加賀 (空母)
300px 改装後の「加賀」(1936年)
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艦歴 | ||
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起工 | 1920年7月19日 川崎重工業神戸造船所 | |
進水 | 1921年11月17日 〃 | |
竣工 | 1928年3月31日 横須賀海軍工廠 | |
その後 | 1942年6月5日喪失 | |
除籍 | 1942年8月10日 | |
前級 | 赤城 | |
次級 | 蒼龍・飛龍 | |
性能諸元 (竣工時) | ||
排水量 | 基準:26,900t | |
全長 | 238.5m | |
全幅 | 29.6m | |
吃水 | 7.9m | |
飛行甲板 | 171.4m x 30.5m (上段) | |
主缶 | ロ号艦本式缶専焼缶12基 | |
機関 | ブラウン・カーチス式タービン4基4軸 91,000hp | |
最大速力 | 27.5ノット | |
航続距離 | 8,000カイリ / 14ノット | |
乗員 | 1,269名 | |
兵装 | 20cm(50口径)連装砲2基4門 20cm(50口径)単装砲6門 45口径12cm連装高角砲6基12門 | |
装甲 | ||
搭載機 | 三式艦上戦闘機:16機 一〇式艦上偵察機:16機 一三式艦上攻撃機:28機 合計:60機 | |
性能諸元(改装後) | ||
排水量 | 基準:38,200t 公試:42,541t | |
全長 | 船体:247.65m 水線長:240.30m | |
全幅 | 32.50m | |
吃水 | 9.5m | |
飛行甲板 | 248.60m | |
主缶 | ロ号艦本式8基 | |
機関 | ブラウン・カーチス式タービン2基 艦本式タービン2基 4軸 127,400hp | |
最大速力 | 28.3ノット | |
巡航速度 | 16ノット | |
航続距離 | 10,000カイリ | |
乗員 | 1,708名[1] | |
兵装 | 20cm単装砲 10基10門 12.7cm連装高角砲 8基16門 25mm連装機銃 11基22門 | |
搭載機 | 常用72機、補用18機 1941年12月常用機 零式艦上戦闘機:18機 九九式艦上爆撃機:27機 九七式艦上攻撃機:27機 | |
着艦識別文字 | カ |
加賀(かが)は、日本海軍の航空母艦。加賀型未完成戦艦を改装した大型空母である。太平洋戦争(大東亜戦争)前半においては日本海軍の主力空母として活躍したが、1942年(昭和17年)6月、ミッドウェー海戦にて沈没した。
目次
艦名の由来
艦名は石川県の旧令制国名加賀国にちなんで命名された[2]。空母であるにもかかわらず艦名が旧令制国名より命名されているのは、後述の艦種変更に起因する[3]。日本海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照のこと。艦内神社は白山比咩神社[4][5]。加賀前田家に連なる前田利為侯爵も、軍艦「加賀」に加賀国白山の油絵を献納している[6]。
建造経緯
テンプレート:Main 日本海軍が計画した八八艦隊三番艦、四番艦として加賀型戦艦の二隻が起工された。その三番艦が本艦、四番艦が「土佐」である。1919年(大正8年)1月、海軍は川崎造船所に戦艦「加賀」の建造を命じた[7]。川崎造船所が建造する大型軍艦としては、金剛型戦艦「榛名」、伊勢型戦艦「伊勢」に続く3隻目となる。起工は1920年(大正9年)7月19日[8]。「加賀」は先に建造された長門型戦艦を上回る高性能戦艦として設計され、工事が進んでいた。1921年(大正10年)11月17日午前8時30分[9]、天皇の名代として伏見宮博恭王が参加した他、10万人ともいう観衆が見守る中で進水する[10]。ところがワシントン海軍軍縮条約に従い1922年(大正11年)2月5日に建造中止の通達があり[11]、廃棄処分の決定がなされた。まず標的艦として新型水雷爆弾の実験をおこなったのちに解体[12]。各種資材や部品は、条約によって巡洋戦艦から航空母艦に改造される天城型巡洋戦艦「天城」と「赤城」の材料とする計画がたてられる[13]。
ところが1923年(大正12年)9月に発生した関東大震災によって、横須賀の横須賀海軍工廠で改装中だった「天城」は損傷を受けて破棄されるに及び、代艦として本艦が改造されることとなった[14]。標的艦として横須賀に回航されており、改造は横須賀海軍工廠で行われた[15]。当初の計画では、全長715呎、最大幅110呎、基準喫水幅101呎3寸、喫水21呎9寸、排水量26,950頓、20cm砲10門、12cm砲6門、12cm高角砲12門、搭載機36、満載状態27.6ノットという規模の空母だった[16]。
