ガティネ家

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ガティネ家ないしアンジュー家は、カロリング帝国初期に創立した貴族家系。この一族は、やがて10世紀にはフランス王国として知られるようになる地域の、下級の封建貴族として最初に現れた。1060年アンジュー伯ジョフロワ3世が母親からアンジューを相続してからガティネ家は著しく台頭し、じきにメーヌを獲得した。十字軍に参加し、テンプル騎士団と密接な関係を持ち始めた後の1131年フルク5世の婚姻によってエルサレム王国を授かった。ガティネ家の本家は1154年プランタジネット家となり、イングランド王国アイルランドウェールズ公国を支配するようになった。これ等の広大な領土はアンジュー帝国と呼ばれるようになる。

起源

テンプレート:Main ガティネ家で最初に記録された人物は9世紀頃のアンジェルジェという名のフランク族の貴族である[1]。後世、この一族の子孫はアンジェルジェないしはアンゲルガリウスはテルチェル(トルチェルフ)とペトロニアの息子であると信じていた[2]877年頃、アンジェルジェは西フランクシャルル2世単純王が発行したキエルジィの勅令集により自身の領地を獲得した。これ等の中にはシャトー=ランドン聖職禄が含まれており、アンジェルジェはガティネフランキアのcasatus(聖職禄などを給された不自由身分の家臣) であった。同時代の記録はアンジェルジェを最適の兵士(ミレース・オプティマス)つまり偉大なる軍人であると言及している[3]

アンジェルジェは西フランク王ルイ2世によって、当時、オルレアン司教によって支配されていたオルレアン副伯(ヴィコント)に任命された[3] 。オルレアンでアンジェルジェはアンボワーズの領主であり権力者であり、ネウストリアの有力者の一族の1人と結婚した。アンジェルジェは、トゥールーズ大主教アダラルドアンジェ主教レイノを母方の叔父に持つアデレーと結婚した。後にアンジェルジェはトゥール知事(軍事守備)に任じられたが、当時そこは、アダラルドによって統治されていたのだった[3]

同時にアンジェルジェはアンジュー伯に任じられたが、当時伯領は最も西でマイエンヌ川までにしか伸びていなかった。後世の資料はアンジェルジェはヴァイキングから守備するために任じられたと記録しているが[4]、近代以降の学者はアンジェルジェの妻の影響力のある親族のおかげらしいと見做している[3]。アンジェルジェはen:Châteauneuf-sur-Sartheの聖マルティヌス教会に埋葬され、息子のフルク1世(赤毛のフルク)が後を継いだ[4]。アンジュー伯領は1060年ジョフロワ2世が嗣子無くして没するまでアンジェルジェ家によって継承され、伯領はその甥(妹の息子)でガティネ伯ジョフロワの息子であるジョフロワ3世が継承した。

アンジュー伯

エルサレムとイングランドの君主

エルサレムのガティネ家

1127年までにフルク5世アンジューに帰る準備をしたが、その時エルサレム国王ボードゥアン2世の使者を迎え入れた。ボードゥアン2世には後継ぎとなる男子がおらず、娘のメリザンドを後継者として指名していた。ボードゥアン2世は強力な貴族にメリザンドを嫁がせることによって、彼女への相続を確実にしようとしていた。フルク5世は豊かな十字軍戦士であり、経験を積んだ軍事指揮官であり、やもめであった。フルク5世の野戦での経験は辺境国家の大概の争いを掌握するのに貴重であった。

しかしながらフルク5世はメリザンド女王の王配になるよりも共同の王になることを申し出た。ボードゥアン2世はフルク5世の富と軍事力に免じて不承不承承認した。フルク5世はアンジュー伯の地位を正式に放棄し息子のジョフロワ4世に譲渡し、エルサレムに向かい、そこで1129年6月2日にメリザンドと結婚した。後にボードゥアン2世は、メリザンドが1130年にフルク5世との間に儲けたボードゥアン3世の唯一の保護者となることで王国における彼女の地位を支えた。

1131年にボードゥアン2世が死んだことでフルク5世とメリザンドはエルサレムを共同で統治した。開始時からフルク5世はメリザンドを排除して自身が唯一の統治者であると見做した。フルク5世は取り巻きのアンジューの同郷人を現地生まれのの貴族よりも好んだ。エルサレム王国より北方の他の十字軍国家は、フルク5世が、ボードゥアン2世が行っていたように、エルサレム王国の宗主権を彼らの上に課すのではないかと懸念していた。しかし、フルク5世は病床にいた彼の義父よりもはるかに権力を持てず、それらの北方の国家はフルクの権威をはねつけた。

