甲申政変
甲申政変(こうしんせいへん)とは、1884年12月4日(時憲暦光緒十年十月十七日)に朝鮮で起こったクーデター。甲申事変、朝鮮事件とも呼ばれる。
事件の概要
当時の李氏朝鮮は、壬午事変(1882年(明治15年))で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。
このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、1879年(明治12年)李東仁を日本に密入国させ、福澤諭吉や後藤象二郎をはじめ一足先に近代化を果たした日本の政財界の代表者達に接触し、交流を深めてゆく。日本の政財界の中にも、朝鮮の近代化は隣国として利益となる面も大きいと考え、積極的な支援を惜しまない人々が現れ、改革の土台が出来上がっていった。
開化派の狙いは、日本と同じように君主を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立であった。政府首脳(閔氏一族)が事大政策を採る中、金玉均らは国王高宗のいわば「一本釣り」を計画。外戚の閔氏一族や清に実権を握られ、何一つ思い通りにいかない高宗もこの近代化政策の実行を快諾した。
金玉均らが計画したクーデター案は、同年12月に開催が予定されていた「郵征局(郵政関連の中央官庁。一部で言われるような「中央郵便局」等ではない)」の開庁祝賀パーティーの際、会場から少し離れたところに放火を行い、その後、混乱の中で高官を倒し守旧派を一掃。朝鮮国王はクーデター発生を名目に日本に保護を依頼。日本は公使館警備用の軍を派遣して朝鮮国王を保護し、その後開化派が新政権を発足させ、朝鮮国王をトップとする立憲君主制国家をうちたてて、日本の助力のもとに近代国家への道を突き進む、というものだった。この計画のネックとなるのが清の存在だったが、清は当時フランスと、ベトナムの覇権を争う清仏戦争の最中であり、一度に双方には派兵する二正面戦争はできないだろうという予測がなされていたほか、当時、同戦争のため朝鮮駐留の清軍も通常時の約半数ということもあり、1884年(明治17年)12月、計画は実行に移された。
しかし、この段階まで来て不幸にも清仏戦争で清が敗退し、フランス領インドシナが誕生することになる。せめて朝鮮における覇権だけは保ちたいと考える清は、威信に懸けても朝鮮をめぐる争いで譲るわけにはいかなくなってしまった。開化派は意気消沈するが、予定通り計画を実行する。竹添進一郎在朝鮮公使など日本側の協力のもと、放火は失敗するものの概ね計画は順調に進み、閔泳翊ら閔氏一族を殺害、開化派が新政府樹立を宣言した。そして首謀者の金玉均は、首相にあたる「領議政」に大院君の親戚の一人の李載元、副首相に朴泳孝、自らを大蔵大臣のポストに置く事を表明した。そして、新内閣は国王の稟議を経て、その日の内に、
- 国王は今後殿下ではなく、皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。
- 清国に対して朝貢の礼を廃止する事。
- 内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。
- 宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせる事。
等、14項目の革新政策を発表し、旧弊一新の改革を実現させようとした。
しかしながら、閔妃は清国に密使を送り、国王と閔妃の救出を要請した。袁世凱率いる清軍1500人が王宮を守る日本軍150人に攻め寄り、銃撃戦となった。結局竹添進一郎日本公使は、日本公使館に火を放って長崎へ敗走し、クーデター派は敗退。日本公使館に逃げ込まなかった日本人居留民、特に婦女子30余名は清兵に陵辱され虐殺された。その有様は通州事件に似ていたという[1]。親清派の守旧派が臨時政権を樹立。開化派による新政権はわずか3日で崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命することとなった。残った開化派人士、及び亡命者も含めた彼らの家族らも概ね三親等までの近親者が残忍な方法で処刑された(なお金玉均の妻子については、10年程生死不明で行方知らずとなった後、1894年(明治27年)12月忠清道沃川近傍で当時東学党の乱(甲午農民戦争)を鎮圧中の日本軍が偶然発見し、ようやくその妻と女子は保護されるも、その時の2人は実に憐れむべき姿だったという)。また金玉均は日本各地を転々とした後に上海に渡り、1894年(明治27年)3月28日に刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)に暗殺される。その遺体は朝鮮半島に移送された後に凌遅刑に処せられ、五体を引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。
事件の影響
この後、朝鮮に拘泥するのは双方の為にならないと考えた日本と清国の間で1885(明治18)年4月(時憲暦光緒11年3月)天津条約が結ばれ、双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などを取り決めた。これから10年後、この事前通告に基づき清に続いて日本が朝鮮に派兵し、日清戦争の火蓋が切られることとなる。
金玉均ら開化派を支え続けてきた福澤諭吉らであったが、この事件で朝鮮・中国に対していわば匙を投げてしまうこととなる。とりわけ開化派人士や、幼児等も含むその近親者への残酷な処刑は福澤らに激しい失望感を呼び起こし、福澤が主宰する『時事新報』は1885年(明治18年)2月23日と2月26日の社説に「朝鮮独立党の処刑」を掲載した。さらに、天津条約締結の前月の3月16日に社説「脱亜論」を掲載し、8月13日には社説「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」を掲載するに至った。また、この事件で日本軍の軍事的劣勢もはっきりしたが、この時の経験が後の日清戦争に役立った。
1885年(明治18年)には朝鮮の改革を実力行使で行おうとする大阪事件が起こった。
清国は弱国日本と侮るようになり、1886年(明治19年)8月には長崎事件が起こった。
天津条約に調印したのは、伊藤博文と李鴻章であったが、この二人は日清戦争の後、下関条約の調印の場で11年ぶりに再び顔を合わせることとなる。皮肉にも、この時、勝者と敗者の立場は入れ替わっていた。
注釈
- ↑ 拳骨拓史『「反日思想」歴史の真実』