新造時
ワシントン海軍軍縮条約による主力艦の制限下、補助的艦種としての航空母艦の運用が研究し始められた。そんな中で行なわれた改造ではあるが、当時日本海軍には空母の建造経験は小型空母の「鳳翔」しかなく、戦艦からの改装も日本海軍初であり、新造時備えていた三層の甲板や対水上艦用の20cm砲等が航空艤装の妨げになり後に改装・撤去されるなど模索の中で進められ、1928年(昭和3年)3月31日竣工した。
三段式甲板
艦形の決定の際、同じく他艦種から改造されたイギリス海軍の二段式航空母艦「フューリアス」の影響を受けてか、「赤城」共々、三層の飛行甲板を持つ三段式(雛段式)空母案が採用された。上段を離発着用、中段を小型機の発艦用、下段を大型機の発艦用とし、航空機の機種・用途に合わせ、甲板を使い分けることが考えられた[17]。
しかし航空機の草創期に設計されたため、運用の実際や航空機の大型化を予測しきれず数々の問題が浮上することとなった。問題となったのは発着用飛行甲板の短さであり、特に中段の甲板で顕著に表れ、ここから艦上機が運用上で発艦することはできなかった。飛行甲板と船体に挟まれた艦橋からは搭載機の発艦・着艦統制が難しく、1932年(昭和7年)には甲板のエレベーター右舷に塔型補助艦橋と、飛行科指揮所を設けている[18]。
また煙突の配置も問題となった。当時保有していた空母は「鳳翔」しかなく舷側に煙突を立てたままだと航空機の着艦操作に大きな影響を与えることは実証されている。霞ヶ浦の技術研究所で模型を作ってさまざまな空洞実験を行ったがどうしても解決策を見出すことができなかった。そこで当時参考資料として検討されたのが英空母「アーガス」である。これは煙路を両舷に沿って艦尾まで導き排煙するという方式をとっていた[19]。当時の造船技術者達は「赤城」の方式と実用性の上で比較するためにこの艦尾排煙方式を強く主張し、「加賀」の煙突は「赤城」とは別個のものとして作られることになった[20]。しかし実際には様々な問題が出てきた。ボイラーからの排煙が航空機の邪魔にならないようにと煙路を艦尾まで導いて排煙していたが、長大な煙路の重量、艦内容積の減少に加えて、煙路に隣接する区画の室内温度は40℃にも達したといい、高温により居住に耐えられないという大きな問題を引き起こした。また、艦尾から排出される煤煙が気流を乱して航空機の着艦を阻害することにもなった。この問題は「赤城」と同様の煙突方式を取ることで解決を試みようとされたが、折からの軍縮予算で実現されなかった。
なお、この時期の航空機搭載機数は60機である。
砲備
20cm砲10門を装備。これは近接する水雷部隊からの防御のためであり、艦隊決戦では重巡洋艦並の火力である。そのうち、連装砲二基四門は竣工後に中段の露天甲板に配置された。
速力
同様に艦種変更を経た「赤城」が32.5kt を発揮したのに対して速力は実速26.7kt(公称27.5kt) 止まりであった。「赤城」が巡洋戦艦として設計されたのに対し、加賀が戦艦として設計されたためである。十二基の重油専燃罐と四基のタービンによる出力は9万1000馬力であった。戦艦は重防御で被弾面積の縮小と安定性向上のため船体を短く設計するが、その反面、重量と推進抵抗が大きくなり、高速力を発揮しにくくなる。また飛行甲板も短くなるので空母への改造は巡洋戦艦の天城級の方が適正だったのは否めなかった。計画段階での戦艦としての能力は加賀型戦艦の項を参照。
単層甲板に改装後
改装案として最初にアメリカ海軍のレキシントン級航空母艦のような大型の艦橋を持つものが検討されたが、航空機の発着や友鶴事件を経て重心の低下と風圧側面積の減少に配慮し、格納庫、飛行甲板、艦橋が縮小され、直立煙突の採用は見送られた。
「加賀」には数々の不具合があったため「赤城」より一足先、1934年(昭和9年)6月より改装工事が着手され、1935年(昭和10年)12月に工事が完了した。「加賀」の改装は竣工以来の欠陥の解消だけではなく、性能向上も含むものであったため工事の工数は多く、日本海軍艦艇中、一、二を争うほどの大掛かりなものであった。
問題の多かった排煙方式は「赤城」と同じ弯曲煙突式とし、位置を機関上部右舷に修正した。これによる重量軽減は100トンにも及び、乗員も煙路の高熱から解放されるとともに艦尾から排出される排煙が気流を乱し、艦上機の着艦を妨げるという欠陥も解消した。