エルサレム王国内でも同様にフルク5世は最初の十字軍以来の同地で生まれ育った第2世代のキリスト教徒から反感を買っていた。これ等の“現地の住民”はメリザンドのいとこで、人気のあるヤッファ伯ユーグ2世(ユーグ2世・ド・ラ・ピュイゼ)に焦点を合わせた。彼は、王妃メリザンドに極めて忠実だった。フルク5世はユーグ2世をライバルと見做し、これを追放するために1134年にメリザンドとの間に不貞があったという罪で告発した。ユーグ2世は反旗を翻し、アスカロンムスリムと同盟するためにヤッファを彼らに委ねた。ユーグ2世はフルク5世が派遣した軍を打ち破ることに成功したが、この状態を維持することが出来なかった。恐らくはメリザンドの願いだとは思うが、総大司教が争いの仲裁に出た。フルク5世は和平に同意し、ユーグ2世は寛大にも王国を3年間追放された。

しかしながら、暗殺の試みがユーグ2世に対して企てられた。フルク5世やその支持者達に責任があるとは信じられていたが、直接の証拠は決して表に出なかった。醜聞全体はメリザンド一派が宮廷革命にも等しい政権を掌握するのに必要だった。歴史執筆者のベルナルド・ハミルトンはフルク5世の支持者は宮廷で「自らの生命の危険を曝した」と述べる。同時代の歴史執筆者のギヨーム・ド・ティールはフルク5世について「メリザンドの承諾抜きには、どのような取るに足らないことでも、主導権を握ろうとはしなかった」と記した。その結果、メリザンドは、1136年以降は、直接的で疑いようの無いほど政権を掌握した。また、いつだかははっきりとは分からないが、少なくとも1136年以前にフルク5世はメリザンドと和解し、2番目の子供であるアモーリー1世(アマルリック)を儲けた。

1143年、国王夫妻がアッコンに休暇に赴いていた際にフルク5世は狩猟中に亡くなった。ギヨーム・ド・ティールの叙述によれば、フルク5世の馬は躓いて倒れ、その鞍がフルク5世の頭蓋骨を直撃し、「脳が両耳と鼻から飛び出た」。 フルク5世はアッコンに運ばれ、死ぬ前に3日間無意識の状態だった。フルク5世はエルサレムの聖墳墓教会に埋葬された。2人の結婚は対立した状態で始まったが、メリザンドは公と同じくらい私的に喪に服した。フルク5世は、最初の妻との間に出来たジョフロワ4世とメリザンドとの間に出来たボードゥアン3世及びアモーリー1世よりも先に死んだ。

ボードゥアン3世は母と共同統治する形で1143年に王位に就いた。ボードゥアン3世の初期の統治は、1153年に彼自身が政権を掌握するまでは、エルサレムでの立場を巡る母との口論に忙殺されていた。ボードゥアン3世が1162年に嗣子無くして没したことで、弟のアモーリー1世が継承したが、何人かの貴族は彼の妻アニェス・ド・クルトネーに対する反対があった。貴族達はボードゥアン3世がまだ後継者を儲ける能力があった1157年にはアモリの結婚に同意していた。しかし、今ではエルサレムの貴族会議 はアニェスとの結婚を取り消さない限り、アモーリー1世の王位を認めるのを拒絶した。アニェスへの敵意は、何十年か後にアニェスによってエルサレム総大司教座 になるのを妨害されたギヨーム・ド・ティールの年代記の誇張によって見受けられる。同様にエルノールのようなギヨームの後継者は、"car telle n'est que roine doie iestre di si haute cite comme de Jherusalem" (そこには都市エルサレムの如き神聖な女王がいなかった)とアニェスの道徳心が低いことを暗示した。

それにもかかわらず、血縁関係が近いというのは結婚反対の理由になった。アモーリー1世は同意し、妻抜きで登極した、しかしながらアニェスはヤッファ及びアスカロンの女伯の称号を保持し、それらの封土の収入から年金を受け取っていた。教会はアモーリー1世とアニェスの子供達を嫡出とし、かつ相続における彼らの地位を保持できることを規定した。彼女の子ども達を介してアニェスは20年近くもエルサレムに強大な影響力を持ち続けた。アモーリー1世の後をアニェスとの息子であるボードゥアン4世が継承した。

アモーリー1世の妻であったアニェスは今ではシドン卿レギナルドと結婚し、アニェスの後の妻であり、現在王太后のマリア・コムネナ1177年バリアンと結婚していた。アモーリー1世とアニェスとの娘であるシビーユは、子供を生むには十分な年令に達していたが、彼女の兄弟の後を継ぐには強力な立場にあることが明かであったが、一方でマリアとの娘であるイザベルも継父の実家であるイベリン家の支援下にあった。

