西村龍次
テンプレート:Infobox baseball player 西村 龍次(にしむら たつじ、1968年7月18日 - )は、広島県呉市出身の元プロ野球選手(投手)。
来歴・人物
広島県呉市阿賀出身。広陵高校では金本知憲と同期だったが、野球部の厳しい縦関係に耐え切れず1年の1学期で香川県の寒川高校(野球部の3年後輩にココリコの遠藤章造がいる)に転校し、ヤマハを経てヤクルトスワローズにドラフト1位で入団する。
150km/h近い速球を中心にバッターの内角を突く度胸満点の投球で1年目から二桁勝利を挙げる。その怖いもの知らずのピッチングスタイルから「知らずの龍(タツ)」とチームメートから呼ばれていた。ただ、このニックネームは「世間知らず」「礼儀知らず」との揶揄も入っていた模様。
テンプレート:By、初の開幕投手に抜擢され見事勝利で飾る。岡林洋一と共にエース格としてリーグ優勝に貢献したがシーズン終盤に怪我で離脱し日本シリーズの登板はなかった。
テンプレート:By、二年連続開幕投手を担当したがシーズン序盤中々勝てず、初勝利は5月19日ヤクルト×広島6回戦(神宮球場)での1試合両軍合計33得点、2リーグ制以降の最高記録になった試合のリリーフ登板での勝利だった。その後シーズンでは先発ローテーションを維持し11勝をあげルーキーから4年連続二桁勝利を達成。リーグ2連覇に貢献。自身も前年登板できなかった日本シリーズ登板を成し遂げ、チームも見事日本一を達成した。
テンプレート:By5月11日の対巨人戦で7回表、巨人のダン・グラッデンへの内角球が原因で乱闘騒ぎが発生した。この試合では序盤に西村が巨人の村田真一の頭部に死球を与え村田を負傷退場へと追いやってしまう。続いて明らかな報復で今度は巨人の木田優夫が打席に立った西村の左腰付近に死球を与え、両チームに険悪な雰囲気が漂っていた。この乱闘でバッテリーを組んでいた中西親志はグラッデンと本塁上で殴り合い両者負傷した上暴力行為で退場。西村は危険投球で退場処分を受ける。この試合をきっかけにその後危険球の規定が改められている。西村とグラッデンは罰金10万円と10日間の出場停止処分を受ける。それ以降、伝家の宝刀シュートはなりを潜めこの頃から入団からの登板過多により度々故障離脱するようになり、結局この年6勝に終わり、入団以来続いた二桁勝利が途切れ、規定投球回もクリアできなかった。
バッティングは非常に苦手で、ヤクルト時代の監督野村克也は「一番悩ませてくれましたよ」と語っている。連続二桁勝利が途切れた翌テンプレート:Byの開幕直前、DH制のあるパ・リーグ向きとの判断により、吉井理人とのトレードで近鉄バファローズに移籍。しかしこの年の阪神大震災の影響もあって十分な調整が出来なかったことから結果を残せず、わずか5勝に終わる。翌年はプロ初の未勝利。テンプレート:Byはついにプロ入り初の一軍登板無し、二軍でも一試合の登板に終わり、オフに自由契約となった。
テンプレート:Byに福岡ダイエーホークスにテスト入団。先発ローテーションに定着し、10勝をあげカムバック賞を受賞した。
テンプレート:By、前年の活躍もあり開幕投手に抜擢、中盤以降ケガで戦線離脱したがチームは初のリーグ優勝・日本一に輝く。
テンプレート:By、ヤクルト時代の92年、93年、ダイエーでの99年に開幕投手を担当した全ての年でチームがリーグ優勝3回、日本一2回を達成してるジンクスを買われ2年連続通算4度目の開幕投手を担当。しかし慢性的な怪我の影響もあり、この年は開幕投手のみの登板でシーズンが終った。しかしチームは見事2年連続リーグ優勝を達成。
テンプレート:By、もはやジンクスだからと言わんばかりの、3年連続通算5度目の開幕投手を担当。その後ローテーションの谷間で1試合登板したが、前年からの3試合は怪我で思うような調整もできず西村の本来の投球はできずじまいであった。この年チームはリーグ優勝を逃したこともあり、この年限りで現役引退した。
引退後は九州朝日放送の野球解説者に就任。『スーパーベースボール』ではテレビ朝日制作の巨人戦を中心に球種解説として活躍していたが、2000年代後半からはほぼKBCでの解説のみとなっている。その傍ら、福岡市博多区でレストランバー「COUNT」も経営している。
2007年には、NPO法人「ふくろうの森」を設立するとともに、理事長に就任。定期的に野球教室などを開催し、子供たちの「夢」や「希望」を育てる活動にも尽力している。
詳細情報
年度別投手成績
テンプレート:By2 | ヤクルト | 31 | 25 | 7 | 2 | 0 | 10 | 7 | 1 | -- | .588 | 760 | 177.1 | 191 | 23 | 53 | 4 | 6 | 132 | 4 | 1 | 88 | 80 | 4.06 | 1.38 |
テンプレート:By2 | 30 | 29 | 15 | 6 | 4 | 15 | 8 | 0 | -- | .652 | 934 | 228.1 | 202 | 17 | 73 | 4 | 7 | 134 | 8 | 0 | 74 | 71 | 2.80 | 1.20 | |