また三段式飛行甲板の中下段は廃止され、最上段のみの全通式の一段甲板とした。最上段の飛行甲板は船体長を上回る長さになり、離着艦の滑走距離が大幅に延長された。この際、若干艦尾方向が高くなっていた傾斜飛行甲板はフラットなものに手直しされた。また中下段の飛行甲板の廃止により航空機の格納スペースも増加し、搭載機数も常用72機、補用18機の合計90機と大幅に増加している。大蔵省の記録では加賀(戦闘機24、攻撃機45、計69、補用機31、総計100)、赤城(戦闘機27、攻撃機53、計80、補用機40、総計120)となっているが[21]、改装後の「加賀」は以後に完成した日本の空母を含めても最大の格納庫面積があり、実際には最大103機の運用を可能としていた。ただし零式艦上戦闘機に比べて小型の九六式艦上戦闘機などを使用したものとのこと。燃料搭載量も8,200トンに増加し、航続距離が新造時の14ノットで8,000海里から16ノットで10,000海里に延びた。速力についてはタービンを新式の大出力のものに換装し、機関出力の増大と艦尾延長により、それまでの実速度26.7ノット(公称27.5ノット)から28.3ノットまで向上した。本来であれば赤城と同じレベルの30ノット以上が望ましいが、本改装で排水量が38000t以上に膨れ上がったので致し方ないと判断された。
これらの改装により、「加賀」は空母として一つの完成形に達した。ただし、改善されたとはいえ速力28.3ノットは太平洋戦争開戦時の日本主力空母の中では最も低速であり、他の空母と行動をともにする際に障害になったと言われる。だが一方で「加賀」は航続力や積載力が大きく、作戦立案がしやすい長所があり、たとえば遠距離外洋航行のハワイ作戦では優先的に作戦参加が決められた。ハワイ作戦の事前調査では「加賀」は燃料搭載に余裕があり、公称値以上に航続力があると判定された。このため「加賀」と新型の「翔鶴」「瑞鶴」の3空母による作戦実施も当初は検討されていた。この案には二航戦の山口多聞が反対して「赤城」、「蒼龍」、「飛龍」も作戦に加わったが、これらの空母は艦内に燃料用ドラム缶を多数積載しての作戦参加であった。対空兵器も増強され、連装12cm高角砲を連装12.7cm高角砲に換装、数も6基から8基に増備し、反対舷方向にも射撃が可能なように高い位置に取り付けられるなど、航空艤装、攻撃力、防御力の面で僚艦の「赤城」を凌駕していた。 25mm連装機銃も同時に増強されたがその位置・数は公式図面が残されていないこともあって不明である(11基とする説と14基とする説あり)。 「加賀」には船体が安定しており揺れが少ないこと、艦橋部分の飛行甲板幅も29.5mあるなど広大な飛行甲板を持つこと、その飛行甲板自体も海面より高い位置にあるため(21.7m)各種の作業が波の影響を受けにくいこと、艦橋が右舷前方にあるため着艦時の圧迫感もなく、気流の乱れが少ないことなどの利点があり、使いやすい空母として好評だったと伝えられる。空母「飛龍」(飛行甲板217m、幅27m)から転勤したある艦爆搭乗員は、最初の着艦で「加賀」の飛行甲板の広さに驚いている[22]。「この艦は一種のおちついた威厳を持っていた」「いかにも頼もしい感じがした」という回想も残されている[23]。これらの特徴に加えて、中国戦線を経験したパイロットを多数擁することもあって「加賀」は日本機動部隊の最有力空母としての位置づけにあった。
しかし、問題点もいくつか残されていた。中段飛行甲板に設置された20cm連装砲二基四門は撤去され、代わりに船体後方の舷側にケースメイト式のものが四門追加され、数の上では改装前と同数が維持されたが、この配置は視界、射界ともに狭く、運用実績も不良だった。そもそも航空戦を主体とする空母には不要な装備であり、昭和8年の改装計画に基づくものとはいえ、先見の明を欠いた。アメリカ海軍空母のレキシントン級でも8インチ砲が装備されていたが、艦橋・煙突の前後に背負い式に配置しており、甲板への爆風と重心上昇の問題はあるが、こちらのほうが合理的な配置であった。また、右舷前部に新設された艦橋は重心上昇を考慮してコンパクトなものが設置されたが、最低限の設備しかなく、作戦の指揮を行うには狭すぎるものだった。 「加賀」に限らず、日本空母の共通の欠点としてダメージコントロールへの配慮が足りず、格納庫を閉鎖式にしたことは航空機の塩害からの保護という利点はあるものの、被弾時の被害を増加させ、後の喪失の原因となった。開放式のヨークタウン級航空母艦やエセックス級航空母艦では被弾時にあっても爆風が外に逃げ、また空母搭載の爆弾や航空機などの危険物を海中に投棄することで誘爆や航空機への延焼被害を限定できた(閉鎖式格納庫の危険性については米空母「レキシントン」、日本空母「大鳳」の喪失原因を参照)。 