1179年にボードゥアン4世はシビーユとブルゴーニュユーグ3世と結婚させようとしたが、1180年の春までには未だ解決しなかった。トリポリ伯レーモン3世はクーデタを試み、王の姉妹を自身が選んだ現地の候補者(恐らくはボードゥアン・ド・イベリン(バリアンの兄))と結婚させるのをボードゥアン4世に強要させるためにアンティオキア公ボエモン3世とともにエルサレムへ進軍したこれとは反対に、ボードゥアン4世はシビーユと軍事大臣であるアモーリー2世の弟であるギー・ド・リュジニャンとの結婚を素早く準備した。外国との縁組は外部からの軍事的援助を引き出すのに必要不可欠であった。ギーが臣下の立場にあるべき新フランスフィリップ2世尊厳王は未成年だったので、シビーユの最初のいとこであるイングランドヘンリー2世ローマ教皇の謝罪のための聖地巡礼の義務を有していた)が役に立った。

1182年までにボードゥアン4世はハンセン病によって次第に能力が発揮できなくなり、ギーをバイイ(代理人)に任じた。レーモン3世はこのことに反対していたが、数年後にギーがボードゥアン4世の寵愛を失うとバイイに任命され、ベイルートの所有権を与えられた。ボードゥアン4世は次第に、レーモン3世及び貴族会議と次のような合意に達した、つまりシビーユが最初の結婚(ギーとの結婚の前に)で儲けたモンフェラート候ボードゥアンを、シビーユやギーよりも上位の後継者と見做すと。 モンフェラート候はレーモン3世が取り行った儀式下で1183年ボードゥアン5世としてボードゥワン4世の共同王に戴冠した。ボードゥアン5世が幼少期の内に没したら摂政の地位は"継承者としての資格を最も有する"近親の男子(イングランド王、フランス王、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世赤髭王)に移り、ローマ教皇がシビーユとイザベラ間の裁定が出来ると同意された。 "継承者としての資格を最も有する"者の名は明記されていない。

ボードゥアン4世は1185年の春に死去し、彼の甥(5世)が王位を継いだ。レーモン3世はバイイだったが、ボードゥアン5世の個人的な保護者の地位を、彼の母方の大叔父であるエデッサ伯ジョスラン3世に譲った、というのも、頑健でない少年王がもし死んだ場合に疑惑を引き付けたくないという理由でだった。ボードゥアン5世は1186年夏にアッコンで死去した。両サイドともボードゥアン4世の意思に注意を払った。

葬儀の後、ジョスラン3世は、シビーユを彼女の兄弟の後継者に指名した、とはいえシビーユは、かつての彼女の父親が彼女の母親と分かれさせられたのと同じように、ギーとの離婚に同意させられた。ただし、新しい夫君(王配)を彼女自身が選べるという条件を保障された上で。一旦戴冠すると、シビーユは直ちにギーを戴冠させた。一方、レーモン3世はバリアンとマリアの拠点であるナーブルスに赴き、王女イザベラとイベリン家に忠実な全ての貴族を召集した。レーモン3世はイザベラとその夫であるオンフロワ4世を王位に就けたかった。しかしながらオンフロワ4世は舅のルノー・ド・シャティヨンがギーの同盟者であることから彼を見捨て、 ギーとシビーユに忠誠を誓った。

エルサレム君主一覧

フルク5世は1136年以降に影響力を失い、1143年に死去した。メリザンドは法律上の権利を駆使して統治した。

エルサレムは1187年に喪失し、シビーユは1190年に死去したが、ギーは王位の譲渡を拒否した。王位は1192年まで争われ、以降は国王はごく僅かな海岸部の狭部を支配した。

エルサレムのガティネ家はイザベラの死で断絶した。サラセン人による征服まで幾人かがエルサレム国王の地位を巡って争った。しかし、 ウトルメール(十字軍の支配下でのエルサレムの名称。フランス語で『海外』の意)がサラセン人によって失われたにもかかわらず、エルサレム国王の称号は幾つかの世代に引き継がれ、今日のヨーロッパの君主のほとんど全てがこの称号を用いている。

関連項目

参考文献

脚注

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  1. Vauchez, Encyclopedia of the Middle Ages, 65.
  2. The anonymous twelfth-century Gesta Consulum Andegavorum names his father as Tertullus nobilem dux, but both the name Tertullus and the title dux are unusual. Another twelfth-century source, the Chronicon Turonensis (c.1180) records that Ingelger was nepos Hugonis ducis Burgundiæ, a nephew/grandson of Hugh, Duke of Burgundy. Rather than a chronologically dubious reference to Hugh the Black, this is thought to be Hugh the Abbot, an influential counselor of both Louis II and Louis III of France. (Later sources confuse this Hugh with Hugh, son of Charlemagne, resulting in some 19th century sources erroneously naming Petronilla as granddaughter of Charlemagne.) Modern scholars are divided as to the historicity of Tertullus and Petronilla.
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 Bernard S. Bachrach (1993), Fulk Nerra, the Neo-Roman Consul, 987–1040: A Political Biography of the Angevin Count (Berkely: University of California Press, ISBN 0 520 07996 5), 4–5.
  4. 4.0 4.1 Anjou: Chapter 1. Comtes d'Anjou atFoundation for Medieval Genealogy: Medieval Lands Project.