テンプレート:By2 | 31 | 27 | 9 | 2 | 2 | 14 | 13 | 0 | -- | .519 | 867 | 200.2 | 199 | 17 | 77 | 3 | 6 | 124 | 12 | 0 | 94 | 88 | 3.95 | 1.38 | |
テンプレート:By2 | 26 | 23 | 2 | 0 | 0 | 11 | 6 | 1 | -- | .647 | 646 | 154.2 | 148 | 14 | 42 | 3 | 5 | 98 | 7 | 1 | 71 | 64 | 3.72 | 1.23 | |
テンプレート:By2 | 22 | 19 | 3 | 1 | 0 | 6 | 9 | 0 | -- | .400 | 527 | 124.1 | 116 | 14 | 53 | 2 | 6 | 72 | 3 | 0 | 52 | 47 | 3.40 | 1.36 | |
テンプレート:By2 | 近鉄 | 22 | 20 | 4 | 0 | 0 | 5 | 9 | 0 | -- | .357 | 498 | 113.2 | 115 | 9 | 60 | 1 | 3 | 45 | 3 | 0 | 66 | 59 | 4.67 | 1.54 |
テンプレート:By2 | 4 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | -- | .000 | 61 | 13.0 | 16 | 0 | 8 | 0 | 0 | 6 | 1 | 0 | 11 | 11 | 7.62 | 1.85 | |
テンプレート:By2 | ダイエー | 25 | 24 | 3 | 0 | 0 | 10 | 10 | 0 | -- | .500 | 670 | 152.2 | 163 | 18 | 60 | 3 | 4 | 69 | 10 | 3 | 72 | 57 | 3.36 | 1.46 |
テンプレート:By2 | 11 | 11 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | -- | .571 | 252 | 58.0 | 58 | 8 | 21 | 1 | 1 | 34 | 6 | 0 | 33 | 28 | 4.34 | 1.36 | |
テンプレート:By2 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 19 | 4.0 | 5 | 1 | 4 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 4 | 4 | 9.00 | 2.25 | |
テンプレート:By2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 35 | 7.1 | 12 | 2 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | 0 | 7 | 7 | 8.59 | 1.91 | |
通算:11年 | 205 | 184 | 43 | 11 | 6 | 75 | 68 | 2 | -- | .524 | 5269 | 1234.0 | 1225 | 123 | 453 | 21 | 39 | 719 | 54 | 5 | 572 | 516 | 3.76 | 1.36 |
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- 各年度の太字はリーグ最高
表彰
記録
- 初登板・初勝利:1990年4月10日、対中日ドラゴンズ1回戦(明治神宮野球場)、7回表に2番手で救援登板・完了、3回2失点
- 初セーブ:1990年4月14日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(横浜スタジアム)、9回裏に3番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初先発:1990年4月18日、対阪神タイガース1回戦(明治神宮野球場)、3回0/3を3失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、1回表に和田豊から
- 初先発勝利・初完投勝利:1990年5月13日、対阪神タイガース7回戦(長崎市営大橋球場)、9回5失点
- 初完封勝利:1990年7月29日、対横浜大洋ホエールズ16回戦(明治神宮野球場)
- オールスターゲーム出場:2回 (1991年、1998年)
背番号
- 29 (1990年 - 1994年)
- 21 (1995年 - 1997年)
- 38 (1998年 - 2001年)