これら近代化改装の結果、加賀は後の「信濃」が完成するまで日本の航空母艦の中では最大の排水量であった。「加賀」の改装工事はかなり徹底したもので、全通一段甲板、右舷前部の小型艦橋、下向き湾曲型煙突、飛行甲板周囲の対空砲火という艦形は後の日本空母の多くに採用された。また水面からの飛行甲板までの高さが21.7mと日本空母のなかでは一番高く、航空機の離着艦には好都合であったが、一方でGM値の悪化を招いたため、両舷にバルジが追加された。予備浮力の大きい幅広で低重心の戦艦からの改造が幸いして「加賀」の安定性は優秀で、荒天のハワイ作戦時においても船体の揺れは新型の「翔鶴」よりも少なかったと報告されている(横揺れについて最大「加賀」3度、「飛龍」11度、「翔鶴」20度)。
また、飛行甲板前部に空母用カタパルトの設置のための溝をつくる工事も佐世保海軍工廠で行われたが、空母用カタパルトそのものが実用化されなかったため、結局未搭載のまま開戦を迎え、カタパルト完成の機会はなかった[24]。結果的に、日本海軍は終戦まで空母用カタパルトを実用化できなかった。
戦役
支那事変
「加賀」の初の実戦参加は1932年(昭和7年)第一次上海事変で、これは史上初の空母の実戦参加でもあった。空母「鳳翔」、軽巡洋艦「那珂」、「阿武隈」、「由良」、駆逐艦「沖風」、「峯風」、「沢風」、「矢風」が行動を共にし、初の機動部隊となった[25]。2月5日に加賀飛行隊の三式艦上戦闘機6機、一三式艦上攻撃機4機が中国軍のO2Uコルセア(I)4機と日中初の空中戦を展開し、双方損害なく引き分けた[26]。2月22日には、加賀飛行隊の三式艦戦3機、一三式艦攻3機の編隊が、アメリカ人義勇兵ロバート・ショートの操縦するボーイング218と空戦となり、艦攻1機が被弾したもののB218を撃墜し[27]、日本陸海軍を通じて初の撃墜を記録した。野村吉三郎第三艦隊司令長官は加賀航空隊の功績に表彰状を与えた[28]。
支那事変当時、「赤城」は近代化改装の最中であり、「蒼龍」「飛龍」は建造中で、実戦投入が可能な空母は「加賀」と小型の「鳳翔」、「龍驤」であった。「加賀」はこれら三隻の空母の中で最大の攻撃力を持ち、支那事変における空母部隊の主力とされ、常に稼働状態であった。海外メディアも「加賀」「鳳翔」「龍驤」の活動を世界に報じている[29]。この時点での加賀艦載機は、九〇式艦上戦闘機、九五式艦上戦闘機、八九式艦上攻撃機、九四式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機に更新されていた。「加賀」に便乗していた城英一郎海軍中佐は周囲に「海軍航空部隊の奇襲攻撃により日華事変は3日で終結する」と大本営の判断を語っている[30]。
しかし、日本軍は中国軍航空隊を過小評価していた[31]。1937年8月15日には12.7mm機銃を持つ中国軍のカーチス・ホークIIIと交戦し、八九式艦攻8機(2機不時着含む)と九四式艦爆2機(1機不時着含む)を一挙に失った[32]。従来からの攻撃偏向に加え当時戦闘機無用論が支持されていたが、これをきっかけに戦闘機が見直されることになる[33]。8月22日には中島正中尉らが操縦する九六式艦上戦闘機隊が「加賀」に到着し[34]、ようやくカーチス・ホークIIIと互角に戦えるようになる。その後も加賀航空隊は中国空軍と激戦を展開し、結果「加賀」の航空隊は日本で最も多くの実戦経験を積んで太平洋戦争に突入することになった。それでも日本海軍は1941年8月までに全体で航空機554機を喪失、搭乗員680名、搭乗整備員148名を喪失している[35]。また当時の「加賀」甲板士官だった板倉光馬によれば、激しい制裁やリンチにより逃亡者や自殺者が出たり、乗組員が食料品を窃盗する「銀蝿」が大規模かつ公然と行われるなど、「加賀」の風紀は海軍艦艇の中で特に乱れていたという[36]。横須賀在泊中に高級将校が艦内に芸者を招いて宴会をしていた事もあった[37]。板倉は「陰湿な気風」と回想している[38]。
1938年に「赤城」が第二次改装を完了すると「加賀」と「赤城」は隔年交代で第一航空艦隊の旗艦を務めた。テンプレート:要出典範囲
緒戦の活躍
テンプレート:Main 開戦時には「赤城」とともに第一航空戦隊を編成し、第一航空艦隊(南雲機動部隊)の主力とされた。 ハワイ作戦について事前の情報統制が徹底されていた影響で浅深度航空魚雷の開発、製造が遅れ、「加賀」は佐世保基地で半製品の形にて浅深度航空魚雷100本を積み込み、1941年(昭和16年)11月17日出港して佐伯湾へ向かう。
