長州正義派
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長州正義派(ちょうしゅうせいぎは)とは、幕末の長州藩における派閥の1つ。
概要
江戸時代後期、長州藩内は改革派と保守派とに分かれており、同じ藩主毛利敬親の下で2つの派閥が主導権を争っていた。のちに改革派は正義派と称するようになり、幕府に恭順しようとする保守派を俗論派と呼んで区別した。正義派・俗論派の命名者は高杉晋作。「真の勤皇路線」「真の攘夷路線」(破約攘夷路線)を巡る藩論形成過程において1858年(安政5年)に命名した。
正義派は、藩政改革を進めた村田清風を継いで改革派を率いた周布政之助の下、
- 吉田寅次郎(吉田松陰)
- 桂小五郎(木戸孝允)
- 来原良蔵
- 井上聞多(井上馨)
- 久坂玄瑞
- 高杉晋作
- 寺島忠三郎
- 村田蔵六(大村益次郎)
- 山田市之允(山田顕義)
- 伊藤俊輔(伊藤博文)
- 佐世八十郎(前原一誠)
- 時山直八
などで構成されていた。
対する俗論派は、長井雅楽・椋梨藤太・中川宇右衛門などが代表格であった。なお、正義派と俗論派との間の中間派という人たちも、波多野金吾(広沢真臣)など、少数ながら存在していた。
抗争の過程
- 1838年(天保9年) - 村田清風による藩政改革の本格開始。
- 1843年(天保14年) - 三七ヵ年賦皆済仕法により債務を整理。
- 1844年(弘化元年) - 清風の改革頓挫。坪井九右衛門に実権を譲る。当時は改革を支持。
- 1847年(弘化4年) - 九右衛門、失脚。
- 1851年(嘉永3年) - 椋梨藤太、右筆(政務役)就任。
- 1853年(嘉永6年)
- 1854年(嘉永7年) - 吉田松陰、渡航未遂。野山獄送致。
- 1855年(安政2年)
- 2月、政之助政務役辞任、代わって藤太、右筆に再就任する。
- 5月、清風死去。
- 松陰、杉家に幽囚(後に同地で松下村塾開塾)。
- 1858年(安政5年)
- 1859年(安政6年) - 安政の大獄。藩は、幕府の求めに応じ、松陰を江戸に送致、松陰は伝馬町牢屋敷にて斬首。
- 1861年(文久元年) - 雅楽、公武一和に基づく「航海遠略策」を建白、これが藩論となり、幕府にも歓迎される。
- 1862年(文久2年)
- 1863年(文久3年)
- 1864年(元治元年)
- 1865年(元治2年・慶応元年)
- 1月、大田・絵堂の戦い。正義派が勝利し、保守派を一掃。
- 5月、藤太、断首。宇右衛門、切腹。