧。
  4. "【ビデオ】伝説のレーサー、マリオ・アンドレッティがF1アメリカGPのサーキットを走行". Autoblog.(2012年10月26日)2013年5月28日閲覧。
  5. テンプレート:Cite web