第一航空戦隊所属の艦載機部隊は、艦上攻撃機隊64機が海軍航空隊鹿児島基地(戦後、旧鹿児島空港となる)、艦上爆撃機隊45機が海軍航空隊富高基地(戦後廃止され跡地は民間に開放、財光寺#沿革参照)を訓練基地として、そして第一航空戦隊ならび第二航空戦隊所属の艦上戦闘機隊72機は海軍航空隊佐伯基地(戦後廃止され跡地は民間に開放、佐伯海軍航空隊#戦後の佐伯飛行場参照)を訓練基地として[39]、錦江湾や志布志湾、佐伯湾で演習を行い、「加賀」以外の空母は佐伯湾で各艦載機部隊と合流、11月18日佐伯湾をバラバラに分かれて離れ、艦隊が最終集結する千島列島の択捉島単冠湾へ個別に目指していた。 「加賀」も佐伯湾で各陸上基地から離陸した自艦の艦載機部隊を着艦収容し、11月20日に同湾を離れて他艦の後を追った。 乗り込ませた三菱重工業長崎兵器製作所の技術者に、単冠湾への洋上にて魚雷100本の仕上げと最終調整を艦内格納庫で行わせて、真珠湾での航空魚雷攻撃を可能とした。 「赤城」、「飛龍」、「蒼龍」が丸4日かけた佐伯-択捉間を、「加賀」はそれらより足が遅いにもかかわらず3日間と急いで航行し、艦隊集結予定日より1日遅れて11月23日朝8時前に単冠湾へ入港した。浅深度航空魚雷が内火ランチとデリックで「赤城」、「飛龍」、「蒼龍」にも分配されて、三菱の技術者たちは「加賀」から下船した[40]。(しかし機動部隊集結に伴って択捉島はその時、島外との接触は厳しく遮断されており、12月8日に情報統制がゆるめられるまで技術者たちは島内に留め置かれた。)
この後に南雲忠一中将指揮の下で11月26日に単冠湾を出撃し、12月8日の真珠湾攻撃に参加した。この攻撃での航空隊未帰還機は計29機。うち15機が加賀所属機であった。
- 加賀からの真珠湾攻撃参加機
真珠湾攻撃を終えた「加賀」は日本本土に戻ったのち、1942年(昭和17年)1月12日にトラック島に進出[43]。1月19日、トラックを出撃してラバウル攻撃に向かった[43]。1月20日、艦戦9機、艦攻27機が出撃し、ラバウル攻撃を行う。この戦いで零戦1機が不時着、艦攻1機を失った[44]。21日、カビエン攻撃を行い、艦戦9機、艦爆16機が出撃した[45]。22日、第二回ラバウル攻撃が行われ、「赤城」と「加賀」から艦爆32機、艦戦36機が出撃した。対空砲火により零戦1機、艦爆1機が不時着水没したが搭乗員の戦死者はなかった[46]。
2月19日、空母「加賀」、「赤城」、「飛龍」、「蒼龍」はオーストラリアに位置するポートダーウィンに対し空襲を行った[47]。「加賀」から艦戦9機、艦爆18機、艦攻27機が発進[48]。艦爆1機を喪失、艦攻1機が不時着収容された[49]。その後、パラオ港で座礁して艦底を損傷した。
3月1日、米給油艦「ペコス」、駆逐艦「エドサル」を攻撃するため艦爆17機が発進し、「ペコス」を撃沈した[50]。「エドサル」は爆撃により速力低下をきたし、戦艦「比叡」「霧島」の砲撃で沈没した。5日、艦戦9機、艦攻27機が「加賀」を発進し、ジャワ島チラチップを攻撃[51]。この掃討戦の後、「加賀」は内地に戻り、セイロン沖海戦には参加しなかった。また、「加賀」は当初ポートモレスビー攻略を狙うMO作戦に参加する予定であった。しかし練度向上を狙って第五航空戦隊(空母:翔鶴、瑞鶴)の派遣に変更され、「加賀」の参加は見送られた。そのためセイロン沖海戦、珊瑚海海戦に参加した他の空母ほど搭乗員を消耗させることはなかった。もっとも人事異動によって艦乗組員、各飛行隊ともかなりの転出者が出ている[52]。4月18日のドーリットル空襲では、千葉県木更津基地にいた「加賀」の戦闘機隊が一式陸上攻撃機を護衛して米機動部隊攻撃に向かったが、発見できずに引き返した[53]。ミッドウェー海戦時の搭載機(常用)は艦戦18、艦爆18、艦攻27で、当時の日本海軍の空母では最大の攻撃力を持っていた。また珊瑚海海戦で第五航空戦隊航空機が米空母と日本空母を間違って着艦しそうになったことをふまえ、敵味方識別のため、飛行甲板に巨大な「日の丸」を描いた。だが、同時に敵急降下爆撃機にとっても飛行甲板上の日の丸は絶好の投下目標になり、被弾の原因にもなったことから、ミッドウェー海戦後は他の艦船に踏襲されなかった。
沈没
テンプレート:Main 6月のミッドウェー海戦には、「赤城」「蒼龍」「飛龍」の3空母とともに参戦した。「加賀」を含め、日本軍には楽観的な気運が漂っていた[54]。日本時間6月5日午前1時30分、「加賀」からはミッドウェー基地攻撃のための第1次攻撃隊に零戦9機、艦爆18機が参加[55]。零戦1機、艦爆1機が撃墜され、艦爆4機が「加賀」付近で不時着という損害を受け、午前5時ごろ「加賀」に戻った[56]。その頃、南雲機動部隊はミッドウェー基地から発進したB-17爆撃機やSBDドーントレスの襲撃を受けていた[57]。直掩零戦隊の活躍で米軍機を各個撃破する中、米軍機動部隊発見の報告が届く。「加賀」を含めた各艦では、米艦隊を攻撃するため艦上攻撃機に魚雷を装着するなど出撃準備を急いだ[58]。
日本時間午前7時22分、雲間より米機動部隊艦載機30機の奇襲を受ける[59]。米艦上爆撃機SBDドーントレスの急降下爆撃により投下された1000ポンド爆弾を3発まで回避したものの、4発が命中[60]。艦後方右舷、前部エレベーター(艦橋窓ガラス破壊)、前部リフト(艦橋破壊)、艦中央やや左舷の順番で命中した[60][61]。異説として、魚雷3本、爆弾10発以上を被弾したという証言もある[62]。結果、同海戦の日本空母では真っ先に、そして一番多く被弾した。このとき「蒼龍」への襲撃機数は17機、「赤城」へは4機だったことから「加賀」に艦爆機が殺到した形になる。 特に、艦橋のそばにあった航空機用ガソリンを満載した給油タンク車に命中した一発は大爆発を引き起こし、爆風で基部を除いた艦橋を吹き飛ばした[63]。艦長岡田次作大佐以下幹部のほとんどが戦死[64]。続いて兵装転換で格納庫内に散開していた航空魚雷や爆弾、航空燃料満載の艦載機などあらゆる爆発物に次々と誘爆し炎上した。護衛の戦艦「榛名」副長(堤中佐)は爆発7回を数え、「加賀」の生存者はいないと見た程である[65]。「加賀」は格納庫の爆発で舷側を吹き飛ばされ、海面から艦内の構造が見える状態となった[66]。飛行甲板でも第二次攻撃隊機の武装が爆発、さらに航空機から洩れた燃料が艦の動揺と共に甲板に燃え広がり[67]、手がつけられない状態となる。救助にあたった第四駆逐隊「萩風」からは、「加賀」全長230mのうち炎上していない箇所は最前部と最後部のみ30mほどで、そこに乗組員や負傷者が集中している光景が見られた[68]。午後1時30分から2時の間に、艦長に代わって鎮火の指揮をとっていた天谷孝久飛行長が総員退去を決定[69]。乗組員は「加賀」から脱出すると駆逐艦「萩風」、「舞風」に移乗し、御真影(昭和天皇の写真)と軍艦旗も同艦に移されている[70]。この時、米潜水艦ノーチラス (USS Nautilus, SF-9/SS-168) が「加賀」に対し魚雷4本を発射する(萩風からは2本のみ確認[71])。「萩風」(加賀右舷1000mに位置)と「加賀」の間を航走した魚雷は外れ、「加賀」右舷艦尾に命中した1本も不発であった[71]。加賀脱出者が海面に多数おり、ノーチラスに対する爆雷攻撃は思うように行かなかった[71]。対潜警戒も必要となり、駆逐艦による救助作業は困難をきわめた[71]。
午後2時50分、「舞風」は『加賀航行不能、生存者全収容』と報告する[72]。飛行長はなおも機を見て救出を行おうとしたが、16時25分に2回の大爆発が起きた[73][74]。戦闘詳報によれば、メインのガソリン庫に引火したこの大爆発により「加賀」は沈没した[60]。「萩風」砲術長によれば、被弾直後から艦中央部に発生した亀裂が時間の経過と共に海面まで達し、爆発と共に「加賀」は転覆、艦尾から沈没したという[71]。
一方で、「加賀」は駆逐艦「萩風」からの魚雷により自沈処理されたと証言する生存者もいる[75]。国定によれば、「加賀」はほぼ水平に沈み、飛行甲板前部がやや水面に出て、後部が水面に出ていた[76]。夕刻、「加賀」に最後まで残っていた応急科の50名が「萩風」に移る[77]。日が暮れてまもなく、「加賀」は沈没した[78]。生存者の証言は前述のように混乱しており、戦闘詳報にも『本報告は生存者の断片的記憶を整理調製せるものにして、資料不備の為、内容中の必要事項及其の精粗調はざる点あり。照合資料を得次第、訂正を期す』と記載されている[79]。
「加賀」は同海戦に参加した艦艇の中でも人的被害が一番多かった。岡田艦長以下約811人が犠牲となり[80]、その多くは艦内の火災で脱出不可能となった機関部員で、生存者は40名程だった[81]。加賀搭乗員は機上で8名が戦死した[82]。米軍機の攻撃と誘爆により搭乗員13名が戦死し、「加賀」搭乗員は機上・艦上あわせて楠美正飛行隊長以下21名(戦闘機6名、艦爆6名、艦攻9名)が戦死した[82]。少なくとも7機の零戦が「加賀」戦闘不能後も空母「飛龍」に着艦して戦闘を継続したが、「飛龍」の沈没と共に全機が失われた[83]。搭乗員は、付近を航行する軽巡洋艦「長良」(南雲忠一中将乗艦)や駆逐艦「萩風」に救助されている[83]。機動部隊残存部隊と連合艦隊主力部隊(山本五十六連合艦隊司令長官)が合流すると、加賀生存者は駆逐艦から戦艦「長門」に移乗し、日本本土へ向かった[84]。なお「萩風」から「長門」への移乗の際、短艇に加賀乗組員が殺到してバランスを崩し沈没、犠牲者が出たという[85]。
現在、「加賀」乗組員の慰霊碑が長崎県佐世保市の旧海軍墓地東公園にある。石川県白山市三宮町の白山比咩神社にも鎮魂記念碑が立ち、1988年(昭和63年)には県内在住の元海軍将兵が杉を植えている[4]。
艦歴
- 1920年 - 7月19日 戦艦「加賀」として川崎重工業神戸造船所にて起工。
- 1921年 - 11月17日 進水。
- 1923年 - 12月 横須賀海軍工廠で空母への改造着工。
- 1928年 - 3月31日 竣工。
- 1933年 - 10月20日 予備艦に編入。改装工事開始。
- 1935年 - 11月15日 改装工事終了。即日、現役艦に復帰。第二艦隊第二航空戦隊に編入。
- 1942年 - 6月5日 ミッドウェー海戦で大破、沈没。
- 1942年 - 8月10日 除籍。
歴代艦長
艤装員長
- 宮村暦造 大佐:1921年11月1日 - 1922年6月25日(戦艦建造中止)
- 小林省三郎 大佐:1927年3月10日 - (空母建造)
- 河村儀一郎 大佐:1927年12月1日-
艦長
- 河村儀一郎 大佐:1928年3月1日 -
- 宇野積蔵 大佐:1930年12月1日 -
- 大西次郎 大佐:1931年12月1日 -
- 岡田偆一 大佐:1932年11月15日 -
- 原五郎 大佐:1932年11月28日 -
- 野村直邦 大佐:1933年2月14日 -
- 近藤英次郎 大佐:1933年10月20日 -
- 三竝貞三 大佐:1934年11月15日 -
- 稲垣生起 大佐:1936年12月1日 -
- 阿部勝雄 大佐:1937年12月1日 -
- 大野一郎 大佐:1938年4月25日 -
- 吉富説三 大佐:1938年12月15日 -
- 久保九次 大佐:1939年11月15日 -
- 山田定義 大佐:1940年10月15日 -
- 岡田次作 大佐:1941年9月15日 - 1942年6月5日ミッドウェーで戦死
脚注
参考文献
- 近代デジタルライブラリー - 国立国会図書館
- 中島武『航空母艦』(三省堂、1930年)
- テンプレート:Cite book
- 宇都宮敏雄『軍艦写真帖』(宇都宮本店、1936年)
- 海軍研究社編纂部『日本軍艦集 : 2600年版』(海軍研究社、1940年)
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』(海軍研究社、昭和12乃至15)
- 朝日新聞社 編『航空母艦』(朝日新聞社、1942年)
- 永松浅造『海軍航空隊』(東水社、1942年)
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.A03023931500「AP通信の帝国海軍の活躍報」
- Ref.A09050370500「飛行機格納数」(国立公文書館)
- Ref.C08050116900「艦船艦齢線表 昭和17年8月」
- Ref.C08051234400「献納品」
- Ref.C04016421900「件納品受納の件」
- Ref.C04016420500「軍艦加賀へ木彫画額面献納の件」
- Ref.C08050442800「軍艦土佐 加賀製造一件(1)」
- Ref.C08050442900「軍艦土佐 加賀製造一件(2)」
- Ref.C04015098600「軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件」
- Ref.C08050393400「造機部長会議1(2)」
- Ref.C04016182200「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」
- Ref.C05110853000「第2576号 12.5.17 軍艦加賀後部最上甲板居住区室内防熱内張増設の件」
- Ref.C05022107100「官房機密第1757号 7.12.28 軍艦加賀塔型補助艦橋及飛行科指導所仮説の件」
- Ref.テンプレート:Cite book
- Ref.テンプレート:Cite book
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- Ref.テンプレート:Cite book
- Ref.テンプレート:Cite book(軍艦加賀戦闘詳報)
- テンプレート:Cite book
倉橋は1941年9月~1942年9月まで駆逐艦「萩風」砲術長勤務。 - 防衛庁防衛研修所戦史部編『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』(朝雲新聞社、1971年)
- テンプレート:Cite book
- 澤地久枝『滄海よ眠れ』(全6巻)、毎日新聞社、1984年9月~1985年3月、のち文春文庫(全3巻)
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
山川は「加賀」九九艦爆操縦者。1942年4月29日、空母「春日丸(大鷹)」に転勤。調書と異なる回想もある。 - テンプレート:Cite book
- 小谷光四郎『海は燃えている テンプレート:Small』
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
板倉は1937年12月1日~翌3月15日まで「加賀」甲板士官勤務。 - テンプレート:Cite book
小谷光四郎「海は燃えている」(加賀整備員、昭和42年7月号) - テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
関連項目
- ↑ 『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』
- ↑ 「献納品」p.9『(石川県知事→海軍次官殿、大正13年3月10日)…右軍艦加賀ハ本県加賀ノ国名ヲ艦名ニ命名セラレタルモノナルヲ以テ…』
- ↑ 「献納品」p.12、「軍艦加賀へ木彫画額面献納の件」p.3
- ↑ 4.0 4.1 北國新聞2010年6月5日(2012年10月9日閲覧)
- ↑ 「献納品」pp.16,19『(献納)一.加賀国白山比咩神社社殿模型』
- ↑ 「献納品」pp.26-28
- ↑ #川崎造船所四十年史p.71
- ↑ 「軍艦土佐 加賀製造一件(1)」、36、39、43頁
- ↑ 「軍艦土佐 加賀製造一件(2)」、p.10
- ↑ #川崎造船所四十年史p.81
- ↑ 「軍艦土佐 加賀製造一件(2)」、41-42頁
- ↑ 「造機部長会議1(2)」、pp.10-12
- ↑ 「軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件」、p.3
- ↑ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」
- ↑ 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝〈普及版〉』光人社、p.37-38
- ↑ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」、2-3頁
- ↑ 『航空母艦』(朝日新聞1942)pp.31-32
- ↑ 「軍艦加賀塔型補助艦橋及飛行科指導所仮設の件」、1-2頁
- ↑ 『航空母艦』(朝日新聞1942)p.48
- ↑ 『航空母艦』(朝日新聞1942)p.38
- ↑ 「飛行機格納数」(航空隊設備関係説明資料)
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- ↑ #大和主砲指揮所に地獄を見た202頁
- ↑ #指揮官空戦記122頁
- ↑ #中国的天空(上)、72頁
- ↑ #中国的天空(上)、75-76頁
- ↑ #中国的天空(上)、79-82頁
- ↑ 永松浅造『海軍航空隊』p.33
- ↑ 「AP通信の帝国海軍の活躍報」p.1
- ↑ #吉田、指揮官42頁
- ↑ #吉田、指揮官43頁
- ↑ #中国的天空(上)199頁、#吉田、指揮官44頁
- ↑ 戦史叢書95海軍航空概史59頁、#中国的天空(上)202頁
- ↑ #中国的天空(上)、236頁
- ↑ #吉田、指揮官45頁
- ↑ #どん亀艦長青春記101.103頁
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- ↑ 面白いほどよくわかる太平洋戦争 日本文芸社 p.37
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- ↑ #MI海戦日誌(2)、2頁
- ↑ 艦長たちの軍艦史p48、#澤地記録404頁
- ↑ #証言ミッドウェー204頁、#大和檣頭下173-174頁
- ↑ 82.0 82.1 #澤地記録549頁
- ↑ 83.0 83.1 #加賀飛行隊調書、27頁
- ↑ #駆逐艦隊悲劇の記録85頁
- ↑ #駆逐艦隊悲劇の記録86-87頁